同居人の死がこわくて石膏像をつくりました
大事な人たちが死ぬのを受け入れられる気がしない。悲しいのはもちろんだけれど、その悲しみによって生活や仕事が満足にできなくなるのが本当に嫌だ。嫌なのに、結構な確率で経験しなくてはいけない、自分が早く死ぬしか避けようがないという状態自体も不愉快だ。
今最も私を脅かすのは同居人だ。死んだらどうしよう。ものすごく健康で元気だけど、この人もいつかは死ぬ。そもそも、もともといなかった状態でも幸せだったはずなのに、大事な人がいなくなったことで元よりも幸せではなくなるのはおかしくないだろうか。親以外の素敵な他人はラッキーオプションなはずだ。おかしい。
この状況はどうしたら打破できるのだろう。自分が早く死ぬのは嫌なので、それ以外とすると、大事な人たちの死に対しての負担軽減措置を講じるしかない。死によって人格が失われることは防げないが、肉体を保存するのはどうだろう。
同居人を失ったときに、1番取り戻したい部位はどこだろうと考えて、手かなと思った。夜私が眠れない時に、同居人は手を頬に当ててくれる。私がもぞもぞ動いていると、彼は眠っていて意識がないまま、枕と私の頬の間に手のひらをねじ込んでくる。これをされると、暖かくて柔らかくてすぐうとうとしてしまう(そしてその手がビクッとなったタイミングで顔を鷲掴みにされて起こされる)。同居人の手のひらは私の頬の形をしている。
しかし、日本では、亡くなった人の肉体を肉をつけたまま保存すると法に触れる。骨を残すしかないが、いま露出していない部分である骨と、私の間には思い出が少なく、それで満足できるとは思えないので、石膏像を作ることにした。「暖かくて柔らかくて」というのは失われるが、お湯で温めつつ湿らせれば多少はごまかせると判断した。
調べてみたら人の手を模って石膏像を作るキットがいくつか売っていた。インターネットはいつだってすごくてありがたい。お子さんの手形や足形を残すという需要があるようだ。確かに子どもの手や足はかわいいもんね。産まれる喜びを表現する商品で、死に備えるのはなんだかおもしろいと思った。
ナイス商品テトリッコ(廃盤になっていた):https://pupu-rokkoner.ssl-lolipop.jp/arcoasis/4996193870031/index.html
同居人に話したところ、自分も私の手が欲しいとのことだったので2人で作ることにした。ここからは写真で作成過程をお送りする。
ここで、固まったシリコン樹脂から手を抜き、空いた穴に石膏を流し込む(はしゃいでしまって写真なし)。
手形をとった。その結果、同居人の死がこわくなくなりはしていない。けれど、死に対して備えている、十分ではないかもしれないけれどできることはしているという気持ちで生きていくことができている。
さらに、このテーマについて、一緒に考えてくれる人が3人いるのも大きなことだ。会社に2人、高校の同級生に1人。私だけで結論にたどり着かなくても良いという安心感もある。画期的な解決方法がいま思いつかなくても何とかなりそうと思える。
追伸:上記の3人のうちのひとりから、AIに学習させれば人格もある程度残せるのではという提案があった。来週有識者に聞いてみることになった。
追伸2:また別のひとりから、ある映画を勧められた。観て感想を書いた。
同居人の話