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なぜ商品にロゴやシールがないのか
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なぜロゴや商品名のシールを貼らないのか。
なぜ、パッケージデザインがここまで地味なのか。
これは私の、物質的な豊かさ、大量生産・大量消費、学力、肩書き、資格、
お金が力となっている、圧倒的な必然性が支配する現代社会へ。
そして、自分自身へのアンチテーゼだからだ。
産業革命以前、権力を握ったのは家柄、血筋と言ったいわゆる「カースト」だ。
今でもカースト制度が残る国があるくらい、どこに生まれるか、
一種の賭けのような物で力が手に入る時代は長く続いた。
産業革命以降、良い大学に入り、名の知れた会社で勤め上げ、
家庭を持ち、豪華な家、高級車、ブランド物を買い、貯蓄し、
60才で退職金を得てのんびり暮らす。
これが人生の成功だと言われ、大多数がその、しかれたレールに乗り、
同じ目標に向かって走りたいと思っていた。
努力次第で手に入れることが可能な権力だ。
正にその時代に生まれた私も、同じだった。
19から20代前半は、稼ぎの大半をブランド物に費やし、親が稼いだお金も
小遣いと称して使い、毎シーズンの受注会に呼んでもらえるように
必死で大金を使った。
結局身体はひとつだし、お気に入りしか着ないものだから
せっかく買ったのに一度も袖を通さないもので溢れていたし、
毎週末友人と素敵な「高級」レストランで食事をし、
その頃はニッチフレグランスだったフレグランスブランドで香水も買い漁る。
「高級」ホテルにもよく宿泊した。
目に見える「みんなが欲しがる物」を手にすることで、
私には力があると勘違いしていた。
目に見える幸せが、支配していた。
一生懸命集めたバッグや服、靴、ジュエリーは私を幸せにはしなかった。
私が幸せに感じていたのは、馴染みのお店から電話が来ることや、
お店に行けば名前を呼ばれて椅子に座り、飲み物やお菓子を出してもらえて
何時間も取っ替え引っ替え試着をしながらお話しをしたりといった、
〈あなたには価値がありますよ、大切に思っていますよ。〉
とされていると感じる、経験だった。
それに気づいた時、私は大切にされたかったのだと、私は私自身を大切にしているだろうか?と自問自答を繰り返す日々のさなか、ある日突然、ベッドから起き上がれなくなった。仕事も辞めざるを得なくなった。
大切にされる、大切にする。
それは尊敬であり、愛でもある。
その時間、経験が、何にも変えられない価値であり、
それはとても個人的なもので目に見えないものだ。
何度でも言うけれど、オンラインショップのstoryにも記載しているけれど、
フレグランスブランドではありません。
私の個人的な13の詩が、絶え間なく移りゆく感覚に寄り添うためのツールです。
決して安価ではないものを、共鳴した方が手に取り、
自分の世界に招き入れてくれる、愛の繋がり。
果たしてそんな繋がりがどれくらいあるのか。
知りたいという欲求、実験のようなものでもあるのかもしれない。
だから、おしゃれなシールは、貼らない。
おしゃれなデザインには、しない。