仕事になろうがなるまいが、小説を愛することにかわりはない
読書好き少女のご多分に漏れず、私も物心がついた頃から
「将来は小説家(当時は「作家」って言葉を知らなかった(^^;))
になりたい」
と考えていた。
でも、なれなかった。
そもそも新人賞に応募したことすらなかった。
(今回の「note創作大賞」が初の応募)
複雑な家庭の事情で、高卒で社会に出る必要があった。
とてもじゃないけど「夢見る夢子さん」ではいられなかった。
高校の商業クラスで簿記やPCの知識をつけたものの、
最初の就職に失敗し、次に入ったのは広告の校正会社。
細かい文字を日に数万字チェックする苛酷な仕事のため、
1.5だった視力は0.7まで下がったが、仕事にも人間関係にも満足していた。
そこで数年働いたあと、
運よく公費留学の試験に受かって中国に語学留学した。
その後数年間、香港で経理の仕事をしたのちに帰国。結婚。出産。
そのあいだ、私にとって本は「趣味や勉強で読むもの」に過ぎず、
本を仕事にすることなど考えたこともなかった。
口コミで叶った「小説を仕事にする夢」
帰国してまもなく、ふたたび校正の仕事に就いた。
けれど、今度は広告ではなく出版系。そして社員ではなくフリーランス。
数社の校正会社と請負契約を結び、もらえる仕事は選り好みせずにもらった。
なんせ14年間で6児を産んだ私は、常に妊娠か出産間近か授乳中の状態💦
とてもじゃないけど出張校正はできないし、在宅で活字のお仕事をさせていただけるだけでもありがたい🙏
とにかく来るもの拒まずで、受けられる仕事は片っ端から受けていた。
右手に赤ペン、左手で授乳。これも、在宅校正者ママなら誰でも通る道(笑)
そんなある日、口コミで文芸誌の会社からお声がかかり、
プロ作家さんの小説を校正することになった。
恥ずかしながら、その仕事を受けるまでまったく知らなかったけど、
その文芸誌は数多くのベテラン作家さんが連載をもつ有名雑誌だった。
本屋の平台で必ず目にする作家さんの原稿を校正する……
高卒後、就職に失敗した自分に、
まさかそんな仕事を任される日が来るとは思ってもみなかった( ;∀;)
幼い頃の夢である小説家(作家)になることは叶わなかったけど、
思わぬ形(口コミ)で小説を仕事にすることができた。
そんな、ある意味で非常にラッキーな私だが、その一方で、
「小説を仕事にするハードルは、昔に比べて格段に上がっているな」
と感じる。
その理由について、自分なりにまとめてみた。
「作家として生き残りたければ、新人賞とったくらいじゃダメ」と先生は言った
その文芸誌で私が一番多く校正させていただいているのは、
中山某先生である。
中山先生といえば、その気どらない(すぎる(笑))お人柄と、
世の矛盾や不条理を一刀両断する小説で有名な方である。
私も毎回、先生の原稿を読むのが楽しくて仕方がない。
その中山先生が、今月の某文芸誌で、
「生き残れる作家になるには」
というテーマのインタビューに答えていた。
その記事における先生の主張の要点は、ズバリ、
「作家として生き残りたければ、新人賞とったくらいじゃダメ」
なぜなら
「2冊目からは『新人賞受賞』の帯つかないんだよ。
1冊目よりいい作品書けなきゃ、あっという間に消えちゃうよ」
「そもそも賞をとらないと売れないようじゃダメ。
売れてる人は受賞しなくても売れているんだよ」
う~ん……キツいっすね(笑)
しかし、まあ、私も足掛け25年間、出版界の裏方に従事してきたので、
先生のお話には首肯するしかない。
賞を取って作家デビューした=一生安泰……じゃないんだよね。
賞を取った時点で少なくとも5作くらいの「自信作」ストックがないと、
翌年には忘れられている可能性もある。
それくらい厳しい世界ということですね。
そもそも小説は必要とされているのか?
「作家として一生食べていく」
それは本人の実力もさることながら、
「何を書くのか」
によっても、実現可能性が変わってくる。
現代の、とくにスマホ世代の人々が求めているのは、
「自分にとって、ソッコーでタメになる情報」
であることは、もはや周知の事実である。
そのため、彼ら彼女らが本屋に行って買う本は、
今すぐ欲しい情報が載っている実用書が多い。
実際、我々の会社に持ち込まれる仕事も、実用書が最も多い。
彼ら彼女らが小説を買うとすれば、
ドラマ化や映画化した作品
『王様のブランチ』で紹介していた作品
自分の『推し』が読んでいた作品
が多い。だって「面白いことが保証されているから」
「スマホやNetflixなら絶対楽しいに決まってるのに、
面白いかどうかもわからない小説に時間をとられるなんてイヤ」
今後、人口の新陳代謝が進むにつれて増えてくるのは、
そういう考えをデフォルトにもつ世代である。
幼い頃からスマホに慣れ、小説といえば国語の教科書くらい。
それは「小説を味わう」ためではなく「テストで点を取るために渋々」
する読書である。ゆえに小説を読んで面白いと感じた経験が希薄なのである。
そういう世代を相手に小説を売り込んでいくのは、
これまでの出版業界が経験したことのない難事業に違いない。
小説が売れなくなって困るのは、小説を書きたい人ではない
今後小説の需要が減っていった場合、
いちばん困るのは作家志望者ではない。
編集者や出版社、書店や書店員である。
作家志望者なら、
「小説で食べていけなさそうなら、他の仕事を探そう」
「今の仕事でもっと上を目指そう」
と方向転換できる。
仕事にできなくても小説を書くのは自由だし、
今はネットの投稿サイトに載せたり、
文学フリマに参加して販売する方法もある。
一方、すでに小説(の編集や販売)を仕事にしている編集者や出版社、書店や書店員にとって、小説が売れなくなることはリアルに経済的な問題である。
小説の収入減を補填できる稼ぎ頭セクター(Mハウスの雑誌のように)があればいいが、どのみちスマホ世代は本という媒体への興味が薄いため、それもなかなか難しい状況だ。
では、どうすべきか。
それはここで論じるべき内容ではないし、「はっきり言ってどうしようもない」というのが忌憚なき私の本音でもある。
仕事になろうがなるまいが、小説を愛することにかわりはない
私自身は、書籍や活字に携わる仕事で生計を立てることが目標だったし、
19年前に長女を妊娠してからは、ずっと在宅でその仕事をやってこれたので、仕事への満足度は100点である。
たまに小説は書くけれど、それを仕事にしようとは考えていない。
なぜなら、上に述べた小説を取り巻く状況や、中山先生のお話からも、
それが非常に難しいことだと理解しているから。
校正の仕事も、前述のとおり某文芸誌で中山先生らの小説を毎月校正させていただいているが、本数としては多くなく、メインは通信講座のテキストや実用書である。
なので、やはりここでも「小説に命運を賭ける」状況にはなっていないし、
その分気楽に楽しくお仕事させていただいている。
そもそも小説は、「なんとかして売らねば」というものではなかったはずである。
それが証拠に、昔の作家はたいていが貧乏だった。
裕福になりたきゃ、小説なんか書かずに商売でもしろという時代もあった。
それでも彼らが小説を書いたのは、書くことでしか発散できない感情
(欲望、義憤、鬱屈あるいは狂気、etc…)があったからではないか。
もし、明治時代の文豪たち(ストレイドッグスではなく(笑))が現代に生き返り、至るところにはびこっている「商売としての小説」を目の当たりにしたら……
彼らはいったい、なんと言うだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?