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美しさだけでは救われない【映画『ツリー・オブ・ライフ』を観て】
先日、「ブラット・ピット出演映画の中でどの役が一番好きだったか」という思いつきで映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見直し、考察や感想について記事を書きました。
この記事の後、「逆にブラット・ピット出演映画の中でどれが一番”しんどかったか”」を考えた時に思いついたのが、映画『ツリー・オブ・ライフ』です。
初めて鑑賞したのが確か数年前でその時もかなり靄っとしたまま数日間引きずった覚えがあり、「数年ぶりに鑑賞してみれば印象が違うかもしれない」と思い、最近見直して見たんですが、やはり「わかる…共感できる部分もすごいあるし、前よりは受け入れられている気がするんだけど…」という感じでかなりしんどくなってしまいました。(それは全然わかっていないからなのでは…?)
なぜなのか、自分なりに考察して消化しないとかなりしんどいぐらいに重たい映画だったので、ここに記事としてまとめておこうと思います。
(以下、ネタバレ注意です。)
正しい行いを為したとしても。
「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」
『ツリー・オブ・ライフ』は上記の旧約聖書の引用から、幕が開く。
ヨブ記について、私はクリスチャンでもないため詳しくは知らないが、ググってわかる範囲だと「信心深い善人のヨブがその信仰心が揺るがないものなのか試され、様々な理不尽な目に遭う話」らしい。
財産や家や息子や娘を失ってもヨブは決して神様を責めることはなかった(えらい)。
しかし、今度は皮膚病に犯され苦しむヨブの元に友人達が見舞いにやってきて、「何か罪を犯した報いではないのか」「神様に赦しを求めるのだ」と諭す(なかなかきついことを言う)。
ヨブは「自分は何も悪いことをしていない」とそれを拒否する(そりゃそうだ)。
しかし、そこで天から神の声が聞こえてくる。
「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」
「知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」
いろんな解釈があるとは思いますが、要するに「お前が理解していることなぞ、神の前では無知に等しいのだ…」ということを神様はおっしゃりたかったのかなと解釈(雑理解ですみません)。
そして、ヨブは自らの不信心を悟り、悔い改める。
「どんなに正しい行いを為したとしても、苦しみを避けては通れない。」
「どんなに現実が、世界が理不尽に満ちていたとしてもそれを受け入れ、神に祈りを捧げることのみが我々人間にできることなのだ。」
そういった今作のテーマに繋がることを、この旧約聖書からの引用で示したかったのだと思う。
理不尽な世界。
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実際、映画の主人公であるジャックにとって、世界は理不尽なことで満ちている。
厳格な父親の元に生まれたこと。
口答えを許されないこと。
「パパ」と呼ぶことを許されないこと。
食事の前に祈りを捧げること。
教会に通わされること。
クラシックを聞かされること。
3人兄弟の長男として生まれたが故に、弟達の方が可愛がれること。
弟の方がアーティスティックな才能を持っていること。
母親は父親の行いを止めないこと。
行いに関係なく誰に対しても必ず死や苦しみが訪れること。
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そして、
才能があったはずの弟が自ら命を絶ったこと。
「全て自分が選んだことじゃない」
「望んで生まれてきたわけじゃないのに」
「子供は親を選べないのに」
「悪い行いをしたわけじゃないのに」
「父の言うとおり正しい行いをしているはずなのに」
「なぜ自分はこんなにも理不尽な目にあわなければいけないのだろう」
「なぜ自分は生まれてきてしまったのだろう」
「なぜ人は、弟は死ななければならなかったのだろう」
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まさに私もジャックと同じように「厳格とも言える家庭の元に生まれ」「(子供の自分にとっては)抑圧された生活を送ってきた」ので、彼の思考は手に取るようにわかってしまった。
父親から寝る前のキスを要求されるシーン。
憎悪の対象になりつつある親にキスをしなければならない、愛しているフリをしなくてはならない葛藤に、とてつもなく共感を覚えた。
父親に口答えしないよう、日々の出来事に感謝できるよう、嘘をつかないよう、神様に祈りを捧げるシーン。
親を憎みたくない。明日はもっと良い子になれますように。
神様を信じてもいないくせに、そんな祈りを夜寝る前に1人、誰にでもなく捧げた時期があったことを思い出した。
「父さんはとても自分勝手だ」「テーブルに肘をつくなと言うが、父さんは(それを)やる」「人を侮辱する」と語るシーン。
そうだ、私も親をとてもよく見ていた。
彼らの弱い部分を指摘してやろうと粗を探した。
悪いことだと知りながら盗みを働いたり、壊したり、約束を破ったりするシーン。
父親が出張でいないことを知り喜び駆け回るシーン。
「制御されない自分」を解放したくて、同じようなことをした記憶を思い出した。
そのことがバレて、後でこっぴどく叱られ、悔しくて泣いたことも。
叱られることが、悔しくて泣くことが嫌で嫌でたまらなくて、バレないように必死でやり過ごそうとしたことも。
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「愛しているのに、なぜ?」
映画の中でブラット・ピット演じる主人公ジャックの父親が語る。
「自分の人生をつかめ」
「運命を支配するんだ」
「“できない”と言うな、“問題がある”と言え」
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理不尽を、運命を憎んでいる。
「正しい行い」だけでは人は救われないことを知っている。
だから子供に厳しく当たる。「成功」のためには「力」が必要だと知らしめる。
