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御伽話で終わらない【映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観て】

少し前の話になってしまいますが、先日ブラピこと、ブラッド・ピットが映画『ブレット・トレイン』のプロモーションで3年ぶりに日本に来日してくれました。

普段映画のプロモーションがどのように行われているか、詳しくは知らないんですが、今回は映画に因んでかなり工夫を凝らしたプロモーションを施してくれたのでは、と思っております。

不運が特性の主人公の映画だから厄除けに行ってもらおう!と企画した人、発想が天才なのでは。

新幹線が舞台の映画だから新幹線内でレカペやろう!と企画した人、発想が天才なのでは。普通思いついたとしても実際にやろうとは思わんて。

実際、キャストのみなさんはこの映画のプロモーションのために各国を渡り歩いて同じような話を何回もさせられて、同じような対応を何度もさせられている訳で。

単純にレカぺでファンサ、映画館で記者会見ってだけだと楽しんでもらえないのでは?
せっかく日本に来たのであれば日本でしかできないことをやってもらいたい(でも訳のわからんことはさせないであげてくれ…映画に全くリスペクトのないタレントの方とかと絡ませないであげてくれ…)と思っていましたが、杞憂でしたね。期待以上のプロモーションを見事やり遂げてくれました。


特に新幹線で記者会見なんて、鬼の事前準備と調整が必要だったと思いますが、映画オタクとしては、きちんとお金をかけて丁寧にプロモーションをしてくれたことに感謝しかありません。

私自身も正直『ブレット・トレイン』にそこまで興味はなかったんですが、やっぱりキャストにせよ、プロモーションにせよ力を入れてくれている作品であることが伝わってくると、面白さとか作品の完成度とは別に、その思いに答えるために自然と見に行きたいと思うよな〜〜と感じました。

さてさて、前置きが長くなりましたが、そんなこんなでブラピ来日の話題を見ながら
「ブラピ出演映画の中でどの役が一番好きかな〜〜」というのを考えた時に、ピンときたのが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』です。
(タイトルが長いので以下『ワンハリ』と略します)

もちろん『セブン』のデビッドや『ファイト・クラブ』のタイラーもめちゃくちゃよかったし、『ジョー・ブラックをよろしく』もブラピが超かっこよくってびっくりしたんですが、私的ベストブラピはやはり『ワンハリ』のクリフ・ブースなのです。
作品としても大好きなんですが、何よりキャラクターに魅力を感じる作品だと思っております。

ということでブラピ来日に因み今回『ワンハリ』を見直したので、色々考えたことについて、述べていこうと思います。(以下、ネタバレ注意です)

リックとクリフというキャラクターについて

オープニングで、キャストの名前が映画に登場するキャラクターに合わせてクレジットで表示される。

これ自体はよくある演出だと思うが、この時点で「ん?」と思った。

クレジットが俳優と逆に重なっているのだ。
これがどういう意図による演出なのか、映画を見た当初はよくわからなかった。

だけど、今はこの演出がクリフとリックが「正反対」だけど「お互いに支え合っている」、もっと言えば「依存し合っている」関係を現していたのではないかと思っている。

実際、オープニングよりさらに前、映画の本当に最初のシーンで、クリフとリックが「俳優」と「スタントマン」という「相手が存在しなければ自分も存在できない間柄」であることが示される。

加えて、その後のシーン。
イタリア西部劇映画への出演を勧められ、ハリウッド俳優としての限界を改めて突きつけられたとリックはクリフに泣きつき、慰められる。
泣きべそをかきながらクリフの運転する車で家に帰り、隣に住んでいるシャロン達を眺めながらメソメソと自分を卑下するリックに対し、クリフは励ましの言葉をかけ、帰る際には「外にいろ、車で待て(明日も迎えに来るから忘れるなよ)」といった念押しする。
クリフがそばにいてくれることで、リックは何とか生きている、俳優を続けていることが読み取れる。

正直リックは映画全体を通して見ても、ウダウダと色々考え込んでしまいがちだし、独り言は多いし、短気だし、涙脆いし、酒に頼るし、物に当たるしで、本当〜〜にダメな人間のように思える。

しかし人前だと、どうだろう。

実は、映画のスタッフや他の俳優と関わるとき、リックは前述したような「ダメな人間」ぶりをほとんど見せない。(必死の演技と言っていいかもしれない)。

特に映画の最初の方、アル・パチーノ演じる映画プロデューサーのマーヴィンとの会話の中では、名前を間違えて呼んでしまったことに対し素直に謝罪したり、褒められても謙遜しつつ、映画のエピソードを面白おかしく披露したり、悪役続きの最近の自分の暮らしを指摘されても取り乱したりせず、辛そうな表情を見せながらも一生懸命に微笑んでみせる。
1人でいるとき、又はクリフといるときとはまるで正反対の「良い人間」として振る舞っているのだ。

