モラルハラスメントを受けた私の記録 ~実の妹から虐められました~
私は、家族―――実の妹から、モラルハラスメントを受けました。
モラルハラスメントとは、ざっくり言えば、精神的ないじめです。
分かりやすい身体的ないじめに比べて、より巧妙で陰湿、加害者と被害者が逆転して見える場合もある、より複雑で慎重にみていく必要があるハラスメントです。
私が実際に具体的に受けた行為は、精神的な嫌がらせから、窃盗のような犯罪に当たる行為まで多岐にわたります。ここでは、私が受けたいじめ(モラルハラスメント)について、できる限り具体的に、備忘録として記します。
〝モラハラ〟被害を自覚するまで
今まで遭ったのは「外でのいじめ」だけだと思っていた
これまで私自身の人生は、いじめと無縁な生活は正直ありませんでした。
小中高と、誰かしらからターゲットにされていました。
大学では、私をいじめていた人が同じ大学の教職のコースに入り、オリエンテーションで「高校時代のいじめは楽しかった」と私に聞こえるように言っていました。
学生時代、正直いじめに縁のない生活はありませんでしたが、先生のみなさんが毅然と対処してくださったため、今はかつてのいじめっ子にもう関わりたくないな、くらいの状態でいられています。
新卒で入った会社では、トップから、長時間叱責され立たされる、書類を投げつけられるなどのパワハラを受けました。二度転職しましたが、自分がターゲットにならずとも、いじめのない職場はありませんでした。
けれど、なんとか処世術を身に付け、いじめはいけないことだけど、なくならないから、遭わないように上手くやっていければそれでいい…そう思って過ごしていました。
ですが、一番深刻な問題は、私自身の家族内で起こりました。
実の妹からのいじめ(モラルハラスメント)を受けたのです。
そして、ずっと仲の良かったと思っていた妹から、それとわからないよう、当の加害者本人も無意識に行っていたような、嫌がらせを長年受け続けていたことにも気づきました。
幼少期からの「モラハラ」傾向―――長年の被害をようやく自覚
加害者である妹は、幼少の頃から、モラハラの傾向がありました。
母の話によると、赤ん坊のころ、妹は私が遊んでいるおもちゃばかりを、取り上げて遊んでいたといいます。
物心ついたころから、妹には以下のような傾向がありました。
いいものは自分で独り占めする。
取り返せば私のものを取られたと言う。
思い通りにならないと不機嫌になる、無視する、要求が通るまで絶対に何もしない動かない(受動的攻撃)。
ためらいなく相手をつねったり引っかいたりし、でも自分がされれば泣いて親に告げる。
耐えかねて反撃すれば、ここぞとばかりに被害者としてふるまう。
親からは私が加害者に見えるので、親は私を怒る。「お姉ちゃんなのに、どうしてそんな些細なことで優しくなれないの」と抑圧する。
そして「年少者という立場があれば何をしても許される」と学習した妹は、「私に逆らうなら親に言うよ、怒られるよ、それでもいいの?」と暗に態度で示し、親すら利用し、常に優位に立とうとする。
たまに親が私の味方をすれば、姉ばかりずるい、姉だからって優遇されてる、と喚く。親はそれもそうか、と妹に謝り、慰める。
まだ幼いうちから、加害者にはすでにモラハラの兆候があったのです。
ひとつひとつは、本当に些細なできごとかもしれません。
しかし長年にわたってこれらの行為が蓄積することにより、傷は確実に蓄積していきました。
いつしか妹に対する罪悪感や恐怖心を植え付けられ、無意識に、つねにきょうだいの機嫌を損ねないようにふるまうようになっていました。
また、「お姉ちゃんなんだから」を真に受けていつも我慢していた私に対し、いつも先に親に”被害”を訴える妹、という構図の中で、巧妙に私の評価は下げられていきました。
親は妹の訴えばかりを聞いて私を叱り、反論すれば『お姉ちゃんなんだから』と口を噤ませる。
反対に私が訴えれば妹に『そうなの?』と丁寧に聞き取り、『違うって言ってるけど』『そんなつもりじゃなかったって』と妹の言い分を優先する。
『許してあげない優しくない姉』という空気のなかで、こちらが謝るしかなくなる。
反撃した時ばかり妹が親に訴えるので、いつも私が妹に嫌がらせををしているかのように見える。
