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”自分の欲求くらい 自分で満たせよ ばかものよ”ー仕事のトラブルは優先度低めで

毎日投稿しようと試みたが12日目にして継続不可に。

仕事のトラブル
仕事のトラブル
仕事のトラブル(どんだけw)
三連休でライブ2連続の披露がじわじわと効いてきた
仕事とライブの疲れから家事&育児が後回しに

こうして、次々と玉突き事故のように他の予定に割り当てていた時間が
侵食され、仕事も終わらなければ、noteも書けない事態で、何も進まない。

トラブルがあるのは仕方がないと思っている。
私の仕事は控えめに表現しても、爆弾処理だ。
つまり、いつ爆発するかわからないものをなるべくそ〜っと扱い、
爆発しないように本人の元へ返すのがしごとである。

だが、時々、雑に扱ってドカンとなることもあるし、
めちゃくちゃ丁寧に慎重に運んだのに強烈な爆破でぶっ飛ばされることもある。結局、ロシアンルーレットと同じで、最善はつくすが、

「爆発するのは、こちらの預かり知らぬ事情」

とでも思っていないと、精神がやられて自滅する。
これも数年経験して、やっとそう言う心境になれた。
経験が浅くて責任感が強めの人には、やや難しい捉え方だ。

さて、トラブルの何が面倒かというと、仕事が3倍くらいに膨らむことだ。

1:トラブルによって生じた本来やらなくていい「ゼロに戻す」作業
(修正とかはこの類ですね)

2:「ゼロに戻す」ために必要になる「プラスα」の作業
(相手が怒り心頭な場合とかに地面を掘る勢いで謝り倒すのはこれですね)

3:トラブル前から決まっている「やるべき」業務

「1」の作業がものすごい時間がかかる。
つまり、「誰かが勘違い」しているなど、お互いに何かが「ズレ」ているからトラブルが起きるのであって、全部一致していたら問題なく進みますよね?

何が「ズレ」ているのかを確認する作業が、べらぼうに面倒くさいのだ。
それこそ、「干し草の中の針」である。
でも、ここで手を抜くと、映画『シャレード』さながら、別に25万ドル横領したわけでもないのに、次々と悲劇が巻き起こり、一人残らず死亡なんてことも起きかねない。

トラブルなどが起きるとよく思い出す話がある。

昔むかしあるところに、
世界中の人々から注目を集めたエラ〜い先生がおったそうな。

しかし、その先生は編集者に対して、たいっへんきびしく、
水準に達しないものは、ベテランだろうがなんだろうが、
ピシャリと追い返したという。

編集部「先生、こちらでいかがでしょう? 年季は入ってますけどね、上等なアタマを持ってますよ」
先生「うむ。チェンジ!」

編集部「今度のは、いかがでしょう? ちょうど、アブラがのってて今が旬です!」
先生「全然ダメじゃ。チェンジ!」


こうして、次々に紹介するが、先生はお気に召さないため、
ついには紹介できる人間が部内から消えてしまったという。

ニッチもさっちも行かない状況だったが、一か八か、新人(私の先輩)を大先生のもとへ派遣することとなった。

すると、なんと驚いたことに、チェンジ病は収まり、屍を増やさずに済んだそうな・・・。

その若者は教養豊かで博識であり、思慮深い人なので、たいそう気に入られ、最後まで仲良く仕事をしたとさ。めでたしめでたし。

ということで、トラブルは小さいうちに火消ししないと、雪だるま式に膨れ上がって最後、対処不能になる。

なので、必然的にトラブルが起きると3倍の作業に加え「超特急案件」に変更となるため、そのほかの仕事や予定が全線運転見合わせ、運行休止になるのだ。

だから、私が頑張って捻出していたnoteを書くための時間も奪われた。
時間だけならまだいい。
普段の10000倍気を使うから、メンタルが削られる。
出涸らしのような気力は、子育てに回すと何も残らない。

ということで、2日も書けなかった状況説明、改め壮大な言い訳がいま、
完成しました。

ここで、立ち止まりたい。
待てよ。

確かに、仕事のトラブルには対応すべきだ。
さすがの私でも放置することはできない。なぜなら、プロ会社員だから。

でも、よく考えると「優先順位」のつけ方を間違えている。


【優先順位を見直してみる】

仕事のトラブル(私の人生における重要度:★☆☆☆☆)
→翻訳:「俺(私)のことを何より最優先しろ! 俺(私)のことだけ考えて行動しないなんて、何事だ!!!」

※白星を半分だけ塗った記号がないので1にしていますが、本当は0.5

・noteを書くこと(私の人生における重要度:★★★★☆)
→翻訳(心の声):「私を大事にしないとは、何事だ! 何よりも優先して書き続けなさいよ! 他のことなんてどうだっていいでしょ!」

※全くもってその通りだが、私は専業作家ではないので☆を一つ減らしました。

・子育て(私の人生における重要度:★★★★★)
→翻訳(子どもの声):「ぼくと一緒に遊ぶんでしょ!? なんで遊んでくれないの! 他のことなんてどうだっていいでしょ!」

※仕事での私の代わりはいくらでもいます。しかし、君の母親は私しかいない(今のところ)。そして、生物学的な母親は間違いなく世界でたった1人。
彼にとって、私の代わりはいないんです。


