めいこ
ソウル。 あなたをどうやって説明すれば良いのでしょう:淡々としたカフェのリズム、夜のバス席、午後5時に見つめる私の影、なんだかプラスチックな渋滞。ラジオ局に向かう道、午後一時、昼の街。 バスに揺られながらコンピューターサイエンスの課題をやっては酔いました。寮の坂下、バブリーな日本居酒屋ですきやきを頬張りながらビールを欲しがる肝臓をたしなめました。私たちはいつも、切迫した時間割と、膨大な課題と、夢の中で私たちを追いかけてくる将来とかいう怪物の合間を縫ってあなたを知ろうとして
部屋で一人、ロンドンの住宅街。サイレンが平日も鳴り止まない街の静かな空間で呼吸をする。 もうすぐ大学を卒業する。友人の多くは未だこの静寂を知らない。サイレンが鳴り止まない静寂な空間とどう向き合えばいいのか、躊躇して、明るい明日の夢をみる。 私たちは静寂を恐れる。壮大な微音の合唱は、自分の小ささを際立たせる。社会は猛スピードで進むから、自分も走り続けないと餓死すると教えられている。頭の中の声が大きくなる。走れ、走れ、走れ。なぜ休む?空間は壮大で怖い。我々は空間を支配するため
とろっと溶けるようにその夢は終わった。 夜3時、ふと目が覚めた。いくらでも交換のできる、不思議なラーメン屋の夢を見ていた。夢は夢の中だとそれを当たり前に受け入れてしまうから不思議だ。ゆっくりと転がるようにしてベッドから降り、便所にとぼとぼと入り、扉を閉めた。ぼぉーとしながら、ラーメン食べたいなぁ、と思った。夢見心地でトイレのレバーを引いて、水の流れる音と共にドアをあけると、彼はそこにいた。ソファの上で、そこにいるのが当たり前みたいにパソコンのキーボードを叩いて、「起きちゃっ
昔わかっていたような気がすることが、今はわからなくなっている。一年前は座って指を動かすだけでつらつらと流れてきた文章が、今は書けなくなっている。振り返れば過去は、キラキラと生き生きと見えるけれど、なんででしょう。昔好きだった曲があんなに美しく聞こえるのは、何故?あのリズムが、スピードが、生活が、懐かしい。戻りたいとは思わないけれど。 社会が人生を年齢で区切ってフェーズ分けすように、人生にはフェーズがあると思う。人によってフェーズの乗り越えかたもスピードも違う。私がノロノロと
弟を諫めるように私を嗜める母をみて、「私はまだ彼女にとって嗜めなければならない存在なのか」と愕然とします。大人になりたい私の生焼けの成人性が未熟さと羞恥の刻印を押されます。 家とは暖かいようで、私にとっては一番自分の恐怖や不安と向き合う場所である気もします。両親からの承認、昨年帰省したときからの反応の変化、大学を卒業するにあたって肩にかかる期待やプレッシャー:まだ親の視線から抜け出せない私にとって、実家とは、肩の荷や息苦しさをもってして、自由を求めた自分を思い出す場所です。
3年生も終わりを迎えました。5/7都市を巡り、残すはあと2都市になりました。少しずつ何かを探す自分の中の葛藤の波が落ち着いて、静かになっていくのを感じます。木の葉が落ちる音や揺れる音、風の優しい響きと暖かさ、花の美しさや鳥の鳴き声の清涼さ、喧騒の中の日常、その中の美しさに少しずつ目を向けられるようになってきました。 今学期は100メートル走のようにすぎて行きました。必死に走って、周りとどんぐりの背比べをし、理想の自分に追いつけない自分を受け入れる努力をしました。永遠に感じた
最近よく眠れなくなった。3時に寝床につき、7時に起きた。意味もなく高速回転する頭と走り回る思考をどうすることもできずに、チキンスープを作った。少し吐き気がした。 夢を見なくなったわたしたちへ。少しずつ遠のいていく水平線へ。夢が少しずつ軽くなって、当たり前を手に入れるために馬車馬のように働く日々が続きます。就職活動をしながら、やりたくないことばかりが明確になっていく日々には正直辟易とします。 夢を見なくなったわたしたちへ。毎日は明るいですか。夢無くしても人生は輝いていますか
何かを考えている。生きること、自由になること、私が好運であること、インドにいること。スズキの灰色のバンからま新しいものを見るように私を見る、正座した青年。彼を見つめる私と私を見つめ続ける彼。違う私たちとまるで同じなわたしたち。 息をしている。排気ガスの混ざった湿っぽい夏の風。まだ夏本番でもないのにジリジリと照りつける日差し。赤い車がやけに目にとまる、そんな昼頃。 見つめている。蛍光色の黄色い看板。読めはしない蛇みたいな文字列。同じようにこんがらかっている私の脳みそとシナプ
