harbor・港
ものは来て去る。他人もまた来て去る。私たちもまた、行っては去る。高速回転している世界では、人が、ものが、私たちが交錯するスピードはあまりに速すぎて、少しスピードダウンしてくれればいいのにと思ってしまう。
ベルリンでの学期が終わった4月末、ロシアに帰国する友人を空港まで見送った。これだけ国を行き来しているというのに、親以外の人に空港まで見送ってもらったことがない。人を空港まで見送ったのも初めてのことだった。移動とは、同時進行するいくつもの泡の一つから別の泡に途中参加することだと思っていた。一人の人生の区切りや都合など関係なく地球は周り、大きなものが終わった気がしても(卒業とか)、翌日には何事もなく昨日と同じ一日が始まる。「始まり」や「終わり」は自分のものに過ぎず、周りは、社会は、世界は、何も存じず昨日の続きを演奏している。空港で友達に送り出してもらうのも、それと同じ匂いがする。送り出す友人がゲートを潜った瞬間、彼らは彼らの日常に戻る。そうやって回り続ける世界の中に、私の「始まり」や「終わり」の旗を立てるのは、拒否感があった。空港でのお別れというのは、薄っぺらいとさえ思っていた気がする。だが今回、初めて、大きな循環に帰還したくないと思った。日々循環の速度を上げる世界に感覚が酔ってしまう。
人も物も交錯する港では、日々新しい出会いが待っている。南からの壺、西の歌、隣国の人、似ているようで似ていない人たち、私たち。抱擁のような穏やかな温かみがもあれば、ギラギラと砂漠の太陽のように輝いていたりもする。憂いのある柳のような人もいれば、泥沼から出てきたみたいな人もいる。あなたを知りたいと、この人との未来を見てみたいと思っても、ほら、すぐに汽笛が鳴って出港の時間。ものと人を見る数だけが増えていく。消化もそこそこに、次の地に降り立つ。私はどこへ。何故に。
透明な気持ちとはとてつもなく綺麗なものだ。空気のように透き通っていて、糊のようにトロッとしている。ダイヤのように輝いているかと思えば、空気のように私たちの間を埋めてくれる。縮めるわけでも伸ばすわけでもなく、ただ、そこにいる。それがもどかしかったり煩わしかったりする。でも透明な気持ちだけは、持っていけない。道端で見上げたソメイヨシノの枝を折るように壊して持っていけはしない。透明な気持ちもまた生命だからだろうか。私とその場所とその空間から養分をとって存在しているんだきっと。そんな透明な気持ちは、離れるのは簡単で、出会うのはまたとてつもなく難しくて。でも、それでも、透明な気持ちと出会うたびに私のことを一つ多く知れる。そんな透明な気持ちを求めて旅を続ける。
例えば森の中の雨。友人の傘の下で聞いた韓流Lofi. 住んでいるのに住んでいないような気がする現実。そぐわなかった人と再び出会った時の不思議な心地よさ。夜10時に締まりかけのスーパーで買ったチューリップ。壁に貼ってあるプリクラたち。木の机、リズムを刻むキーボードの音。日常。そんな透明が積もって線を書く、全体を描いていく。髪を描くウェーブ線。確かで、しなやかで、艶やか。
この回転を一瞬だけ止めて、透明を、切り取っていく。