個人的にリックのそういう、ダメな部分もあるが、俳優として生きていく上で、他者と関係を築く上で、せめて人前では良い人間であろうと必死で努力する姿に強い魅力を感じた。

また、クリフと一緒にいるときは自分をよく見せなくて済む、「良い人間」として振る舞わずに済む、という意味で一緒にいてとても楽だったのではないか、だから9年間もずっと一緒に過ごしていたのではないかと思った。(スタントマンというある意味自分の弱い部分を補ってくれる存在だからこそ、そう言った弱みを見せることができたのかな〜〜と思ったり)

そんなリックに対して、クリフは実に飄々としており、人前で自分を偽ったりせず、自分の置かれた状況を受け入れており、なるようになるといったある意味退廃的な観念を持って生きている。

その一方で、他人に暴力を振るうことへの躊躇がゼロというある意味サイコパス的な面もあり、ついキレて暴力を振るうといった感じではなく、極めて冷静に理性的に相手を殺すために必要な暴力を実行する。(こういった部分は戦争帰りの人といった感じがしてものすごく怖いと思った)

加えて妻殺しの噂もあり、「何をしでかすかわからない人間」といったイメージを周りから持たれている。
さらに言えば、リックとは正反対に自分を全く偽ろうとしない、妻殺しの噂を全く否定しない、そういった部分がより人を遠ざけている。

しかし、そんなクリフもリックの前では「良い人間(友人)」であろうと努力する。

送り迎えをしてあげたり、家の掃除をしたり、留守番をしたりする…いや、それはもうスタントマンとか友人ではなく、もはや親では?といった感じだが、クリフはそれを「好きだけど、まあ」としている。
リックが散々メソメソして隣で愚痴っても、彼のことを励まし、褒めて、勇気づける。

映画を見た当初はこれがとても不思議だった。

しかし、クリフはリックにとって「良い友人」であることが、信じて頼ってもらえることが、ある意味でとても楽だったのではないか、楽しかったのではないか、と今は解釈している。
それは決して演技をしてだとか、無理をして、気を遣って、とかではない。

自分の中にある「優しさ」や「愛情」を信じてくれる、人間(リック)がそばにいてくれるという事実が、クリフにとっては代え難い幸せだったのでないかと思うのだ。

映画の中でリックはいう。
「お前は俺のスタントマンだろ」
「俺に合うスタントマンがいるなら問題ないが、1人もいない。俺にはクリフでないと」
そして、「お前は良い友達だ」。

クリフはいう
「気分は直ったか?」
「他に用事は?」
「外にいろ、車で待て」
「お前はリック・ダルトン様だ、忘れんな」
そして、「努力している」。


あの言葉はおそらく、「(リックがを信じてくれる自分(良い友人)であるために)努力している」という意味だったのではないか。
リックがそうであったように、クリフもまたリックがそばにいてくれることで、なんとか優しさや愛情を忘れずに生きることができたのではないかと思う。

あと、個人的に映画の前半でリックを家までゆったりした安全運転で送った後、めちゃくちゃ雑な運転で帰宅するのが良い描写だと思った。
家があんなに汚いことを考えるとあの「雑さ」がクリフの本来の生き方なのだろうなと思うが、リックの家はきちんと掃除をしてあげるという…しかも1人で車を運転する際はかなり「無」な顔つきをしているという…「努力」してるな〜〜と思う。

ヒッピー達とクリフ

街に溢れるヒッピー達を見て悪態をつくリックと正反対に、ヒッピー達を見ても穏やかな表情でありむしろそれらをどこか楽しそうに眺めるクリフ。

リックの家のアンテナを直した後、ヒップーの少女であるプッシー・キャットをピックアップする。

映画では微塵もそんな話は出て来ないのだが、平和で調和に満ちたユートピアを目指す若い彼女達に、自分達には成し得ない何か新しいものを運び込んでくれるというきらめきや希望のようなものを感じていたのではないか…と思う。
(対するリックは「時代に取り残された存在」であり、自分の現実と向き合うのに精一杯な訳だから、ヒッピーの考え方を毛嫌いするのも当然と言える)

また、映画の本筋とは関係ない、私の感覚の話でしかないが、少女をスパーン牧場まで送る車の中で「フェラする?」と聞かれた際、ごまかしも受け付けず、きちんと年齢を聞いた上で「18歳である法的根拠がないならダメだよ」と断っているのが、とても良い描写だなと思った。

