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Black History Monthの授業で学んだこと

カナダでは毎年2月は、Black History Monthとされている。政府のホームページにも特設ページが開設されていた。

さて、昨日クラスにゲストスピーカーがやって来た。彼女のプレゼンテーションを聞くのはかれこれ3回目。Toronto and Region Conservation Authority (TRCA)という団体から、いつもの彼女。2時間半、とても充実した時間であった。スライドをお見せ出来たらいいのだけれど、著作権の関係でプレゼンテーション中の写真撮影等は禁止で、自分のメモのみ。

実は、週末に目を通しておくように、事前資料を貰った。そこには、カナダとアメリカの奴隷についてや、その他の歴史のキーワードがぎっしり記されていた。はっきり言って、どれも聞きなれない言葉ばかりでこういう時ばかりは、こちらの高校を出ておきたかった…などと思ってしまう私。北米の歴史にめっぽう弱い。

そうして始まったZoomミーティング。彼女が初めに指摘したのは、「オンタリオ州の8年生の歴史の教科書255ページのうち、たった13ページだけがBlack Historyを取り上げたものである。」という事実。

実は、以前、カナダの先住民について学んだ時も、同じような話を聞いた。その日は学校の講堂に先住民の方々が伝統楽器のパフォーマンスを、更に彼らの権利等を専門に扱う弁護士(彼女自身も先住民族のルーツがある、と話していた)からレクチャーを受けた。その当日の、司会者が言った。「僕は、トロント市内の学校で教育を受けているが、我々の”先住民”の事を学ばなさに驚いたんだ。教科書はもちろん、授業でもたった数時間取り上げられただけ。それで、もっと知りたい、もっと世間に問題提起したい、と思って、この団体の門を叩いたんだ。」

現カナダでの奴隷の歴史

さて、話を戻そう。奴隷制度。私も日本の学校でそれらについて学び、近年のBLMなどの活動やニュースから理解を深めていたつもりであった。ところが、まず驚いたのが、ここ現カナダでも奴隷が存在していたという事実。(カナダは国としての歴史は浅く、今年で153年目)

現カナダに初めて奴隷として迎えられたのは1629年、一人の少年であったそうだ。奴隷船自体が現カナダに到着する事はなく、戦争の捕虜として捕らえられていた近隣の植民地から、また現カナダの商人がルイジアナや南部の出張から奴隷を連れて帰っていたという。

現カナダでは1671年から1834年までの間に、約4,200人の奴隷が存在したことが明らかになっている。大半はアフリカ人ではなく、その約2/3が先住民であったという。

1793年、現カナダでの奴隷貿易がジョン・グレイヴス・シムコー州副知事によって廃止。米国の1850年、逃亡奴隷法の制定と併せて、その前後から現カナダへ亡命する奴隷が多く居たという。

逃亡奴隷法については、Fugitive Slave Act of 1850で検索すると、当時の「$150 REWARD」”逃亡した奴隷を見つけたら、$150の報酬”(1850年で換算した現在の価値でいうと約$5,030、日本円にして533,049円)や

RUN AWAY」「CAUTION」など見出しが大きくかかれた文書を目にする事が出来る。それらには、彼らの喋り方の特徴や服装や身長等、事細かく記されてある。生きたまま見つけたら幾ら、死亡した事を証明出来たら幾ら、という記述もあった。

逃亡の秘密組織、地下鉄道

地下鉄道、というとなんとなく記憶にある。学生時代に学んだ記憶。しかしその全容を覚えている訳ではなく、なんとなく名前に身に覚えがある、といった程度。

逃亡の為の地下鉄が、その時代に本当にあった訳ではなく、これは亡命を手助けした奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織。また、その逃亡路を指すこともある、とのこと。

これについては、以下Wikipediaがよくまとめられていると思う。

地下鉄道は主に、秘密の通過道、乗り物、待ち合わせ場所、隠れ家、そして奴隷制度廃止論者たちによる誘導や補助で構成されていた。特に廃止論者たちは、地域ごとの小さな班に分けられ、自分たちの地域だけにおける地下鉄道の詳細な情報を知るという慣わしだった。ひとつの「停車駅」から次の「停車駅」へ、黒人たちは停止地点ごとに違う人々の補助を借りて、目的地まで進んだのである。  ーーWikipediaより抜粋 以下に同じ
逃亡中、奴隷たちは通常、昼間は隠れ家にかくまってもらい、夜中に次の「停車駅」へと旅をした。ただし、毎晩、泊まる所があったわけではなく、森や沼地に隠れなければならないこともあった。
逃亡中、本当の鉄道を利用した奴隷もまれにいたが、通常は歩いたり荷車で移動した。奴隷たちを捕まえようとする追っ手を撒くために、うねりくねった経路をたどった。逃亡者の大多数が、40歳以下の農民の男性だったと言われている。逃亡の旅道は、女性や子供には険しく危険すぎた。ただし、通常は、地下鉄道を通して逃亡し自由な生活を確立した奴隷たちは、自分たちの妻や子供を主人から買い取り、その後一緒に暮らした。

書籍「Uncle Tom's Cabin アンクル・トムの小屋」

「アンクル・トムの小屋」は、アメリカの奴隷制度の時代、物のように売り買いされ、虐待された黒人奴隷トムの生涯を描いた物語。1851年に反奴隷制グループの機関誌に掲載されるや話題を呼び、翌年には単行本化され、1年間に30万部以上を売るベストセラーとなりました。この本がアメリカの奴隷制度廃止運動に与えた影響は非常に大きく、南北戦争の引き金にもなったといわれるほど。 ーー以下サイトより抜粋

