「大欠如」の発見 『ハーモニー』読解(1)/伊藤計劃研究
伊藤計劃『ハーモニー』には複数の謎があり、中には刊行から14年近く指摘されていないものが含まれている。本稿は新発見である「大欠如」到達までの経緯と、具体的な指摘、および「大欠如」そのものの技術的読解を意図するものだ。
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最初に、技術上の疑問があった。作中の技術ではない、フィクションを書く技術の話だ。その疑問とは何か? 『ハーモニー』では複数のタイムリミットが設定されており、片方はいつの間にか姿を消してしまう事だ。
一般論で言えば、複数のタイムリミットを走らせるのは下策でしかない。各々の印象は薄まり、効果的な扱いは難しい。自分が編集者の立場なら、止める部類のサスペンス手法だ。
そして「霧慧トァンのセラピー期限」については作中、いつの間にか消失してしまう。おそらくは若書きゆえの失敗、そう当時の私は推測していた。
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タイムリミットひとつの消失は、若書きゆえの見落としではないか――そんな考えが揺らいだのは、以下の旨の文章を読んでからだ。結果的に間違いだったものの、これが新発見のきっかけとなった。
先に述べた通り、この仮説そのものは誤りである。決して日付のカウントミスではない。作中の描写を読むと、丁寧に否定されていたのだ。
中盤までの霧慧トァンは日本におり、実家に寄る時間がありそうに見える。けれども序盤の霧慧トァンは実家に立ち寄る気がない。そのやる気のなさは、作中で何度となく述べられている。
決定的なのは「やる気の無さを覆すための動機」の不在だ。
以下、根拠を示そう。
しかし、である。終盤、日本への一時帰宅は肯定されたものの、「セラピー期限は?」との指摘は引っかかり続けた。セラピー期限の扱いが、途中から消失しているのは確かなのだ。
描写についても引っかかる。タイミングの限定がやけに丁寧、いや、丁寧過ぎる。諸々を先回りして、他の可能性をひとつひとつ潰している類の丁寧さなのだ。
原稿の冒頭で「タイムリミットの併置が釈然としない」とは既に述べた。
――恐らくは、ここに何かがあるのではないか。
直感が働いた。今となっては、そう述べて良いかも知れない。
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作中の描写からは、終盤で「霧慧トァンが日本の実家へ戻っていた」のは事実と考えるしかない。霧慧トァン自身がそう述べた箇所では、戻ったタイミングまで説明されている。
いくら本文を確認しても、このくだりに関する記述はこれ以外に存在していない。直接の記述は存在していない、だが行動していたことは事実。
ゆえに、こう結論づけるしかない。
『ハーモニー』には空白の数日間、「大欠如」が存在しているのだと。
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記述の空白を示唆する描写は、作中にいくつも存在している。さらに言えばこの「大欠如」の存在は、作中にある複数の謎と深く絡み合ってもいる。「大欠如」の発見なくして、『ハーモニー』の全容解明はあり得ないと言っていい程だ。 (続く)
付記:本稿は読み物を念頭に置いた簡易版である。より仔細な検証、および検証のため作成した資料は、研究用の資料として有償公開を予定している。
付記2:公開しました。
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