よって、本来的には、子どもに割り当てる時間を最重要課題とし、
人生を設計しなければいけないのである。

これは、完全に私の見解だ。
「母親にも自分の時間は必要だ」とか、
「母親だって一人のオンナ」だとかなんとか、そういう意見はもう100周くらい回って、もうさんっざん考えたし聞いてきたからいいんです。

その上で、自分の子どもを見て、自分も子どもと接して感じ考え、
出したというか、自然にたどり着いた結論が、

誰も他人に代わってもらえない役割は、
この世でたった1つ、息子に対して母親であることだ

ということだった。

どんなに父親がかわいがっても、
どんなに祖母がかわいがっても、
どんなに祖父がかわいがっても、
どんなに保育園などの先生がかわいがっても、
それは子どもからしたら関係ないのだ。

「母親」に求めているものは、母親以外に埋められない。
逆に父親や祖父母、先生に求めているものを私は与えられない。

例えば、彼氏がいたとしましょう。
彼氏が仕事で忙しくて、平日はほとんど会えないとします。

彼「ごめん! 俺、いけないから代わりに俺の妹を君の家に行くように伝えといたからさ!」
(迎えにいけないのでベビーシッターおよび祖父母が保育園へ行くのと近い気がする)

とか。他にも、仕事のトラブルで彼が土日に急な仕事が入ってしまい、

彼「俺、仕事になっちゃったから、俺の友達が代わりに遊園地行ってくれることになったから、寂しくないよな!」
(遊園地は別の人と行ってきてね。でも遊園地で遊べるし、かわいがってくれている人がいるんだから寂しくないよね)

と言われているのと同じ気がする。や、極論ですけどね。例えばなんで。

そして、「なんで仕事ばっかなの!」と駄々をこねると、モラハラっぽくキレてこう言われる。

彼「あのさ、俺、仕事行かなかったら、お前、養ってくれんの?」

もはや、黙るしかない。

親戚と友達は違う! とか、世の中みんなで子どもを愛せばいい! とか、そういう話ではないことは伝わったでしょうか。

ベースになる親子関係の信頼があった上でプラスオンの愛情がいくつもあるのは最高だが、ベースもなく「求めているのとは違う人」をあてがわれても、心は満たされないのではないだろうか。

だって、もしもね、仮にですよ?
マカロニえんぴつを見に行ったのに、
「はっとりは急病なので、恐れ多くも声が似ていると言われている本家の方、ミスチルの桜井さんに来ていただきました!」

とか言われても、マカえんファンの私にとっては全く嬉しくないし、
穴埋めにもならず、ただただ「別の人が会場に来て歌っている」ことでしかない。

その人にしか埋められない穴というのが絶対にある。
だから、私は子どもとの約束は必ず守る。
とんでもなく面倒くさかったり、勘弁してくれと思ったりすることもあるが、全部聞いている。

ごっこ遊びも本気でやるので、キャラクターの性格と口調を把握し、どんな行動をするかお話を即興で作りながら、5種類ほどのキャラを操って遊び相手をする。(なので、遊ぶと脳疲労が半端ない)

何かを「買いたい」とか、そういう場合でも話し合いを行い、
無条件に買うわけでなく、説明する。

「これを買うために、君は保育園へ行き、お母さんはお仕事へ行っている。
お父さんも仕事へ行けている。
だから、みんなで協力したから、これを買える」

など多少、恩着せがましいが伝えてから、購入している。
だって、事実だし。

「今日ミートソースのスパゲティがいい」

など、ハヤシライスを作ろうと牛肉を解凍しかけた(夏だったらすでに解凍されていただろう)ところで献立を変更し、
スーパーに保育園帰りに寄るなど、すげーめんどくさい。

でも、それでは夕飯も基本的に自分で選ばせ、
そこから作っている(単に、私が取り掛かるのが遅いだけ説)。
もう一回、書くが、本当にすげーーーめんどう。

じゃあ、なぜやるのか。
私は一人暮らしをした初めての夜、
夕飯に何を食べたらいいのかわからなかった。

実家に居た頃は、何も考えなくても夕飯が出てきた。
(夕食不要を伝えそびれ、食べないこともしばしば)

一人暮らしでは夕飯を用意しなければ、出てこない。
外食するにしても、自分で、このたくさんある飲食店の中から
1つを選ばなければいけないのだ。

それが、なぜかできなかった。

「自分の食べるものすら決められない」自分に対し、恐ろしくなった。
自分でなんでも選んでいるつもりが、「実は、選ばされていた」ことに気づいた。

だから、子供には今から自分で選んで欲しいのだ。
食べるものを選ぶのは本能に一番、近い。
もちろん、選択肢を広げる形でこちらから提示することもあるが、
「決められたものを食え!」と思っても、強く言えないのは、
茨木のりこじゃないが、
”自分の欲求くらい 自分で満たせよ ばかものよ”と思うからだ。

仕事のトラブルは先ほども書いたが、「俺を見ろ」的な主張にすぎないわけで、同じ「俺を見ろ」なら私は子どもを見ることを主体的に選びたいと思う。

だからこその、プロ会社員である。

とはいえ、トラブルが降ってくるとそうも言ってられないので、
目標というか、気概として、というレベルですが・・・。








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