黒い感情に人はなんと名前をつけるのでしょう。 嫉妬、愛、嫌悪、恐怖、卑小感。 自分が喉から手が出る欲しいものを、手に入れられないものを、人が楽しそうに掴む姿を祝えない私たちはなんて小さな人間なのでしょう。愛を受け入れられないのでしょう。 自然が一朝一夕でできないように、手に入れたいものが簡単に手に入らないことも苦しいほどわかっているはずなのに。なのに私は自分の部屋に鍵をかけ、外に出る精神的努力も肉体的努力もせずになにかをしないことの言い訳ばかり見つけているのです。この年で
去る年へ。 私の時間は人と思考でできているのだと思います。今年の人の出入りはせせらぐ小川のようにゆったりと流れていきました。 離れていく縁、つながる縁、ぷつりと切れたまま浮いている縁。その縁は結び直せるのでしょうか。長い間、時間が止まったように感じていました。一つの出来事が、大きな隕石のように風穴を残しました。傷つくよりも癒えるのに時間がかかるのは知っていましたが、ここまでとは思いませんでした。時間も記憶もすべて人を通して作られるのだから不思議です。自分との対話、他人を他
美しい気持ちや感情はまるで夕暮れ時のようです。受け入れる花束、去っていく花束、視野の外で枯れていくたんぽぽたち。悲しみも幸せもきっと世界にはありふれるほどありふれているのでしょう。そういった悲しみたちが見えない世界というのが美ということでしょうか。 美しい気持ちもまた、悲しみと同じように、波のようです。来ては去り、去っては訪れ、混ざりに混ざり合ってどちらが美しくどちらが悲しいのかすらわからなくなってしまいます。 夕暮れ時はそんなことを考えます。失ったもの。美しい創造性、上
この都市でも、またこの季節がやってきました。夏であろうと冬であろうと、春が頭を出したばかりだろうと、関係のない、ミネルバの季節です。さようならの季節です。 ブエノスアイレスへ。あなたは私の愛おしい弟でしょう。恋人はどこまでいっても他人です。ソウルは他人行儀な街でしたが、あなたは懐が広い街です。ブエノスアイレス、あなたの見せるすべての顔を脳に刻みつけられればいいのにと思います。足りない資本と、密度の足りないアート、造りが古すぎて乗客を転ばせるバス、開発されきっていない道並み、
実はここにあると思っていたものが、スルッと風に飛ばされて飛んで行ったり、そこに実はなかったりします。自分が作り出していた何かです。その反対に、きっとずっとないと思っていたものがあったり、または、ないと嘆いていたものがひょんなことに風に乗って舞い戻ってきたりもするのでしょう。 人生は回り道だと前にこぼしましたが、環境もまた風のようです。巡り巡って手紙が飛んできたり、石ころにぶたれたり、雨がふったり、または晴れたりととんでもなく忙しいです。これを受け入れる器を作ることがきっと修
不意に魅せられて手を伸ばした花に 近づきすぎては刺されて ぷくりと浮かぶ赤い丸に ぽおっとして気づかないままで 気がつけば赤玉は流れになって ぽおっとしたままに 血が抜けていく生命は動きもせず 赤を流し続けて あるときはっと目が覚めて 流れを止めてからふと気づく 刺されたのだ。 息を 吸って 吐いて 少しずつ再来する流れに 手を伸ばしすぎたのか。 と疑い 手を伸ばさずに生きていかねばと 螺旋を降りて 棘跡も消え花のことさえ 忘れているのに 私の花ばかり少し しお
地球の南側にもまた、同じように街が広がって、人々は背の高い摩天楼の下をありんこのように歩いて過ごすようです。私の勘違いでしょうか、この街の日の差し方は、東京とも、ベルリンとも、ソウルとも少し違うような気がします。ブエノスアイレスというカタカナの堅物な印象は、この街に似合いません。Buenos(良い)Aires(空気)と直訳されるように、この街で流れる大気中の分子たちは、すごく爽やかで光に満ちています。 アメリカは西海岸のような町並み、アメリカより味深い文化と、温かい人たち。
日本を発つ決断から7年が経過し、私のアイデンティも交友関係も地政学的に広く分布していきました。それに呼応するように、周期的に、安定が恋しくなります:4ヶ月ごとに土地に「さようなら」と告げなくていい日常が、終わりを意識しない生活が、淡々と本のページがめくれるように広がっていく交友関係が、文化と政治の間でアイデンティティに困惑しない日々が、住んでいる国の一部であるという感覚が、その自然な緩やかさと穏やかさが喉から手が出るほど欲しくなるのです。経験の幅が広がるごとに深まる人生への困