反撃したり被害を訴えたりすればこちらが加害者にされる、ということを繰り返し学習させられてしまうので、いつしかこちらからは何もできなくなりました。
それがパターン化し、いつしか親は私を悪者にすることで場を収めるようになっていきました。同じことをしても、妹は許され、私は許されない。妹の心ばかりが慰められ、私が感じている傷はいつも無かったことになる。そんな環境になっていったのです。
そんな中で、あるとき決定的な〝いじめ行為〟を受けたことで、これまで加害者から長年受けていた行為がモラルハラスメントであることに気づきました。
そして起きた、決定的な〝大人のいじめ〟
被害を自覚する少し前、もともと生きづらさを抱えていた私は、先に自分が過干渉型の毒親育ちであることを自覚し、『自分軸で動くこと』『自他境界を引くこと』を意識して過ごしていました。
要するに、相手の機嫌や態度は相手の問題。受け取らない。できるからといって自分がやらなければいけないわけではない。自分はどうしたいか。ということを意識する生活を少しずつし始めていました。
そんなあるとき、妹が「頼み事」をしてきました。
いじめやモラハラの被害に遭ったことがある方なら、きっとこの感覚がわかると思います。いじめ加害者からの『頼み事』は、断ったら何をされるかわからない『命令』です。
妹がいつも「頼み事」という体の命令で私を動かすこと、断れば不機嫌になるかもしれない、ということは分かっていました。今までの自分ならば面倒を避けるために、言うことを聞いていたと思います。
けれど、自分が引き受けなければならない問題とは思えなかったため、いう通りにはしませんでした。
妹にとって、私は何でも言うことを聞く存在で、まさか自分の頼みが断られるとは思っていなかったのでしょう。
命令を聞かなかった報復としての、言い逃れようのない具体的ないじめ行為を受けました。
時期としては、2022年の年末のことです。
具体的に受けたいじめ行為
〝無視事件〟
妹は私を〝無視〟しました。
私から話しかけても、一切答えない。何も話しかけられなかったようにふるまう。
両親とは話をする。
私が両親としている会話にはなぜか入ってくるが、その流れで妹個人へ話を振っても一切無視する。
私のことはまるで無視をしながら、両親とは笑って会話し、テレビを見て笑い、楽しそうにしている…
無視、このいじめ被害を経験したことのある方なら、この心のざわっとした感じや、ざらりとした感触が、きっと分かると思います。
ほっといてとか、一人にさせて、という無視とは明らかに違いました。
私の命令を聞かないお前が悪い。私が無視して分からせてやっているんだ。私に逆らうからこうなるんだ。そういう無視でした。
明らかに、命令を聞かなかった私への報復としての行為でした。
前述したように長年、妹に対して罪悪感を抱かされていた私は、「してあげなかった私が悪かったのでは」と、いつもなら思っていたでしょう。しかしどうしても、このときは、自分に非があったとは思えませんでした。
「やっぱり自分にも悪いところがあったのではないか?」「大人しく言うことを聞いていればよかったのではないか?」と、何度も何度も自問しました。
ですが、「断れば不機嫌になるとわかっている、従う以外に選択肢のない状況で断ったこと」以外に落ち度があるとはどうしても思えませんでした。
そして、「断る選択肢を与えず、従わないことに対して不機嫌を顕わにする」ことや、「命令された側が『大人しく従っていればよかった』と後悔する」ことになる状況は、どう考えてもやっぱりおかしい、と思いました。
そんな私を、さらに追い詰めるできごとがありました。
親はいじめを目の前で見ているにもかかわらず、加害者を叱りも諫めもしなかったのです。
当初、私は何をされたか、事細かに親に訴えました。ですから、両親は何が起きたかすべて知っています。
しかし、加害者が「そんなつもりじゃなかった」と訴えたため「お互いに悪いところがあったんじゃないの」という話にされました。目の前で私に対するいじめを見ていたのに、です。
「私に対するいじめをやめるように言って」と再三訴えても、親は妹のところへ行って話を聞き、「あなたにも非があるときょうだいは言っている」「お互いに悪いところがあったみたいだから」と、「お互いの言い分をじっくり聞く」という名目のもと、結局は取り合ってくれませんでした。