著者はHarriet Beecher Stowe。南北戦争勃発後、アブラハムリンカーンが彼女に会った際に「So this is the little lady who started this great war. あなたのような小さな方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね」と言ったとか、いないとか。

日本でも100年以上も前に翻訳されて以来、長年にわたり多くの人に愛読されてきた物語ですが、主人公アンクル・トムのモデルとなった人物は、意外にもカナダでその後生を送っていました。ジョサイア・ヘンソンという男性がその人。彼は1830年、奴隷制度のアメリカからカナダに逃れ、オンタリオ州南部、ウィンザーの近くにある町ドレスデンに定住しました。後に彼から奴隷時代の話を聞いたストウ夫人が、それを元に書いた物が「アンクル・トムの小屋」だったのです。 ーー上記サイトより抜粋

私はこれを、オンタリオ州トロントで書いている。なんとも心がキュッと締め付けられる。

1789年、メリーランド州で生まれたヘンソンは、幼い頃から奴隷としてタバコ農場で過酷な労働を強いられてきました。仕事をするあいまに教会から漏れてくる牧師の説教を聞き、独学で学習をし、敬虔なキリスト教徒となったヘンソンは、その信仰心により雇い主の心も動かして牧師に任命されるなど、一時は自由への希望をつなぎます。しかし結局願いは叶わず、より過酷な状況の南部に売られることになり、落胆したヘンソンとその家族は、自由を求め奴隷制のないカナダへと逃亡します。1830年、ヘンソンが37才の時のことでした。
無事カナダに逃れたヘンソンは、指導力を発揮。同じ境遇の逃亡者達を手助けする一方、オンタリオ州ドレスデンに仲間とともに200エーカーの土地を購入し、職業訓練所や製材所、製粉所などを開き、黒人達の自立を支援、また地位向上のために尽力します。  ーー上記サイトより抜粋

現在、彼が後年住んだ家は博物館となって公開されているという。いつか訪れてみたい。

カナダの新しいお札になった女性 Viola Desmond

このニュースは記憶に新しい。初めての縦型デザインだった事もあり、当時人々の注目が寄せられた。

2018年3月8日の国際女性デー(International Women’s Day)に誕生したこちら。

カナダ史上初めて「カナダ人女性(ヴァイオラ・デズモンドさんがお札の肖像画がデザインに採用された」ことです。(黒人女性としても初) ーー上記サイトより抜粋

カナダ・ノバスコシア出身の女性実業家。黒人女性向けのヘアケア、スキンケア商品が無かったことに着目し、それらの商品を販売。モントリオールやNYで美容師になるための訓練を受け、地元に戻ってから美容室と、自身の美容学校を設立。

これによって、彼女のように遠方へ出向かなくとも近隣の黒人女性が美容分野の専門的訓練を受けられるようになり、白人専用とされた専門学校への入学を拒否された黒人女性がノバスコシアのみならずニューブランズウィックやケベックからも集まった。 ーーWikipediaより抜粋

1946年、化粧品の販売の出張の途中、車が故障。その修理を待つ間に入ったニューグラスゴーの映画館で人種隔離に当たる扱いを受け、これに抵抗した結果逮捕されて脱税の罪で起訴、有罪判決を受けた。

チケットを購入して劇場のメインフロア部分の座席につこうとしたところ、デズモンドが持っているチケットはそのエリアのチケットではないとフロア担当者に指摘された。メインフロアのチケットを求めたつもりだったので、デズモンドは券売所へ戻ってチケットの交換を願い出た。ところが、券売所の担当者に劇場の規則で「"あなた方"にはメインフロアのチケットを売れない」ことになっていると言い渡された。デズモンドは肌の色を理由に拒まれているのを察したが、劇場の黒人専用スペースとして指定されているバルコニー部分に座るのを拒否し、再びメインフロアへと向かった。問答の末、結局デズモンドはその場に呼ばれた白人警察官と劇場の支配人によって映画館から強制的に退去させられた上、逮捕された。 ーーWikipediaより抜粋

後に、裁判で不当を訴えたが、法廷での争いは失敗に終わった。この事件は、カナダの歴史で最も広く取り上げられた人種差別事件であり、人権運動の先駆けとなったそうだ。彼女は1965年に亡くなった。

州政府は2010年に、謝罪、恩赦を決定。冤罪であった事を認めたそうだ。

まとめ

私のクラスにはアジア人は私と、中国から移民して来た親を持つカナダ生まれの女性一人。クラスメイトは元植民地出身であったり、アフリカン系カナダ人も多くいる。

アジアの国々を旅した時に、その土地の博物館に出向くと、戦時中の日本軍について展示があったりする。今回は、なんだかその時の何とも言えない気持ちになったりもした。

ところで、米国の副大統領カマラハリス氏について、「person of colour」という表現を何度かメディアで目にした。そして、今回のプレゼンテーションを通じて改めて、北米では「coloured」という表現は差別的で、時代遅れの表現だ、という事を学んだ。

これらの表現についてのBBCのニュースがあったので参考までに貼り付けておく。お時間がありましたら是非。

私は英語は第二言語であるので、こういった事に特に敏感でありたいと思っている。例えば、Person-First Languageというもの。

ところが、彼女が指摘する様に、反対を希望する当事者も多いのだとか。

6:00辺りから始まる説明がとても分かりやすい。

と、話が飛んでしまったが、今回はここまで。何か学びがありましたら幸いです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。カナダの資料を参考に、日本のサイトと照らし合わせながら注意深く記述したつもりですが、何か間違いがありましたらお申し付けください。

参考、画像拝借;


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