【うつ病体験談】うつ病アラサー女が社会復帰するまでのルート
私は現在、うつ病で障がい者雇用で在宅ワークで働いている。
職業はwebライター。
うつ病と診断されたのは社会人3か月目で、そこから
「大きい病院のデイケアプログラム(1年)」
→「就労移行支援事業所(1年)」
→「Webライター」
といった流れで社会復帰した。
ここからはうつ病になった経緯だったり、症状だったりを書いていく。
『うつ病から社会復帰できるのかわからなくて辛い』
『うつ病の人に対してどんなルートを示せばいいか分からない人』
こんな人達に何か助けになればいいと思って、色々と書いて行こうと思う。
ちなみに、自立支援医療や精神障がい者手帳の手続きについては省略している。
この時点で身体は限界だと言っていた就活時代
うつ病になったのは社会人になり3か月目ですが、うつ病は自己肯定感の低さや家庭環境だった気もする。
後々振り返った時にこれヤバい症状だなって思ったのは、就活時期。
父親は数年前くらいに仕事を辞め、母親がパートと兄の給料で家庭は支えられていた。
そんな家族を見ていたので『絶対に就職して働かなければ』という思いが強かった。
あと今思えば早くから心配しすぎだろと思われるけど、『両親の介護もしなければならない』とか自分へのプレッシャーを自らかけていた。
前提が長くなったけど、こういった思いがあるから「就活浪人」とか「就職しないまま卒業」という選択肢が無かった。
私は自分に自信がなさ過ぎて、人前に発表することが苦手だし、他人と話すことが苦手。
就活は本当に辛かった。
そう、辛すぎたのでストレス症状が出始めた。
・授業中なのに15分ぐらい笑いが止まらない
・空き時間にブレスケアをバク食いする
ずっと笑って苦しいのに笑いが止まらない。友達にとても心配されたけど、止めようもないのでどうしようもない。
しばらくしたら笑いは止まったけど、後にも先にもこれだけ笑ったのは初めてだった。
プレスケアについては本当に無意識で食べていた。
おやつがあるから食べる。そんな感じでパクパクと食べていた。
これについては人前ではやらないので、自分の胃だけが痛くなった。
ストレスの限界がきた社会人時代
就活時期だけでも不安な症状が多かったのに、続いて新社会人時代に移る。
年が終わろうとしていた10月くらいに内定をもらえたので、学習塾の事務員として働くことになった。
学習塾の事務は昼から仕事を開始し、24時過ぎに終わることがほとんどである。
つまり、自律神経が終わる。
ついでに自分に向いていない作業トップ3の電話対応、親や子どもへの受付対応がある。
電話は嫌いだし、人とのコミュニケーションも苦手なため察しのいい人なら気づくかもしれない。
ストレスでうつ病まっしぐらコースになった。
うつ病と診断される前に出た症状として
・帰り道でボロボロ泣く
・電車が職場に近づくほどに胃痛
・遊んでも特に楽しい気持ちがない
・身体が起き上がらない
これは病院に行かなければと思ったのは、身体が起き上がらない症状だった。
腕も足も重りがあるんじゃないかってくらいピクリとも動かないのである。
当時の私はもうビックリしたけれど、「これうつ病の症状では?」と思いついた。
そっからはもう『職場に行く<<<心療内科に行く』だったので、身体は不思議と動き速攻で病院へ向かった。
もちろん診断は「うつ病」だった。
仕事を辞めてデイケアプログラムへ
うつ病になってからは、
・電気の明るさが目に痛い
・電話のコール音の幻聴
・文字は読めるけど頭に入らない
・視界は通常だけどなんだか世界が白黒のイメージがある(説明が難しい)
・少しの失敗で泣く
・胃痛
・ストレスで喉が痛い
・頭痛(気圧とストレス)
と、出るわ出るわストレス症状。
うつ病を認識してからの方が身体的に辛かった。
そんな感じで週一ペースで病院に通っていたが、そこで先生に「自分が参加しているデイケアプログラムに来てみないか」と提案された。
仕事を辞めてからは大学の恩師の手伝い(アルバイト)をしていたが、特にそれ以外やることもないしと提案を受けたることにした。