どちらが悪いのか、どう見てもわかる状況なのに。
さらに妹は、「私だって昔こんなことされた!」と並べ立て訴えてきました。だからあなたにも非がある、それに対する報復だ、悪いのは私だけじゃない、と言いたげでした。
ですがそれはすべて、過去に私が先に加害者から被害を受け〝反撃〟した時のことばかりだったのです。
文字通り、加害者が挙げた〝被害〟のどれもが、です。
嘘だと思いたいくらい、加害者が挙げた〝被害〟のすべてが、私がかつてした〝反撃〟のことでした。
ここまできて、さすがの私も「これはおかしいのではないか?」と気づきました。
この違和感をきっかけに、ネットや関連書籍を読み込んで、『モラルハラスメント』という言葉に辿り着きました。
加害者から受けた一連の行為は、典型的なモラルハラスメントだったのです。
相手の都合を無視し、世界は自分の思うとおりにならないと我慢ならない、自他境界を踏み越えてくる存在がいるということ。
そして長年、無意識のうちに機嫌を伺いつづけていたこと。
幼少のころから、長年にわたりモラルハラスメント的態度をとられつづけていた、と、ようやく気づいたのです。
ずっと仲がいいと思っていた妹からの被害をようやく自覚したとき、物凄くゾッとしたのを覚えています。
否、小さな違和感はずっとあったけれど、気のせいだと思いたくて見逃してきてしまったのだろうと思います。
自分が被害者なのに「罪悪感」を抱かされ、被害に気づきにくい。これがモラハラ被害の根深さなのです。
そして、この行為についての謝罪は、未だにありません。
グループLINEからの追い出し
無視という証拠の残らないいじめだけでなく、ネット上での、明確な証拠も残るいじめも受けました。
共通の知人のいるグループラインからの追い出しを受けたのです。
手法も、タイミング的にも、相手を傷つける意図が明確な行為です。
さすがに私や親からの指摘を受け、加害者は渋々ながらグループを元に戻しましたが、この件についての謝罪は未だににありません。
謝罪もなく、「撤回したんだからいいでしょ」と言わんばかりの態度。
ですが、一度こういうことをしたことで、『この人はこういうことをする人だ』という事実だけが残りました。
また、このグループに所属していた知人には直接会って謝罪し、加害者からいじめ・嫌がらせを受けていること、その一端の行為だったことを説明しました。
家庭内窃盗
加害者は、私のものを盗ることもしました。
幼少の頃から兆候があったように、加害者が私のものを自分のものにしてしまうことは、たびたびありました。
今回はその中でも、具体的な行為の例を2つを記します。
一つは、小学生の頃のできごとです。
とある宿泊行事に参加し、おやつを持参することになりました。
(遠足でよくある、500円分まで、というようなあれです)
私は私の予算の範囲内で、好きなお菓子を買い、同じく参加する加害者も、自分の予算でおやつを買っていました。もうすでに自分の分を買った加害者が、私が選んだおやつを見て、なんだか物欲しそうにしていたのを覚えています。
そして、いざ行事に参加し、おやつを食べようとすると、私が一番楽しみにしていたおやつがなかったのです。
そして確認すると、私が買ったはずの、そして加害者が買っていないはずのそのお菓子を、加害者が持っていて、食べていました。荷造りが終わった私の荷物から、そのおやつだけを加害者が抜き取っていたのです。
小学生の頃のできごとで、もう20年近く経っていますが、いまでも鮮明に思い出せる被害です。
もう一つは、直近にあった事例です。
かつて私の部屋には、加害者が「自分の部屋の本棚に収まりきらないから」といって、私の部屋に置いていった漫画本がありました。しばらく置かれていたため、新刊が出たシリーズは、私がお金を出して買い足していました。
ところが、前述した無視やLINEいじめを受けたあと、加害者は黙ってその漫画本を引き上げて持っていきました。私が買い足したものを含め、すべてです。
私は買い足した分だけでも返してほしいと訴えましたが、加害者はこれを拒否しました。
