【本】荒木博行『裸眼思考』は大海につながる大河のような本
音声配信アプリVoicyで「荒木博行のbook cafe」で広く知られる荒木マスターの、2024年9月の新刊です。
「現代人が1日に受け取る情報量は、平安時代の一生分であり江戸時代の1年分」といいます。
その真偽はともあれ、40代以上の人であれば、インターネットが普及する前と比べ、現代は格段に情報量が増えているというのは、実感のあるところだと思います。
怒涛のように流れ行く情報を、私たちは、
「ああ、これはあの話と同じね」
「それはどうせこういうことでしょ」
などと、自分の知っている定型にあてはめ、片付け消化していきます。
本当は、詳細をみれば、それぞれ何一つ全く同じものなどないにもかかわらず。
また、
「問題は解決しなくてはいけない」
「何か行動するならそれは有用だと思っていることの役に立てるべき」
と、当たり前に思い込んでいます。
結論を出さずにいることは義務を果たしていないように思いますし、たとえば旅行するなら、そこから何かを学びとり今後に活かすべし、と考えています。
ですが、それは、本当なのでしょうか?
そうして、眼の前の具体よりもそれを抽象化することを優先したり、自分が無意識にもっているフレームを認識せずに使い続けたら、私たちはどうなるのでしょうか?
いま、目の前で起こっていることよりも、その情報を受け取った自分の脳内情報のほうが大きくなった結果、存在しているのに見落としてしまう点もあるでしょうし、一部がむやみに巨大化または矮小化してしまうこともあるでしょう。
荒木マスターは、その違いを「レンズ思考」と「裸眼思考」という比喩で表しています。
「たとえるなら、私たちは左には目的のレンズをかけ、右目には知識のレンズをかけて生活しています。
これらの2つのレンズの力によって、私たちは複雑な日常に対して余計なことを考えることもなく、シンプルに生きることができるのです」
「しかし、副作用があります。それは、レンズの度が強くなるほど、「今」をストレートに見ることができなくなるということです」
では、「今」をストレートに見ることができなくなると、どうなるのでしょうか?
私たちは、物事の本質が見えなくなってしまいます。
たとえば、自分の本当の気持ちに蓋をしたまま自分で気がつかなかったりします。
マクドナルドのシェイクのかつての営業戦略のように、多くすべきか安くすべきにのみ着目して「顧客はなぜシェイクを買うのか?」を考えなかったりします。
そこは、一度足をとめてそもそもに目を向けていれば、迷い込むことのなかった袋小路です。
そうなる前に、レンズの効き目を相対化し、弱くする力をもつ、「裸眼思考」の、その身につけ方、鍛え方を教えてくれるのが本書です。
本書は、荒木マスター命名の、人間の「レンズ思考」と「裸眼思考」それぞれの考え方のまわりをめぐる衛星のような関連知識へのルートを、たくさんのシナプスで繋いでくれています。
本文を具体化したり、相対化もしてくれる注釈。
そして古今の名著からの引用、関連書籍の紹介。
そうしたシナプスと、荒木マスターの文章に繋がり続けるうちに、いつしか、人間がずっと昔から考え続け、生み出してきた知識や経験の河に流されて、智慧の大河にアクセスしにいっているような気になります。
まだまだわからないことが、知らないことが、簡単に解答が出せないことが、たくさんある。
その事実にくらっとめまいもしますし、モヤモヤの靄も濃くなります。
レンズ思考しか知らなかった昔であれば、気持ちが悪いとすぐ定型で片付けたくなっていたことでしょう。
それはせずに、そこに、踏みとどまり、五感をつかって知覚して、判断を保留して、文字に残すなどして記憶する。
それが大事だとわかるようになったのは、この本のおかげです。
「いま、ここ」の、そして自分の感覚のリアルを取り戻すために、今の私たち誰もに必要なことを教えてくれる本だと思います。
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