寺なの?神社なの? 平泉寺白山神社編
寺なの、神社なの?どっちなの?
というややこしいお名前の平泉寺白山神社は、福井県勝山市平泉寺町に鎮座する「神社」です。
「神社なのになぜ平泉寺?」とお思いかと思いますが、その理由は、ここが明治時代まで「霊応山平泉寺」という天台宗の有力なお寺だっからなのであります。
もう少し歴史を紐解いてみたいと思います。
この辺りには、昔から白山(はくさん)信仰と呼ばれる山岳信仰がありました。白山とは、福井、石川、岐阜県に跨る標高2,702mの山です。白山から流れ出る豊富な水が田畑を潤し、人々の生活と農事の一切が成り立つこの地域では、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、人々から崇められていました。
この頃の白山信仰は、宗教というよりも、原始的な自然崇拝。どちらかといえば神道的なものなのかな。
時は進み、飛鳥時代に仏教が伝来すると、山岳信仰と仏教が結びついて、修験道としての白山信仰が体系化されていきます。
さらに時は進み、奈良時代。717年。
今の福井県越前市のあたりに泰澄(たいちょう)というお坊さんが居ました。
泰澄センパイはある日、夢を見ました。夢に女神が現れ「白山においで」と仰ったそうです。お告げを信じた泰澄センパイは、白山登拝を決意します。なお、白山は山そのものが御神体ですから、長らく人が足を踏み入れることは禁じられていました。記録の残る中で、泰澄センパイは初めて白山に登った人なのであります。
そうして、泰澄センパイによって開山した「霊峰白山」は、その後平安時代に天台宗延暦寺系列のお寺になります。最も栄えたときには、ここには48の神社、36の寺、8,000人の僧兵たちが住む一大宗教都市となったそうです!
興味深いことに、戦国時代における平泉寺は、時の戦国武将、織田信長と強力タッグを結んでいました。先の記事で浄土真宗(一向派)と織田信長が敵対関係にあったことを書きましたが、一向派の恨みを買った平泉寺は、大阪の本願寺方の一向一揆勢に攻められ、全山が焼失します。一部再興されましたが、境内はもとの10分の1程度にすぎず、多くの坊院跡は現在も山林や田畑の下に埋もれたままになっています。
明治時代に入り、神仏分離が進められると、元々は神道的な山岳信仰に端を発するこの信仰の地は、「白山神社」と改められ、その姿を我々の前に留めるのであります。