中には、加害者が無断で古本屋へ売却したものもあったようです。
他人のものを黙って持って行ったこと、そして本人には返還の意思がなかったことの悪質性から、私は警察への通報を検討しました。家庭内とはいえ窃盗は犯罪であり、これまでもたびたび同様のことがあったことから、たかが数百円、数千円の問題ではなく、さすがに看過できなかったためです。
しかし、警察沙汰にはしたくない父親に説得されたため、最終的に通報はせず、買い足しの分を父親がかわりに購入する、ということで一応の決着をしました。
今日に至るまで、窃取された物品の返還、および金銭的な補償や謝罪は未だありません。
加害者の、反省のないツイート
私は加害者と、その味方をする親と一緒に生活することに耐えられず、祖母の家に避難しました。祖母は事情を聞き、温かく迎えてくれました。それは年末年始のできごとでした。
しかし、親が私を祖母宅に送っていっている間に、加害者がまったく反省の色のないツイートをしていました。
これはいじめを行ってまもなくの頃の、加害者のツイートです。
一見普通の内容ですが、「いじめ加害者が加害直後にしたツイート」だと知ったうえで読むと、その異様さがよく分かると思います。
自分がしたことへの反省もなく、自分の行為を棚に上げ、家族が出かけている間に料理を作ることになったことを怒っています。間接的に自分は悪くない、自分が被害者だと暗に主張する文章です。
ですが、家族が出かけることになったのは、加害者がいじめを行ったからです。
本来怒っているのはいじめ被害者です。加害者が怒るような場面ではありません。
このツイートには、事情を知らない加害者のフォロワーの方々から、心配のリプライが届いていました。
加害者は本当に外面がよく、誰もが知る企業に勤め、ぬい撮りをSNSに上げてフォロワーを集め、オフ会やオンリーイベントなどにも積極的に参加し同志と交流を深めています。その裏でいじめの加害者になっていることは、加害者のフォロワーの方々は露ほども知らないと思います。
普段は『ぬい撮り』をしてSNSに上げ、同じぬい撮りをするファンと(自分がいじめ加害者であることを隠して)SNS上やリアルでも交流しています。
心優しい炭治郎と強くて正義感のある煉獄さんのファンであるのに、実際にしているのは〝鬼〟のような所業。ちゃんちゃらおかしいです。
もちろん、作品やキャラクター、ぬいぐるみに罪はありません。悪いのはいじめをした加害者本人です。推しに恥じるような生き方を選んでいるのは、他ならぬ加害者自身です。
そのためなおさら、こんな人に推される炭治郎たちがかわいそう…と思ってしまいます。
この作品に限らず、いじめ加害者に愛されるために正義のキャラクターを作るクリエイターはいないはずです。もしいじめをしているなら、今すぐにやめて、加害者に心の底から謝罪し、反省し、正しい道を歩んでほしい。誰もがそう思うはずです。
人の心を持たない人が、この世にはいます。理不尽に奪い、反省もせず、悔やむこともない。これは原作の主人公の台詞です。
いじめ加害者から、これ以上理不尽に奪わせない。二度と、誰も、私たちと同じ悲しい思いをさせない。その思いでこの記事を書いています。
鬼滅の刃も、私の好きな作品のひとつです。ですが理不尽に人を傷つけ奪う『いじめ』は、たとえファンであろうと許されない行為です。
好きだった作品のファンを名乗る人間から、いじめを受けたことで、好きな作品への純粋な気持ちを汚されてしまいました。
同じ作品のファンを名乗りながら、いじめをする人間は、ファンの風上にも置けません。
「悪いことをしたから罰を受けた」がわかっていない
こうして祖母の家に避難した私ですが、なぜ被害者が家族と離れて過ごさなければならず、加害者は普通に家でおせちを食べているのだろう…ともやもやした気持ちを抱えていました。
そんなとき、元中学教員でありいじめ問題について発信しているのぶさん(@talk_Nobu)のツイートを見ました。
(当該ツイートは見失ってしまいましたが、近いことを最近おっしゃられていたので引用します。)
その通りだ、と思いました。
今は被害者が不登校になったり、保健室や別室へ登校し、一方で加害者が普通に登校し続けていることが多いのが現状です。ですが本来、罰則や行動制限を受けるべきは加害者であり、被害者の教育を受ける権利が奪われてはいけない。
