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町、街、まち

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昨日、noteとinstagramに投稿した記事を執筆していた時の話。


冒頭を、「私が住むこのマチには、〇〇がある。」という一文でスタートしようと思った。

昨日のテーマで言えば、この「〇〇」には「商店街」を入れたかった。

「私が住むこのマチには、商店街がある。」

この一文を書きたいと思った時に、この一文の中に出てくる「マチ」は、「町」と「街」、どちらの漢字が正しいのだろうと思い、少し悩んだ。

執筆をしているとこういった事は日常茶飯事で、一つの記事を書くのにもいくつも言葉の意味や使い方を調べ直す、なんていうことは当たり前のように発生する。

昨日悩んだのは、確かに、「どちらの漢字が正しいのか」という悩みではある。

「町」は、人が住む場所のイメージ。
「街」は、それこそ商店街のようなお店や施設等がある場所のイメージ。

ここまでは私たちも普段、自然と使い分けをしているかと思う。

私が昨日悩んだのは、その少し先の話であった。

「私が住むこのマチ」とだけ書くとするならば「町」を使うのがきっと正しい。
「商店街があるマチ」を説明したい時にはおそらく「街」を使うのが正しい。

私が使いたかった一文、「私が住むこのマチには、商店街がある。」
このたった一文だけでも、どちらの意味も含まれてしまうのだ。

前後の文が、真ん中にある「マチ」を引っ張りあった。
まるでこの前後の文に、「こっちもそうだよ」、「こっちだってそうだもん」と、言われているような状況になった。

どちらの漢字でも伝わる時というのがある。
別にどちらの漢字を使ったら間違いで、なんてことはない時がある。

今回においては、どちらでも良いのだろう。
ましてや個人的なnoteの記事であるのだから、クライアントの方がいるわけでもない。
尚更、どちらの漢字を使っても問題はない。

だが凄く悩んでしまった。

どちらの漢字を当てはめてもいい場合、私は、前後の文章とのバランスを見ていることに気付いた。前後の文章の画数が多いか少ないかをまず見るかもしれない、と思った。

あまりにも画数が多い文章が続いていると、読み手は疲れてしまう。
逆にあまりにも簡単過ぎる言葉の連続や、ひらがなやカタカナが多い文章では、内容、読み手によっては今度はそれも、有益な情報ではないのかと取られやすかったりする。

今回執筆しようと手を付けた記事は、スタートダッシュのたった一文から悩まされた。

では他のライターさんや記事は「マチ」をどう使っているだろうと調べてみた。
やはり「町」も「街」も、どちらの漢字も使われている。
使い方は各々の判断になる漢字なのだということは分かった。
いっそのこと、「地域」など別の言葉を使うことも考えたが、それではイメージが変わってくる。

出来る限り自分の伝えたいシーンや、温度感、そのリアルを、ライターである私は「言葉」を使って表現したいわけだ。

だからこそ自分自身が引っ掛かる言葉は調べる。
自分が読み手だとしたらどういう受け取り方をするかを考える。
きっと「地域」では、読み手が文章を読みながら想像する情景は異なってしまう。
単語一つ、漢字一つがイメージさせるものはある。

では漢字を使うのをやめてみようか、考えてみた。

本でも歌の歌詞でも、日常にある、私たちが目にする言葉の中で敢えてひらがなにされている場面は意外と多かったりする。
漢字で表現をすることが可能な言葉について、ここではどうしてひらがななのかと考えてみることが私自身は前々から好きだった。
前後の言葉とのバランスなのかなとか、正解はそれぞれに考えてもらいたかったのかなとか。

その答えに辿り着くことができなくてもいい。
考えてみるということ自体が、自分の中の想像力を広げることに繋がるし、人としても柔軟な考え方を養っていく。

言葉に悩まされることは多いけれど、結局、言葉はやっぱり面白いなと思う。

私は中学、高校時代と、教科は英語と体育と音楽しか出来ない学生だった。
大学でも一応英語を専攻し、その後勤めた会社でも英語は少し使っていた。
英語の言葉の面白さもある。
それについては今後徐々にライターとしても手を付けていきたいところではあるが、それよりも今は、日本語の面白さ、日本語の繊細さに楽しみを見出している。

敢えてひらがなを使っている、敢えてこの漢字を使っている、そういった文章、キャッチコピーには何かしら作者の想いや、意図があるのではないかと思う。

ああ、だから日本語って面白い。

昨日の記事に関しては、悩んだ結果、ひらがなを使うことにした。

「私が住むこのまちには、商店街がある。」という一文で始まる記事にした。

改めて、これが言葉の面白いところだなと思った。


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