デイケアプログラムは大きい病院ということもあり、基本5人から10人くらいの人が参加していた。
でも、いつのまにかいなくなってた人もいたし、1年間最後まで参加した人はそう多くはなかった記憶がある。
私が参加したデイケアプログラムは、一般的に思われる空気のこもった場所に押し込まれて黙々と何かをするといったものではなかった。
前半は卓球や鬼ごっこなど身体を動かすプログラム、後半はストレスを逃すテクニックといった座学だった。
人と意見交換をしたり、自分の状態が「とっとと苦しい気持ちを逃したい」と思っていたので、当時はなかなか効果を感じなかったが思い返してみると「これは勉強になったな」といったことが多かった。
1年間あっという間に過ぎ、会社を辞めた時よりも人と接することが楽になっていたし、うつ病の症状もだいぶ良くなっていた。
就労移行支援事業所での就活
そもそも、なぜ就労移行支援事業所に行こうと思ったのか。
それはまだ社会に出ることに怖さがあったからだ。
なので、一緒に就活をしてくれるらしい就労移行支援事業所に行くことを決めた。
また、この時にはもうデイケアプログラム卒業もするし、恩師のアルバイトも「恩師への負担になるのではないか」といった気持ちにもなったので、アルバイトを辞め社会と向き合ってみようと思えたきっかけだ。
就労移行支援事業所の多くは、PCに向き合いofficeソフトの勉強をするらしい。
しかし、私が行ったところはデイケアプログラムと同じように、遊びを取り入れて勉強の敷居を低くしていた。
ここも多くて10人ほど通っている人がいた。
デイケアプログラムの時と違い、いつの間にかいなくなる人は少ない。
卒業するのは就活を終えた人からだった。
就労移行支援事業所に参加するメンバーは完璧な運である。
私はここで同時期の人達と折が合わず、孤立することが多かった。
これはもう私のせいではある。
空気が読めない発言をされると腹が立って反論してしまったり、自分達で皆で遊べるアナログゲームのプログラム(授業のような時間)を作る時には自分が完璧主義過ぎて、回りを置いて全て自分が遊ぶ道具など取り決めてしまった。
さて、ここまで読んでいる人が知りたいのは就活がどんな感じになるかだろう。
就労移行支援事業所に半年以上通った人は、就活時期になる。
就活はハローワークに行ったり、ネットで調べたりする。
実習をしてくれる企業の合同説明会に行って、面接もした。
面接時には就労移行のスタッフが隣にいてくれるので、自分が言い忘れたことや聞きづらいことを聞いてくれたりして心強かった。
1度、2週間ほど実習に行き「ここの作業ならいけそう」と思ったのだが残念ながら、そこの求人はなくて落ち込んだことを覚えている。
行く当てもないし就活したくないのでライターに
本当に失礼な話なのだが、今の会社にお世話になったのは「就活がしたくなかったから」である。
就労移行支援事業所の知り合いに、「ネットの文章を修正できる人」を探している人がいたらしく、過去にブログやら個人サイトを作っていた私に白羽の矢が立った。
ネット大好きなオタクでよかった。
実習もなんなく終わり、作業がよくできていたとのことでオウンドメディアのリライト作業員として採用されることになった。
そうして成り行きでwebライターとなり、5年以上経過している。
おわりに
前半のうつ病時代のことが長すぎて、デイケアプログラムや就労移行支援事業所について説明が短くなってしまったが、これが私がうつ病になって社会復帰するまでのルートである。
現在うつ病で社会復帰までのルートがわからない人や、うつ病の人をサポートしたい人に何か伝われば嬉しい。
ただ、私がここに書いたルートが全てではない。
人によって病気の回復具合や生活している環境は違うので、自分にあった方法で社会復帰を目指して欲しい。
やりたいことも違うと思うので、無理に「ライターを目指すぞ」なんて思わなくてもいいのだ。
ばーっと書いていったので、詳しくはなにか別の記事とかで書きたいなと思いつつ、これで締めたいと思う。
ここまで見ていただき、感謝。
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