私も同じだと思いました。本来なら家でお正月を過ごせていた私の権利が、なぜ奪われなければならないのか。
このツイートを見た私は親に訴え、必死に訴えた結果、私が家に戻り、代わりに加害者が祖母の家に預けられることになりました。住み慣れた家に、そして加害者のいない空間に戻ることができ、とてもほっとしたのを覚えています。
ところが、少し経って、加害者は『なんでずっとここにいなきゃいけないの。家に帰りたい』と言い出しました。もちろん私への謝罪はありません。
自分が何をしたかの反省も、加害者が被害者のそばに戻ることによる精神的負担も考えていない。それどころか、自分が悪いとすら思っていない。
当の本人は、自分が悪いことをしたから寺に預けられたり奉公に出されたりしているようなものだ、という意識が全くなかったのです。
そして親も加害者の言い分をのみ、加害者はあっさり家に帰ってきました。
その後も再三親に訴えましたが、いじめを諫めも叱りもしませんでした。それどころか、私がSNSにしていた被害記録を、ブロックしていた加害者が別垢で盗み見て『悪口を書かれている!』と訴え、親は私に消すように言ってきたのです。そのため、被害記録のツイートを消さざるをえませんでした。
被害者がいくら事実を訴えても届かず、加害者が被害者ぶった訴えの方が通ってしまう。私の傷つきはなかったことになる。その虚しさに疲弊し、今はもう家族に何も期待しないことにしています。加害者は今も、何事もなかったように笑って暮らしています。親も楽しげに加害者と笑いあっています。
この一連のできごとにより、『人を傷つけない、人が嫌がることをしない』という意識を、身近な家族ですら、共有できていないことに愕然としました。しかも両親は教育関係者でした。
ここで私は、消してしまったツイートの代わりに、記事としてこの出来事の記録をnoteに残すことを決めました。
その後も続く嫌がらせ
はっきりとしたいじめ行為のあと、加害者と会話することはなくなりました。ですが軽微な嫌がらせは断続的に、現在まで続いています。
詳しくは『自己愛性パーソナリティ障害』の項目で後述しますが、加害者が『自分はむしろ被害者である』とごく自然に考えているからこそ、良心による歯止めもかからず、その行為への違和感もなく、そういうことをしてしまえるのだと思います。
被害ツイートを消させる―――いじめ被害の告発に『悪口を書かれた!』
これについては前述しましたが、このような行為も被害者を装って本当の被害者を攻撃する、いじめ行為の一種です。
実際の被害を時系列で追うことができた、何よりもの証拠になるものだったので、加害者の圧に屈せず、意地でも消さなければよかったと、今では後悔しています。
そのためこの記事では、当時のことをなるべく詳細に思い出しながら、時系列を追って書いています。
ガスライティング―――偶然を装った嫌がらせ
表立った加害を、今は加害者はしなくなりました。代わりに今は、指摘しても偶然と言い逃れしてしまえるような、軽微な嫌がらせが続いています。
わざとぶつかる、邪魔になる場所に立つ、私が次に入るときお風呂の追い焚きを切る、夜の廊下で私が来たタイミングで明かりを消す、私のものを勝手に食べる、家族内で融通しているものを私にだけ使わせない、イラストの仕事のために経費で買った備品を勝手に使う…など、細かいものをあげればきりがありません。ガスライティングとも呼べるような、本当に些細な行為を積み重ねられています。
もちろん中には本当に偶然だったものもあるのかもしれませんが、これまでの経緯から、これらを偶然だと言われても、加害者の言葉は信用できず、これらを100%偶然と判断できる材料を、こちらは持ち合わせていません。
このように一つ一つは些細で、偶然と受け取れてしまい、加害者も言い逃れできる攻撃を続けることは、モラハラ加害の特徴のひとつです。
事例として、最近された行為を一つ挙げてみます。
我が家では髪を洗った後に使うドライヤーは、家族兼用で使っています。一方で加害者は、自分用のドライヤーを持っています。