躊躇なく他人に暴力を振るってしまう「危険なダメな人間」でもあるクリフだが、「子供に対しては正しい大人として接する」ことができているのだ。

同じように、あれだけ酒にだらしなく短気でFワードを連発するリックも子役の少女と話す際、涙を溢してしまう場面もあったが、実に穏やかな「正しい大人として接する」ことができている。

「ダメな大人」であり、正反対な2人だが、こういった部分が共通しているというのがまた魅力だよな、と思う。

スパーン牧場にたどり着いたクリフは、(おそらく)自分達が撮影していた時代の牧場とはかけ離れた、廃れておりヒッピー達の生活拠点にされてしまった牧場を目撃する。

そして、ヒッピー達の制止を振り切り、牧場の経営者であるジョージ・スパーンに会うが、ジョージはクリフを「覚えていない」と言い切り、「彼ら(ヒッピー達)に利用されていないか」と心配するクリフに対し、「彼女(ジョージの世話をしてくれているヒッピーの少女)は俺を愛している」「ざまあ見ろだ」と言う。

正直、映画の中でヒッピー達がスパーン牧場を「何か悪いように使っていたり」、「ジョージを苦しめたり痛めつけたり」している描写は全くない。
ただ「生活の場として使用し」「ジョージの世話をし」「一緒に過ごし」「牧場の馬を観光客の案内用に使っているだけ」だ。
そしておそらくジョージも、年をとり動けなくなりつつある自分の代わりに牧場を使ってくれるのなら、自分の世話をしてくれるならと思いヒッピー達が牧場を生活の場として使うことを許可したのではないかと思う。

だからこそ、ここでのクリフの乱入というのは、ヒッピー達が守ってきた「平和で調和と幸福で満ちた世界」を破壊する「悪役」でしかないのだろうと思う。
(同じ頃リックが『対決ランサー牧場』で悪役を演じているように、クリフも悪役を為しているとも言える)

そして、ジョージの言った「ざまあ見ろだ」という言葉は、
「お前は俺を助けてやろうと思って来たのかもしれないが、俺はそんなこと望んじゃいないし、お前を必要ともしていない」
「お前が覚えている(期待して見にきた)スパーン牧場もジョージ・スパーンももう残ってはいない」

そんな意味が込められていたのではないかと思う。

ジョージの住む家から出た後クリフはため息混じりに「全く…」と口にする。
もうリックやクリフが過ごした「古き良き時代」のスパーン牧場はもはや存在しないことを痛感するとともに、「古き良き時代」を忘れられない自分に対してのどうしようもないやるせなさ故の言動だったのではないかと思う。

子役の少女とリック

クリフがプッシー・キャットをピックアップし、スパーン牧場を訪れる頃、対するリックは子役の少女と出会う。

当初は「良い人間(大人)」として、少女に接しようとするリックだが、読んでいる本について少女と語り合った際に、本の主人公と自分の境遇を重ね合わせ、思わずの少女の前で涙を溢してしまう。

明確に示されているわけではないが、少女の俳優という仕事に対する前向きで真面目な姿勢(演技に集中するため昼飯を食べない、役の名前で呼んでほしいと願う等)と自分の現状(撮影の前日に飲み過ぎる、俳優として落ち目であるという現実等)を比較して(おそらく)落ち込んだことも、涙の理由なのではないかと思う。

加えて、その後の『対決ランサー牧場』の撮影では、セリフが出てこず、自分より年下の「主役」の俳優の前で、リテイクを何度も重ねてしまう。
プライドをズタズタに傷つけられ、全員の前で恥をかいたと控え室であるトレーラーの中で暴れまくり、泣きじゃくり、自分を卑下し、鏡の中の自分に対して話しかけるリックの姿が何とも痛々しい。
しかし、ここには自分を慰めて、褒めてくれるクリフはいない。

自分で自分を何とか奮い立たせ、自分が思い描く「悪役」を精一杯演じるしかないのだ。

結果、見せ場のシーンでリックは周囲の人間も絶賛し、自分でも満足のいくような素晴らしい演技を見せる。演技を終えた後のリックの「やり切った」という表情。
この映画のレオナルド・ディカプリオの演技の中で、一番良い演技だと思った。

リックとクリフ、それぞれの出来事の後。そして…。

クリフが運転する車でリックの家に帰るまでの間、家に帰った後。

彼らは特にそれぞれの出来事について、語らない。
リックは「セリフをど忘れしてしまったこと」「それでも良い演技ができたこと」を語らないし、クリフは「かつて自分達が過ごしたスパーン牧場の現状を見てきたこと」を語らない。

2人で車に乗ってぼんやり過ごし、美味しいものを食べて、酒を飲んで、面白いものを見て、笑って過ごす。

それだけでその日あった痛みや幸福を飲み込み、お互いに癒しあっているのだ。

(そういう友人がいるって凄いことだよな〜〜と私なんかは羨ましく思ってしまった)

