2022夏 手記
日本を発つ決断から7年が経過し、私のアイデンティも交友関係も地政学的に広く分布していきました。それに呼応するように、周期的に、安定が恋しくなります:4ヶ月ごとに土地に「さようなら」と告げなくていい日常が、終わりを意識しない生活が、淡々と本のページがめくれるように広がっていく交友関係が、文化と政治の間でアイデンティティに困惑しない日々が、住んでいる国の一部であるという感覚が、その自然な緩やかさと穏やかさが喉から手が出るほど欲しくなるのです。経験の幅が広がるごとに深まる人生への困惑も、たびたび変わる近所の街並みも、旅生活で埋まらない心の溝を埋めようと手を伸ばして走っては落ちる心情にも、徐々に慣れてきました。二年の時をかけて、この非日常を自分の中に落とし込みました。
このとんでもない荒波へ。虹色の光の豪雨へ。4ヶ月ごとに変わる故郷へ。商船のように港に入っては出る私へ。その度に迎え入れてくれる現地の人々へ。去っては他人のようになってしまう人情と距離へ。ずっとこの荒波を乗りこなすのに必死でした。大学生活も半分が過ぎてやっとこの大海から頭ひとつ出せた気がします。やっと、海面から頭を出して息が吸えた気がします。ありがとう。活力を、心の熱量を、落ち込みを、来ては去る津波を、ありがとう。そうして私を汚し、洗い流し、削り落とされては芯が少しずつ見えてきます。今私が見渡していることを少しばかり書き落とそうと思います。また私が荒波に飲まれて上手く息を吸えない時に足掛かりになりますように。
人は来て去る。私が行って去るように、人は出会い、成長し、変化し、そしてひょんなことで去っていきます。本の章が終わるように人との物語はごく自然に、唐突に終わりますが、本と違ってその物語を読み返すことはできません。記憶は色を変えてしまうからです。乗った車から見た景色も、一緒に飲んだお酒も、撫でた犬も、覚えているけれど、今再生ボタンを押したところで、色味を変えて、長さを変えて、再生されてしまいます。去った人や場所を擦り切れるまで再生すればするほど、どうやら私たちは記憶を編集してしまうようなのです。そうやって綺麗に着色された記憶達は短期的な慰めと、長期的な憐れみをもたらす気がしています。
進みたいのと同じくらい、戻りたい。外に出て色づいた日常と戯れたいのと同じくらい、暖かい布団に包まって離れたくありません。変化を求めて荒波に揉まれているのに、枝にも留まっていたいようです。ずっと止まり木が欲しいと思っていました。それが人なのか、場所なのか、物なのかはわかりません。自分が選んで乗った波なのに、倒れた大木に捕まって動きたくないと思うのは矛盾ですね。なんなら山にも、海にも、都市にも、田舎にも、同時に一斉に居たいのです。
この夏もまた、出会いが海岸に打ち寄せては引き、たまにきらりと光っては遠くに消えていきました。「またね」と、いつまた会うかもわからないくせにそれが当たり前のような顔をして別れるのが私たちらしいのかもしれません。でも、今回は不確かなまたねではなくて、確実な別れを。
さようなら、東京。さようなら、熟れては腐っていく果実。あなたを糧に、また、私は育ちます。あなたの地を蹴って、また、旅たちます。