あるとき、家族用のドライヤーが故障しました。タイミング的に後日買いに行くことになり、その間、家族は加害者から借りて使っていました。が、加害者は私にだけは使わせませんでした。なのでその間、私は髪を洗うことができませんでした。(時期的に寒く、自然乾燥では風邪をひいてしまう可能性があったからです)
いい年をした大の大人なのに、していることはまるで小学生の幼稚な嫌がらせ…それがモラハラ加害者の行為なのです。
譲ったものを『貸した』と言う―――被害者を悪者に仕立てる手口と、〝お前のものは私のモノ〟
言葉の綾を利用し、被害者を悪者に仕立てる。これも加害の手口のひとつです。この手口に嵌りかけたこともあります。
私はイラストレーターという仕事柄、ペンタブレットを使用しています。昨夏、それまで使用していたペンタブレットの調子が悪くなり、買い替えを行いました。そして、それまで使用していたペンタブレットというのが、何年も前に加害者から「使わないから」と譲り受けたものでした。
私が使用しているペンタブレットが新しくなったのを見たのでしょう。母親から「加害者が『前のタブレットは私が貸したものだ』と言っているよ」と言われました。
はじめは、その意図がわからず、返してくれという意味だと思って、使い古したものだけどいいのか…と思いつつ、母親を通して渡してもらうつもりで、旧ペンタブ一式を母親に預けました。しかしその後、母親から加害者にそのタブレットが渡った気配がないのです。ここで、加害者の意図に気づきました。
加害者はペンタブを返してほしかったのではなく、「自分のものを捨てられた被害者」として振る舞うために「あれは私のものだ」と主張したのだと。
ペンタブが新しくなったということは前のものを捨てたのかもしれない、あれは元々私のものなのだから、もし捨てていたら『私のものを捨てた』と非難することができる。
だから、母親からすんなりタブレットを返されるのは、期待した反応ではなかった、ということなのでしょう。
そもそも、前述したように、加害者は私のものを盗ったり、借りパクしてそのまま自分のものにしてしまう、ということがよくありました。
以前誕生日プレゼントで親からもらった服がありました。しかしあまり私が着る機会がなかったとき、「貸してほしい」と言われ、少しならいいか、と思い貸しました。ところが、それきり私に返ってくることはなく、そろそろ私もそれを着たい、と思ったときには「いらないからもらった」ということになっており、持ち主は加害者であるとされて、私が着ることはできなくなってしまっていました。加害者は、人のものを貸してもらって使うことに抵抗はありませんが、自分のものを使われることはひどく嫌がるからです。
服や下着など、私のもので自分が気に入ったものを、箪笥から持って行ったり、洗濯して乾いて取り込むタイミングで自分の洗濯物と一緒に持って行ってしまうことも、今でもあります。そして自分が着て「これは自分のモノ」であるという既成事実を作り、「他人が使うのを嫌がる」ことで、完全に自分のものとして囲い込んでしまいます。私が同じように洗濯物をしまうタイミングで取り返せば、「私の〇〇はどこ?」と親に聞き、親の手で取り上げてもらうことで取り返してきます。
それらについてなんの反省もないまま、こちらだけを非難するなど、筋が通りません。
加害者は以前から、自分のことは棚に上げて、こちらの小さな非難の糸口を見つけ出し、被害者として振る舞うのが得意でした。そしてその手口は今も健在であることを再確認しました。
後述しますが、こういう手口のパターンを学習することで、被害にあわないようにすることもできます。
罰による権利の剥奪を嫌がる
一連の流れのあと、いじめを見てみぬ振りした両親は、さすがに負い目を感じたのか、加害者が不在の際に気晴らしに連れ出してくれました。同時に、加害者を外出に連れて行かないことはいじめに対する一種の罰でもありました。
ところが加害者は、「ずるい」「自分はハブられている」と言い出しました。
そもそもいじめをしなければ、あるいは心の底から謝罪して反省していれば、一緒に連れて行ってもらえたかもしれない、それだけのことです。それすら加害者は分かっていませんでした。
