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連休のつれづれ

「みてみて、こおり!」
連休二日目の朝、息子は嬉しそうに薄い氷の破片を見せた。前の晩、たらいに水を張って外に出しておいたのだ。
連休初日に近所の自然公園に散歩に行った時、夏は水遊びが出来るくらいの浅い水路がスケートリンクのように凍っていた。厚みは1cm近くあっただろう。この辺りではそれほど凍ることは珍しいので、家族連れが入れ替わり立ち替わり氷に足を乗せてみたり、板状に割ってみたり、思い思いに楽しんでいた。
家からそう遠くない公園なので、自宅の庭でも氷になるんじゃないか、と思い、水を張ったたらいを出したのだった。思ったほどは厚くならなかったけれど、両手でつかめるくらいの氷になったので、よかった。

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連休二日目の昼、駅の商店街まで歩いて昼ごはんの買い物に行く。ドーナツ屋にハンバーガー屋、パン屋、最後に崎陽軒。全部テイクアウトだ。
近所に住む母に電話をすると、少し体がだるくて食事の支度が億劫だというので、少し遠回りしてシュウマイ弁当を届けることにした。
いつもならそのまま立ち寄って食事をしていくが、今日はお弁当を届けるだけ。どうして家に上がれないの、と不満顔の息子。あーちゃん(※母の愛称。ばあばと呼ばれるのを嫌って好んで呼ばせている)はおなかが痛いんだって、だから一緒にごはん食べられないの、と言い聞かせる。思いの外すんなり受け止めてくれ、母の家へ向かった。

実家に着き、インターホンを鳴らす。「お届けものでーす」と息子の元気な声が静かな住宅街の中に響き渡る。間も無くして父と母と両方出てきた。母も思ったより顔色は良さそうだ。仕事の疲れが抜けないとのことだった。
庭先で二言三言、言葉を交わす。寒いし長居をしても、と思い帰りを促すと、息子は母の耳元に顔を寄せ、小さな声で「おだいじにね」と言った。

最初は聞き間違いかな、と思った。でも気になって、あーちゃんと別れるとき最後になんていったの、と聞いてみた。あーちゃんおなか痛いんでしょ?だからおだいじにっていったんだよ、と言った。
聞き間違いじゃなかった。大丈夫、でもなく、元気になってね、でもなく。
絶妙なタイミングで正しく「お大事にね」と言っていた。私は息子に対してそういうふうには言わないので、どこで覚えたのだろうと思い巡らせる。同時にその心根の優しさを嬉しく思い、また一方で少しどきりとする。
私は、同じくらいに優しくいられているだろうか。素直に労りの言葉を口にできるだろうか。

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土日と長く歩いたので、連休三日目は家で過ごすことにした。日差しもなくひたひたと寒い一日だったが、家の中の遊びが好きな息子からは出掛けられなくても特に不満は出ない。
一人遊びに興じている隙に、寒中見舞いを何通か書く。一昨年に父方の祖母が、昨年母方の祖母が立て続けに他界し、近況を報告する手紙を書く相手が一気に減ってしまった。二人ともメールをしないので、いつも手紙を送っていたのだ。
泣くほど悲しい、というところにはもういない。ただ、寂しい。

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成人の日。
5歳の息子に、大人になるってどういうこと?と聞いてみた。

・ひとりで電車に乗れる。
・お料理ができる。
・ごはんのお買い物ができる。
・高いところが届く。
・お仕事に行ける。

お仕事は行きたくて「行く」もの。だから「行ける」なのだ。「行くべき」でなく。
そう見えているなら、なにより。いつまでもそういう背中を見せられたら、と思う。

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