本と未来と。
茶房一倫さんのかき氷、桃×赤ワインシロップ×ヨーグルトアイス×黒糖寒天と最高。サイズ感もちょうどよくて、食べかけのビジュアルもかわいく、食べてる間ずっとたのしい。
京都ならあとは、粟餅屋さんのかき氷が好き。一倫さんのは中にアイスが潜んでいて、粟餅屋さんのは中に粟餅が潜んでいる。
今年はtorajamのしほちゃんもかき氷を始めたそうなのではやく食べたい。しほちゃんとは、8/12(月祝)に恵文社コテージで開催の世界文庫夏祭りで一緒になるので、もしかしたらその日に食べられるのかも。
8/12(月祝)、マヤルカも通常営業してるのでぜひはしごしてください。
わたしは夏祭りでは、これまでなかなか好評いただいている山頭火の句を頼りに本を選んで一冊500円、というのをやる予定。
↑こんな感じ。
最初はバレンタイン企画で始めて、そしたら誰かへのプレゼントにも自分へのプレゼントにもどちらにも喜んでくれて六月の森道市場でもやってみた。という写真。
愛知でも喜んでもらえてうれしかったな。
定休日の今日は、細見美術館へタラブックス展を見に行った。
タラブックスについては、当店でもいくつか販売しているし、多聞さんや写真家の疋田千里さんなど現地に行かれた方の話を聞いたり本で読んだりして少し知ったつもりになっていたけど、やっぱりぜんぜん分かっていなかった。それでもたぶんまだ、ほんのささやかな一面しか見れていないのだろうけど。
タラブックスから生まれる本の美しさはもう説明不要でしょう。でも、必ず一緒にうたわれる"シルクスクリーン印刷""ハンドメイド"という言葉で満足して、わたしは大事な細部が見えていなかった。
それらは決して偶然や受け継がれてきた伝統ではなく、必然であり、あえて選ばれた仕事であり生活であるのだ。
以前読んだタラブックスについて書かれた本の中で、1997年ごろに新刊としてISBNがとられた本がいまだ完成していない、というような記述があり、なんて牧歌的な、と思った。
しかし、徹底的にコンセプトを詰め、作り手との関係性を積み重ね幾重にも物語が練られ、壮大で繊細な行程のもとに生み出されインドだけでなく世界中で普遍的に愛される本を作り続けるビジネス(あえて)を、牧歌的と言っていいのだろうか。そこにあるのは重点がどこにあるのか、という違いだけ。
技術や文化の進歩や発展は、決して旧いやり方を捨てるということではない。当たり前だけど、選択肢が増えるということなのだ。
たとえば本について、もう長いことさまざまなことが言われている。でもきっと、本に携わる私たちがあえて選んでいるのが紙の本。そこには憧れと意味があるはずなのだ。
物を持たないことがよいとされる時代に物として思考や楽しみを持つということ。もちろんそれは、万人にうけ、万能なものというわけではないだろう。
でも、ほしいのはグラデーション。単一の価値観なんていらない。
タラブックスは伝統的な物語を扱っているのかと思っていたら、クー・クラックス・クランが登場していたり、9.11を題材にしていたりと社会のことが描かれている。
貧しさもあり、莫大な富もある。選べない職業や暮らし、変わることのない差別もあり、豊かな文化と歴史もある。
大好きでここ数年通っている台湾では、物価も含めありとあらゆる基準がごく当たり前のようにおおらかに共存している。
失われるばかりが目立つ日本に暮らし、グラデーションであることの豊かさを羨ましく思う。わたしは本屋には、そんな層の厚さやグラデーションを生み出す力があると思っている。受け皿、といってもいいのかもしれない。
なのでときどき見かける、一面的な強い断言ばかりの本や、そんなタイトルばかりが揃う新刊書店は醜悪、としか言えないくらい恥ずかしく悲しいですね。もちろんそれを、表現の自由と言われたらはいそうですね、という感じなんですが、、
・・・なんてことを考えながら、娘(小六)が欲しい本があるというのでわたしも名刺交換やご挨拶をさせてもらったことのある本屋さんに連れて行ったら閉店時間を過ぎていて(わたしは違う場所にいた)、
「ソーリー!クローズ、クローズ!」
といわれ、「ノー、オッケー」と言って帰って来たという。笑
たしかに最近は、何語で話しかけていいのか分からない場面がよくある。うちの娘は純和風ではあるけど、なんとなく英語かも?と思ってしまう理由もちょっと分かる。すばらしい傾向。ありとあらゆるグラデーションに満ちた社会は、きっとすぐそこ。