そしてあろうことか親は、ある外出の予定について、スケジュールについて私に嘘をつき、「この日行けないのであれば別の予定を入れよう、行く日は後でまた決めるのだろう」と思った私が、その日別件で外出している間に、加害者とともにその予定に出かけるという行為をしました。私もそれを楽しみにしていただけに怒りは大きく、なにより嘘をついてまで加害者の言うことを聞いたこと、親も心の底では加害者に味方しているのだという失望を新たにしました。
サボタージュ(受動的攻撃行動)―――人にやらせる、という嫌がらせ
幼少期から今にかけての過去の加害者のモラハラ的行動の中でも触れましたが、受動的攻撃(サボタージュ)行為は現在も断続的に続いています。このサボタージュは当該加害者の行為の中でも特に長期間続いているものです。
サボタージュは、ものごとを行わず、相手に負担を押し付けることでその「やらずに済む」という恩恵を享受する、いわゆる搾取構造の嫌がらせです。自分がやらないことで自分が楽をし、相手に押し付けて相手のリソースを奪う行為です。
周囲から見れば、被害者が攻撃されていることは非常に分かりにくいのですが、昔、やられたことが積もり積もって殺意を持ってしまったことも何度かあるくらい、その実は攻撃的で陰湿な行為なのです。
幼少期から加害者には、思い通りにならなければ動かない・自分がやらないことで面倒なことは他人にさせる、といったサボタージュ傾向はありましたが、最近はとくに顕著です。
今回のいじめ行為の後、一度我が家は引越しをしていますが、それを境に、仕事以外の自分の外出のために長時間家を空け家事を回避する、あるいは家にいても頑なにやらない(結果的にほかの家族がやらざるを得なくなる)、ということが増えました。以前からその傾向はありましたが、格段に頻度は上がっています。
ひとつ例をあげれば、『洗濯機を回す』ということを、加害者は引越し後1年以上、一度もしていません。(私はイラストレーターとして在宅ワーク+遅い時間帯のバイトという生活のため、それを把握しています)
これだけ継続していれば、さすがに故意だとわかります。
イラストの仕事のため私が家にいて、加害者もシフト休みで家にいる、他の家族は仕事で留守にしている…という時にも、ぜったいに洗濯機をかけません。
洗い終わった洗濯物を干したり乾いたものを畳んだりはしますが、汚れた洗濯物には触ろうとしません。
洗濯機の操作方法や適切な洗剤の量がわからないというわけではありません。もしわからなければ、やり方を聞いてやればいいだけです。
思い返せば、引っ越し前も言われる前に自分からやることはまずなく、何も言わなければ洗濯物を回す役割は、母か私に固定されていました。
また、最近は父も、私にやり方を聞き、自発的に洗濯機を回すようになりました。現在の家庭内で、洗濯機を回さないのは加害者だけです。
先日、私も妹も家にいるという時で、私は前日深夜までイラストの仕事をし、先に妹が起きていて、父には出かける用事があった、という日のことです。父が妹に洗濯機を回すよう頼んだところ、憮然として押し黙り、結局洗濯機を回さなかったそうです。
困った父は、後から起きてくる私へこのようなメモを残していました。
この日、結局妹はずっと家にいました。しかし洗濯機を回すことはありませんでした。後述しますが、『何があろうと、自分に時間や余裕があろうとやらない』というサボタージュ行為の特徴がよく分かる事例です。
このようなことが続き、「妹が家にいても結局私が洗濯機を回すことになる」ということが頻発したため、現在は『妹が家にいるときは私が洗濯機を回さなくてもよい』と親に約束をしてもらっています。
他にも、食後テーブルを台拭きで拭く、汚れたガスコンロの掃除、生ごみの処理、排水溝のネットの交換、米とぎなどの家事も、加害者が行うことは引越し前後通してほぼなく、役割が他の家族に固定化されていました。
たとえば、食後の片付けの際、親が食器を洗い、妹が拭いて仕舞っていたとします。その間私は、台拭きやガスコンロの掃除や米とぎなどをします。しかしタイミング的に私が食器を拭くことになった場合―――妹は台拭きやガスコンロの掃除や米とぎはしません。手持ち無沙汰そうに過ごすか、自分の仕事は終わったものとしてさっさと自分の部屋に行くかしてしまいます。結局、親か私がやることになります。
