承認欲求
noteの記事は筆者の人柄が表れており、読んでいて非常に興味深い。
良い部分も悪い部分も文面には、にじみ出ている。
承認欲求の塊。noteは承認欲求を満たすためのツール。
自分語りして誰かに自分のことを知ってほしい、誰かに認められたい、私はこのように考えます、こんな知識紹介します、今こんな状況や感情で苦しんでいます、私の文章力凄いでしょ、こんな思考って素敵でしょ、等々。
他人の記事を見ているとそんな筆者の内心を想像してしまいます。
堂々と承認欲求。エゴむき出しで人間くさい。
承認欲求を満たそうとすることは悪いこと?
いいえ、全然悪くないと思います。
誰かの力を借りて承認欲求を満たすことは、相手側が受容しているなら良い行為だと思っています。
『誰かのために』noteを書く人は誰かの役に立ちたいということ。そう思うこと自体が自分の欲望であり、結局は『自分のため』である。
一方で、『自分のために』noteを書く人は少なからずいるだろうし、私もそんな感覚。ですが、単なる備忘録や日記であれば、わざわざ公開する必要は無い。意識を向けないと気づかない部分のどこかに、承認欲求が潜んでいるのです。
だけど何故か、その承認欲求には需要と価値がある。読むことにメリットを感じる誰かが記事を読んでくれる。実際に誰かのためになる。影響を与え合っている。だから、ユーザーが増えていく。
不思議だなあ。
私自身も、他人の記事を読むことで新たな知見を得たり、思考をアップデートしたりしている。需要がない訳がない。
私はとても承認欲求が強い人です。原因はまあ色々。
noteの投稿、承認されたい欲が丸見え。
結局みんな同じ人間なんだ、と思い知らされる。
毎晩、自分だけの世界に潜り込み、外部との関係を自ら遮断していた。
ある出来事を契機に、自分の中に潜む言語化しきれない感情をどうにか文章化して他人と共有したいと思いnoteをはじめた。承認欲求を満たすためだったのかもしれない。
直接人と会って承認欲求を満たそうとする行為は、受け手によっては自慢に聞こえ、相手を傷つける。無意識のうちに言葉を発し、相手を傷つけてしまう。夜になって自分のしたことに後悔、その繰り返し。
往々にしてそんなことがあるため、noteなどのメディアの活用は適切だと思っている。
しかし、noteを始めてみても、現実世界で承認されたい欲があるのは否めない。SNSだけでは私の欲は充分に満たされない。欲深い人間だ。遅かれ早かれnoteは見る専になりそう。
私はとにかく褒められたいのです、現実世界で。
普段から塾の生徒を褒めまくっている褒め上手な私も貴方を褒めますから、誰か私の話を受け止めて、褒めてください。
特別なポテンシャルや成果がない限り、人には価値がなく、認められない。そんな事分かりきってる。私は大したことはしていない。
毎日を全力で生きている、その努力を貴方と2人だけの時間に、どうか褒めて。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?