余談(瞑想センターでの体験で思い出したこと...)
確かDay5かDay6辺りだと記憶するが、イメージや動画などが瞑想中に流れ得るように出てきは消えてを繰り返していた頃、お昼ご飯を終えてホールにて座り、瞑想ほし始めた時にふと静寂の中から聞き慣れないがよく知っているような歌舞伎の演目のような声が聞こえてきたのである。
普通ならビジュアルのみで容易に対応し、邪魔されずに瞑想できていたのだが、音まで出てくるとより現実味や臨場感が出てくるので注目せざるを得なくなった。
赤黒い鎧兜の武士のような存在
そう、それの始まりは確か、赤黒い鎧兜の武士のような存在が座り、地べたに座る子供に話しかけるように、
「無礼者」「情けは無用」「成敗」「切り捨て御免」「ここでやらねば武士の恥」などなど、
よく侍や戦国時代でのドラマでよく耳にするような言葉を投げかけていた。
そして、その様子を客観的に見ている私が感じたことは、
そして冷静にその武士の姿を見つめると、何やら寂しそうな表情と静けさと、「それをいっちゃあ...」と今にも言いそうな雰囲気であった。
歌舞伎の演目
が声を上げ始めたのはその後である。
舞台はまるで人形浄瑠璃のような感じであった。
殿様が坊主との話し合いで、自分を侮辱していると感じえる家臣達への不満を語る。今までにこの殿様の癇癪によって打首や拷問で死に絶えた死体がゴロゴロと山のようになった背景の中で、その苛立っている殿様は助けを求めるかのように坊主の返答を待つ。
坊主はそれに応え、呼吸を整えることを進める。場所もこのような死体が溢れる場所ではなく静かな山で休暇がてらに坊主の修行をしてみることを進める。
そしてその殿様が山につき、精神的な安堵と安らぎを得たと感じたと同時に、さらに大きな力を持つこの国の将軍が、山の背後から雲が覆い被さるように現れる。怒り狂い、多くの寺を破壊し、墓は山積みにして捨て去り、逆らうものは全て蹴散らす暴君である。まるで織田信長のようであった。
その暴君も注意深くその坊主の修行法を観察していると何か影響を受けたのか、少しの光を内側から発すると、その上に飛び出すように、対抗するかのようにその暴君よりも大きく、力強そうに胸を張り出してポーズを取る二人の西洋人が西洋の鎧を着た姿で現れ始めた。空の雲よりも高い大きさで現れ、互いに競い合いながら自分たちの存在を証明しあっている様子であった。彼らもその影響を受けたのか、今までの様子とは違う行動を取ろうとすると、その頭上から糸でつり、その二人の西洋人男性をマリオネットとして操るさらに巨大な紫のドレスを着た女王風の女性が現れた。それはまるでエリザベス女王一世のようであった。
両手を広げ、胸を張り、少し上を向いて、笑顔で大胆で自信にあふれた姿である。
力というもののつながり
私はこの珍しい現象をなるべく客観的に観察して思ったことを語ることにしよう。相手を武力で征服し、自分の気に入らないものを排除しようと続けると、武士のように武装し、いつでも相手を切り捨てる準備に終始し、
更なる武力で更なる大きな、気に入らない組織を滅するためには、より効率の良い武器を揃え、扱えるようになることであり、歴史を見ればわかるように西洋からの銃が主な転機出会ったように、いかに近代兵器を用いてそれを持っていない組織を滅多うちにするかが勝負の勝敗を決めるのだとわかる。
そしてその近代兵器に依存していると、その貿易相手の意のままに操られるようになり、物質的に武力はや戦闘力は計り知れなく強くはなるものの、何のために戦うのかという精神の部分が疎かとなってゆき、その大元の意向、意思、思想などに侵食され、そのために動かされる糸操り人形と化する。
力に渇望する男達を見抜いた女
そしていち早くその男のテストステロン(Testosterone)に突き動かされている男という生物の精神構造を見抜き、自分の成したい世界を作り上げることに成功したのが、ヨーロッパの英国女王だと断言できるだろう。武器を求める力に飢えた男達と取引をし続け、その地域の精神的な基軸となり得るものや人を交換材料として輸出させ続け、その社会の文化や精神にぽっかりと穴を開け、気づいた頃には中身は空っぽとなり、女王の手下として働くことで存在を許され、勲章をもらい、役割を与えつづてられることで存続する。
完全に骨抜きになっては使い道がないので、その土地で培ってきた文化の中で、競争をたきつけるものは厳選したのちに保護し、リプログラミングした伝統文化を後世に残すように設定する。
現代人
その瞑想で見た歌舞伎を楽しみながら私なりに解釈して、いつか映像で表現したいなという気持ちが起こっていたが、今の今まですっかり忘れてしまっていた。こうやって記事にしたことで記録として残せるし、また読み返して、詳細を付け加えたりできるのでNoteに感謝します。
なるほどなるほど、どうして武士の幻想が私の中でよく出てくるのかも理解し始めてきた。日本人として、その文化圏で育っていると、この武士や侍といった象徴を美化し、それに倣った人格や性格などを無意識のレベルで近づこうとしているのだと気づいた。それは大きく分けて、
上からの命令は絶対
融通はきかず一つのことに突っ走る
恥を嫌い、それを除くために潔く他者もしくは自分を排除する
一騎打ちなど、公正な戦いを望み、その環境の中で強さを見せることに意義を感じる
他にも色々あるだろうが、私の中でくっきりと見えたのはこれくらいで、そして、そういった伝統的に培ってきた精神構造のうちに競争を掻き立てる要素を保護し、西洋の科学を取り入れて、西洋文明の一部として受け入れられたこの日本の姿がよく見えてくるようになった。
征服と献身
そしてインドの有名な精神指導者Sadhguruの言葉の意味をまた少し深いところで理解することができた。
”この世に世界を手にする方法が二つある。征服か、もしくは包括。”
どれだけ自分の育った地域の伝統や文化を美化し、他とは違うと誇りに思ったとしても、客観的に見てみれば、征服しようとし続けた意思の連続性に今があることを知る。そして平家物語が頭をよぎる。
私は征服の方にばかり氣を取られていたようだ。この全てを包括するという概念は私にとっては非常に新しい意識の持ち方で、それが自分という個人の認識を溶かし、この五感では認識できない存在を感じ、それと一体となるのである。
私は、神や仏など、神聖な存在について特に特別な感情は湧かない。崇拝することもなく毛嫌いすることもなく、盲信することもなく、疑うこともないのである。ただ、我々の体に取りつかれた五感では認知し得ない存在があることは認識している。
この観察瞑想では精神を集中し、体の部分部分を観察し続けることで感覚を確認する作業は、精神と肉体との接触で感覚が生じているという現象を観察していることであり、精神によって私の肉体器官が反応し、感覚が生じていることから、この精神活動自体が第六感だと言えることも認めている。
もしもそういった存在と私の意識が接触し、交流することがあればそれはそれで歓迎するまでである。それも包括することであろう。
私は全てを包括するためにこの精神修行の道を歩んでいるからである。
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