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「大欠如」の発見 『ハーモニー』読解(1)/伊藤計劃研究

 伊藤計劃『ハーモニー』には複数の謎があり、中には刊行から14年近く指摘されていないものが含まれている。本稿は新発見である「大欠如」到達までの経緯と、具体的な指摘、および「大欠如」そのものの技術的読解を意図するものだ。

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 最初に、技術上の疑問があった。作中の技術ではない、フィクションを書く技術の話だ。その疑問とは何か? 『ハーモニー』では複数のタイムリミットが設定されており、片方はいつの間にか姿を消してしまう事だ。

・日本編序盤、生府のセラピー規定。タイムリミットは5日。
  ※霧慧トァンは友人の自死遭遇により、セラピーを受ける義務がある。
・日本編終盤、御冷ミァハの『一人一殺』宣言。タイムリミットは7日。

 一般論で言えば、複数のタイムリミットを走らせるのは下策でしかない。各々の印象は薄まり、効果的な扱いは難しい。自分が編集者の立場なら、止める部類のサスペンス手法だ。
 そして「霧慧トァンのセラピー期限」については作中、いつの間にか消失してしまう。おそらくは若書きゆえの失敗、そう当時の私は推測していた。

   ・

 タイムリミットひとつの消失は、若書きゆえの見落としではないか――そんな考えが揺らいだのは、以下の旨の文章を読んでからだ。結果的に間違いだったものの、これが新発見のきっかけとなった。

「霧慧トァンのセラピー期限は5日間」
「この日付はバグダッドを離れチェチェンに行く間に相当する」
「ところが、まさにその時期に”日本へ戻っていた”との記述がある」
日付上は、日本に戻ればセラピー期限に突き当たり拘束されてしまう
「つまり霧慧トァンは終盤、日本に戻っていなかった?」……。

 先に述べた通り、この仮説そのものは誤りである。決して日付のカウントミスではない。作中の描写を読むと、丁寧に否定されていたのだ。
 中盤までの霧慧トァンは日本におり、実家に寄る時間がありそうに見える。けれども序盤の霧慧トァンは実家に立ち寄る気がない。そのやる気のなさは、作中で何度となく述べられている。
 決定的なのは「やる気の無さを覆すための動機」の不在だ。
 以下、根拠を示そう。

・最初に霧慧トァンが「御冷ミァハ特製名刺」の存在を思い出したのは、冴紀ケイタの大学研究室で用事を済ませてエリヤ・ヴァシロフ捜査官に遭遇する段階である。
・直後には空港へ車を走らせており、空港へ到着してバグダッドへ旅立っている。
・「思い出した=それまでは名刺の存在を忘れていた」ことから、常日頃から持ってもいない。
・ゆえに、霧慧トァンは終盤「御冷ミァハ特製名刺を実家へ取りに行った=日本へ戻っていた」。

 しかし、である。終盤、日本への一時帰宅は肯定されたものの、「セラピー期限は?」との指摘は引っかかり続けた。セラピー期限の扱いが、途中から消失しているのは確かなのだ。
 描写についても引っかかる。タイミングの限定がやけに丁寧、いや、丁寧過ぎる。諸々を先回りして、他の可能性をひとつひとつ潰している類の丁寧さなのだ。

 原稿の冒頭で「タイムリミットの併置が釈然としない」とは既に述べた。
 ――恐らくは、ここに何かがあるのではないか。
 直感が働いた。今となっては、そう述べて良いかも知れない。

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作中の描写からは、終盤で「霧慧トァンが日本の実家へ戻っていた」のは事実と考えるしかない。霧慧トァン自身がそう述べた箇所では、戻ったタイミングまで説明されている。

 そう言ってミァハは、わたしがバグダッドからチェチェンに出発する前に日本に立ち寄って、実家の机から引っ張り出してきたミァハ自身の「名刺」を差し出した。  

 伊藤計劃『ハーモニー』文庫版p320

 いくら本文を確認しても、このくだりに関する記述はこれ以外に存在していない直接の記述は存在していない、だが行動していたことは事実
 ゆえに、こう結論づけるしかない。
『ハーモニー』には空白の数日間、「大欠如」が存在しているのだと。

   ・

 記述の空白を示唆する描写は、作中にいくつも存在している。さらに言えばこの「大欠如」の存在は、作中にある複数の謎と深く絡み合ってもいる。「大欠如」の発見なくして、『ハーモニー』の全容解明はあり得ないと言っていい程だ。 (続く)

付記:本稿は読み物を念頭に置いた簡易版である。より仔細な検証、および検証のため作成した資料は、研究用の資料として有償公開を予定している。

付記2:公開しました

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