しかし、そんな2人にも別れが訪れる。

半年後、イタリアに滞在し4本の映画に出演した後、リックは将来の不安からクリフを雇い続けるのは厳しいと判断し、ロスに帰国後、「自分達の旅も終わりにしよう」と告げ、クリフもそれに同意する。
(個人的な解釈でしかないが、『対決ランサー牧場』で自分が満足できる演技をできたというのもリックが役者を続ける上での大きな転換をもたらすことになったのではないかと思う)

そして、2人の旅が終わる最後の日。

家に侵入するマンソンファミリーと鉢合わせするクリフ。
思わず笑ってしまうのはLSD漬けのタバコを吸ったせいか。
それとも、「こんな日にこんなことが起きるなんて笑うしかない」のか。

スタントマンだからこそできる技で、マンソンファミリーという「死(をもたらす存在)」にクリフは逆らう。

スタントマンだからこそ、俳優であるリックを身を挺して「死」から守る。

しかし、彼だけでは「死」を消し去ることはできない。
クリフはファミリーの1人を残して、刺されたナイフのせいで倒れてしまう。それでも。

リックという俳優が焼き尽くすことで、初めて「死」を消し去ることができるのだ。

事件後、クリフはもうスタントマンとしての活動を満足にはできないだろう。

しかし、クリフはそのことを対して気にはしていないように見えた。
だって、リック以外の俳優のスタントマンをやることなんて考えてもいなかったから。
自分はスタントマンとして、俳優であるリックを「死」から守ることができたのだから。

救急車でクリフが坂を下った後、対照的にリックは坂の上にいるポランスキー邸に呼ばれる。

その場にクリフはいない。寂しそうに坂の下、クリフが去っていった方向を振り返るリック。

「いつかポランスキーの新作にお呼ばれするかもしれない」なんて言っていた時は、クリフが隣にいてくれたのに。

それでもこの時にできたポランスキー夫妻、その友人との間にできた絆のおかげで、怪我が治り退院したクリフを紹介することもできたのかもしれない…そんな「もしも」のことを考えたりしてしまった。

御伽話で終わらない。

最後に、リックとクリフと対比するような形で登場する、シャロン・テートと彼女に纏わる事件について述べる。

ロマン・ポランスキーと結婚したシャロンは、夜は多くの友人に囲まれながらパーティーを満喫し、朝は惰眠を貪り、音楽を聴きながら片付けをゆっくりするようなまさに華やかで幸福な生活を送っている。

この映画を見た当初は、シャロン・テートに関する事件について全く知識を持たずに見ていたため、映画自体は楽しめたが、シャロンの描写にここまで長い時間をかける意味があるの正直疑問だった。

しかし、事件の事実を知ったことで、シャロンの描写に対する意図や意味を理解した。と同時に、とても切ない気持ちになった。

実在したシャロンがどんな人間だったのか、どんな生活をしていたのかを私は知らない。
だけど、きっと映画のような幸福な日々が確かにあったのは事実なのだ。

休日にヒッピーの少女を拾うようなことはしなかったかもしれない。
自分の映画を観客がいる中で見にいくようなことはしなかったかもしれない。

だけど、ヒッピーの少女を車に乗せて楽しそうに話すシャロンの無邪気さが、自分が演じたシーンを見た観客が笑う姿を見て喜ぶシャロンの純粋さが、あの事件の「残酷さ」や事件が起きてしまった「後ろめたさ」のようなものから、彼女の死を、私たちの中にある事件への痛みを救い出してくれているような、そんな気がした。

ラストシーン、実際の事件のような結末は訪れない。
「あり得たかもしれない結末」を映し出し、「御伽話」として映画の幕は閉じる。

そう、この映画はどうしようもなく「御伽話(フィクション)」なのだ。
「御伽話」として、どれだけ美しい結果を描いたとしても、それは現実ではない。
過去は変わらない。想像の世界の「もしも」の話でしかない。

それでも、御伽話だからこそ、救われる時が、救われる心があるのだ。

「こういう人生だってある」
「こういう生き方だってある」
「こんな友人ができる可能性だってある」
「こういう死に方だってある」
「こういう痛みがある」
「こういう愛情がある」
「こういう優しさがある」

キャラクターに自分を重ねる。
ストーリーに共感する。

現実では誰にも言えなかった、自分でさえ気づけなかった自分の痛みを「御伽話」が癒してくれる瞬間がある。

「御伽話」で終わらずに、その先の私の人生を、「現実」を生かし続けてくれることが、確かにあるのだ。

「だから、お前は映画が好きなんだろ?」

そんなふうに思わせてくれる、素敵な映画だった。

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