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長女の乳歯の行方

「神様に会ったことってある?」と、長女に聞かれた。日曜日の夕食の最中。先に夫が「ないなぁ」と答える。「じゃあサンタさんは?」と続くその無邪気に敬意を表して、返事をする前に、まじめに記憶をさらう。

神様に会ったことはないが、神様っているのかも、と、感じることは、長く生きていると何度かあるんじゃないか、と、思っている。

記憶から掬い上げたのは、祖母との間に起きたことだ。


父方の祖母は、よく通る声をもち快活、社交家で世話好き。人が集まれば場の中心で太陽のように咲く人だった。先日書いた、母方の祖母、と、あざやかなコントラストを成す、もう一人の大切な人。

祖母は幼くして曾祖父とわかれ、曾祖母と東京で長く過ごしたらしい。祖父と結婚し、田舎で暮らすことになったわけだ。ご馳走だといって出てきたドジョウに「はじめはびっっくりした」が、「みんなにとってもよくしてもらったから、ひとっつも苦労だなんて思ったことはないの」と、よく目の奥を輝かせて言っていた。

印象深いのは、大学の合格を報せにいった折。かつて曾祖母の営んでいた下宿屋には同じ大学の学生が多くいた、という馴染み深さと懐かしさから、それはもう喜んでくれた。喜びのあまりバシーン!と大きな手で力強く叩かれた背中の、じーんとした痛みは、あたたかさを伴って不思議に快かった。
そしてわたしの結婚式。夫の祖父と揃って米寿を迎えたわたしの祖母を、わたしたちは会の中ささやかにお祝いした。祖母たちはすぐに意気投合し、とても華やいでいた。長く生き、多くの人を見送ってきた憂いが、ひっくり返ったような華やぎ。かなしくて美しくて、目に焼きついている。

わたしが長女を産んだ頃は、既に90歳をこえていたが、喜んで抱っこしてくれ、充分かくしゃくとしていた。その後、少し体を傷めて入院すると、あっという間に痴呆がすすみ、見知った祖母とは様子を変えていくことになる。

帰省をすれば、どこかで時間を作り、顔を見せに行った。わたしのことがわからないことも多かったが、時たま、目の中に光が宿り、「あぁ、よく来てくれたねぇ。●●も▲▲も来ているから、なぁんにもないけど、ゆっくりしておいで」と、かつて大勢をもてなした采配をふるった。


あれは、高校の同窓会で帰省した時だったと思う。秋深まる頃、3年と少し前だ。

慌ただしい帰省の最後、電車に乗る前の短い時間を使い、姉妹を連れて祖母に会いに行った。病室の祖母は、また一回り小さくなって、ぐっすりと眠りこんでいた。もうダメかもしれない、ということがあった後、だったか、前、だったか。寝姿が、赤ん坊のような清らかさで、わたし達とは少し違う世界にいるような、可愛らしい様子だった。無垢。

しばらく皆で寝顔を眺め、もう電車まで時間もないし起こしちゃ悪いからね、と立ち去ろうとした時、その無垢な寝顔は不思議にわたしを魅了した。もうしばし、と、ほんの刹那、離せずにいた視線の先の目が、ぱちりと開く。目と目が合ったとき、目の奥にまた、光が宿った。あっ繋がった、と、わかる。「会えてよかったよ」「わたしたちも元気だよ」「がんばっていてくれてありがとうね」思いつく限りを、ほぼ一息に伝え、祖母も、うん、うん、と、ひとつひとつに深く頷いてくれた。祖母の口が何かを伝えたいと動きかけるが、声はでない。あんなにお喋りだったのに。それでも目の奥の光はかつて自在に操った言葉を探りだそうとしているようだった。いつまでもそれを待っていてあげたかったが、叶わずに暇を告げた。

わたしよりは頻繁に見舞っていた父も母も、意思疎通はなかなか難しく、とれてもちぐはぐだったりした、と言うのだから、あの時、わたし達と祖母の間を繋いでくれたのは、人の力を超えた何かだろう。それをなんと呼ぶかはさておき。


それから一年を目前にした秋の入り口に、祖母は亡くなった。98歳の大往生で、お見送りは、結婚や仕事の転勤で久しく集えていなかった孫達がひ孫達を連れて集まる賑やかなものになった。賑やか好きな祖母だったから、きっと喜んでみていたに違いない。墓地は秋桜に彩られ、秋風が爽やかに吹き抜けていた。

長女の乳歯が忽然と姿を消したのは、葬儀やその後の色々もすっかり落ち着いた、春、帰省した時のことだ。形見分けで残ったもののいくつかを母がとっておいてくれ、わたしも選ばせてもらった。

ごはんの前か最中、数日前から気にかけていた長女の乳歯が抜け、ひとまず、とティッシュでくるみ、ダイニングの出窓に置いたのだが、さて、と見やるとどこにもない。ティッシュなんかに包むから誰かが間違えて捨てたのでは、と、ごみ箱もひっくり返してあらためる小さな騒ぎになったが、出てこなかった。

祖母が取りにきたんじゃないかな、と、言ったのはわたしだった。ふとそう思ったし、今も結構まじめに信じている。

「ある国では、クッションの下に抜けた歯を置いて置くと、ネズミがコインと交換してくれるらしい」という話を、幼稚園でお友だちから聞いていた長女も、ネズミがひいばあちゃんで、コインは形見の品々、ということで、すんなり納得してくれた。それで、そういうことになっている。

先日、次女の乳歯が抜け、それと重なるように長女からの「神様にあったことはあるか?」の問いがあり、この一連を思い出した。祖母からの呼びかけのようでもある。あの時の神様もまた一役かってらっしゃるか。知る由もなくて、不可知をより一層に愉快と思う。いつもありがとう。わたし達、元気だよ。

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