子供が傷ついていることを知っていても、それを「必要な経験」だとする。
子供はそれを理解できない。
「親なのに」
「自分達を愛してくれているはずなのに」
「なぜ傷つけるの?」
「なぜ許してくれないの?」
「こんなふうに憎みたくない」
「こんな自分は嫌なのに」
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理解できない子供に、自分の思い通りに動かない子供達に父親は苛立ちを募らせ、さらに厳しく躾けるようになる。
子供という「運命」を支配できるはずがないのに、それを許せない。
なぜなら、お前達は自分の子供なのだから。
「ああ神様、どうか…」
神様にしか救いを求められない子供達と同じように私自身も願ったことを思い出し、頭が痛くなった。
「あの人を殺してください」
(このまま死にたくないんだ)
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共感できる、一方で。
監督の自伝的な作品であるだけに、
「抑圧された生活とは如何なるものか」
「抑圧された子供達が何を思い、何を願うのか」が実に重たく描写されていた本作。
それは前述したとおり、私自身が幼少期のトラウマを思い出し、若干の鬱になりかける程であり、この点においてはとても共感を、親しみを覚えた。
しかしその一方で、私がこの作品をどうしても評価できない部分もある。
その1つが映画の中で「非現実的な光景」を幾度も挿入する演出だ。
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例えば、冒頭の「宇宙創造」の映像。
母親の胎内から生まれる瞬間を水の中にある部屋から子供が飛び出す映像を映す演出。
母親が庭にある大きな木の前で宙に浮かぶ映像。
母親の死を子供達がイメージする映像。
意味がわからないと切り捨てるわけではない。
全てを理解できている訳ではもちろんないと断言できるが、冒頭の宇宙創造の映像は「私たち個人の存在がいかに取るに足らない小さな存在か」を示すとともに「そんな小さな存在である私達がどのように生き、どのように理不尽な運命を受け入れるべきか」を示すための映像であるのだと解釈する。
また、ラストの15分。
50代になったジャックがエレベーターを使い、空へと登っていく。
これは天国へと向かう描写なのだろうし、向かった先はおそらく天国なのだ。
そこで、子供の時の自分自身。
「理不尽な運命」に見舞われた友人。
父、母、自殺した弟と、再会する。
許せなかった自分自身の運命と向き合う。
抱きしめあう。許しあう。
母も父も、全てを許しあい、見つめ合い、美しい世界が広がる。
そして、ジャックはエレベーターを降り、天国から地上へと戻ってくる。
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わかる、わかるのだ。
「非現実的で美しい光景」が「非現実的だから無意味である」とする訳ではない。
「美しい光景」そのものを「美しくない」と否定する訳ではない。
本作で映し出された「光」「木」「水」「宇宙」「空」全てが確かに美しかったし、その美しさに圧倒された。
映画の鑑賞後、空を見上げたときに思わず、そこから漏れ出す「光」の美しさについて、感傷に耽ったりもした。
それでも、「私達個人の存在がいかに取るに足らない小さな存在か」ということを。
理不尽な運命を受け入れ、どのように生きていくかということを考えたときに。
「非現実的な光景」を見せられるだけでは、救われないだろうと思ってしまった。
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おそらく監督は、神への祈りや自分自身の救済、もしくは癒しのためにこの映画を撮ったのだと思う。
しかし、少なくとも私自身はラストシーンを見て、あの美しい映像で、自らの運命に踠き、苦しみ、何とか生きようとしながら死んでいった弟の魂が救われるのか?とすら思ってしまった。
だって、現実はあまりにも辛いことが多いというのに。
「光の美しさ」が持つ力だけでは、私達は救われないのだ。
映画が持つ力を信頼した映画
どういう映画が好きなのかを考えたときに、色々と考えることがあるが、一番しっくりくるのが「映画が持つ力を信頼した映画」だと思っている。
脚本、演出(構図、被写体の写し方、アングル、動き)、音楽、照明…。
映画には様々な要素があるが、その1つが「役者」であり、その点で言えば今作は役者(特に両親役の2人)の持つ力をほとんど信頼していない、生かそうとしていないように見えた。
(個人的にそれが一番見ていてしんどかった)
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ここで言う力というのは、演技力とかそういったものだけではない。
役者同士で向かい合った際に、どのような感情が生まれ、どのような動きを役者がし、それが画面に、映画にどのような力をもたらしてくれるのか。
役者同士で向かい合わずとも、言葉にして語らずとも、背中だけでも。
フィクションの中にいるはずの役者の存在がまるで現実のように感じ取れる時がある。
そういった映画の、役者の持つ力に救われる瞬間が確かにあるのだ。
今作は共感や親しみを覚えるシーンがある一方で、同時に子供達や両親の映し方が、設定された感情、枠から出ない感情を映すためのようにも見えてしまったのも事実であり、「美しい非現実的な光景」や「逆光やモチーフを生かしたカメラワーク」が役者の本来の力が映画に反映されることを逆に奪ってしまっているようにも感じてしまった。
「理不尽な世界で生きる困難さ」や「私達個人という存在の小ささ」を映画のテーマにすること自体は良い。
しかし、それであれば「非現実的な映像」よりも、「理不尽な世界の中でも懸命に自分の人生に向き合い、生きようとする両親達・少年達」を映してほしかった。
役者の持つ力を、映画が持つ力をもっと信頼して欲しかったのだ。
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とても共感を覚えるシーンがある一方で、今現在の私にとっては「美しい映像だけでは救われない」とも思わされる、そんな作品だった。
ただ、もう少し歳を重ねて見てみるとまた違う評価をすることになるのかもしれない。
そのときに、また鑑賞してみたいと思う。