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55歳,女性,主婦

この頃、立とうとするときに、よろよろすることがあって。
義母が立ち上がるときに「あー、しんど」って言っていたり、杖ついて歩いているのを見て、昔は本当かなって思ってたんだけど、最近は本当にそうなるかもって思ってきてね。「足が痛い、痛い」とか言ってたり、「痛くて眠れない」って言いながら、寝てんだろうなって思ってたけど、本当に痛くて寝れないことってあるのかもしれないなって。

今の所、理想の死に方は考えていなくて、でも、理想の生き方は考えてる。それは情景としてはイコールなんだけど、実際のところちょっと違う。気持ちとしては、「生き抜くこと」を理想にしているかんじ。死に方っていうのは死に場所とか、死ぬスタイルでしょ?でも、「ずっと生きよう」と思ってるの。とにかく。

昔はさ、生きても35歳までだと思ってたんだよね。美人薄命だから(笑)。でも、35なんて大変だよ。だって子どもがこんなちっちゃいのに死ねない。もし、結婚していなかったり、子どもを産んでなかったら、多分35で死んでたと思うの(笑)。美人薄命だから〜。

今は「毎日、あれしなきゃ、ああしたい」って思っているうちにいろんなところが朽ちていっちゃって、心臓止まっちゃう、気がついたら死んでた。っていうのが理想。本当に些細なことでいいの。明日は納豆買おうとか。何にもやることがないとか、ワクワクしないとか、そういうのではダメだよね。テーマがあるお年寄りっているじゃん。常にやりたいことがある人は強いんだよ。

義母は、腰が痛いから病院に行くんじゃないんだよね。
詩吟の時に、自分の足で立って歌うためにはどうしたらいいかって考える。そのために、腰の病院に行きましょう、足の病院に行きましょう、歩きましょうっていうのがあって、大会にも出られる。そういう目標がないと、「今日は寒いから、病院やめとこう」っていうふうになる。痛いのと寒いのを天秤にかけると寒いが勝っちゃう。詩吟の大会で勝つためには、寒いんだけど行くしかないっていう選択肢しかないわけ。だから目標の場所だよね。明日が楽しいとか、何か楽しいものを持ち続けて生きていこうと思ってる。

歩道と車道の間に白い線があるじゃない?
小学校の低学年か、幼稚園くらいの時に、父親と自転車に乗っていたときに「白い線の上、まっすぐ自転車で乗れる?」って聞かれて、絶対できると思ったら、手元が揺れちゃって全然だめだった。家に帰ってから「なんで、できなかったかわかる?」って聞かれて、「自転車漕ぐのが下手だったから」って言ったら「違う違う。前を見ないからだよ。先の方を見ないで、足元の線ばっかりみてたからだよ」って。
だから常に迷ったり、ぶれちゃった時には、足元見すぎてるんだって思うことにしてるの。でも一生懸命になりすぎると足元ばっかり見ちゃう。それが年取ってからすごくしみじみ感じていること。

うまく死ぬためには、だいぶ先を見ながら生き抜いてるといいのかな。

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