もしここで親が妹にガス台を拭くよう頼もうものなら、憮然としてソファに座り込み、何時間も動かなくなったことでしょう。(過去に何度かそういったことがありました)
いずれも共通点は、手が汚れる仕事だということです。
(今回ハッシュタグ「#家事分担の気づき」にも参加していますが、このように我が家では、「特定の人物(いじめ加害者)が、頑なに家事分担を行わないサボタージュをおこなっている」という事例紹介のつもりです)
もちろん、仕事が忙しくて家事をさぼってしまう…ということは誰しもあると思います。私もイラストの仕事が忙しく、気づいたら夕食の準備が終わっていた…夜遅くまで作業をしているため、起きたらもう先に起きた家族で家事が済んでいた…なんてこともあります。
自分一人しかいないときは、めんどくさくて家事を後回しにして後でまとめてやる…食事も簡単に済ます…そんなときもあります。これはのちのち自分に降りかかるだけであって、するしないは自分で決めているし、他人に迷惑はかけていません。その分、手が空いていたりタイミングが合えば他の手伝いをしたりもします。
ですが受動的攻撃によるサボタージュは、されたことがある人ならわかると思いますが、そもそもの動機が違います。
自分がやらないことで自分が楽をし、相手に押し付けて相手のリソースを奪うことが目的の行為ですから、何があろうと、自分に時間や余裕があろうとやらないのです。
サボタージュは一見、自分のキャパを超えた問題を引き受けない、自他境界を引いた姿勢とも似ています。が、その実は相手の都合を考えず、あるいは都合を無視して相手に問題を押し付ける自他境界不全であり、そこは明確に区別する必要があります。何があろうとやらない、いつも結局他の人がやることになる、やるべきことを不自然に無視している、ということがあれば、サボタージュを疑ってください。
依然、被害者としてふるまう―――えっ、あなた、加害者ですよね?
私は、イラストレーターという職業柄、家には参加させていただいた書籍の献本や、展示で使用した展示物などが届きます。
ところが、加害者はこれらが目に入ることを嫌がります。親もそれに合わせて、「加害者の目の届かないところに飾らないとね…」などと言います。
よくニュースやネットの声で、ハラスメントを受けた被害者が、メディアに露出する加害者やそれに関連するものを見て精神的苦痛を受ける、ということは、よくあることです。
でもよく考えてみてください。この振る舞いをしているのはいじめの〝加害者〟です。
自分がしたことを棚に上げてか、あるいは反撃されたことを全て「被害」だと純然と信じているのか…明確な「悪いこと」をしておきながら、自分が被害者だと信じて疑わない、加害者の特徴がよく分かる振る舞いです。
いじめ・ハラスメント加害者の行動原理を理解するためのキーワードを知ろう
実際に私がモラルハラスメント被害の当事者になり、この現状を理解したくていろいろと調べるなどした結果、キーワードがいくつかあります。これらのキーワード理解することにより、加害者の行動原理についてもある程度理解することができました。
私は、多くの人にもこれらの言葉やその意味を知ってほしいと思っています。
その言葉や意味、つまり『いじめの手口』を認知する人が増えることで、加害者の言動に惑わされず、正しく『だれが本当の被害者なのか』を判断できる人が増えると思っているからです。正しく判断できる人が増えることは、いまいじめ被害に苦しんでいる人が救われる機会を増やすことにつながります。
幼児的万能感
一回きりのことではなく、長年にわたって被害を受け続けていたことを自覚したとき、母が『きょうだいは赤ちゃんの頃、先に私が遊んでいたおもちゃをいつも取り上げて遊んでいた』と言っていたことを思い出しました。
三つ子の魂百まで、と言いますが、正常な発達をした人であれば、『むずがれば人は言うことを聞いてくれる』『自分の言うことが正しい』という感覚は、成長とともに自分の能力の限界や周りとの比較、また自分の得意不得意を理解して、徐々に薄れていき、他者を思いやるように変わっていくものです。ですが、現状を受け入れない、自分が最優先されないと気が済まない、相手を見下し自分のために動くのが当然だと思っている、巧みに責任転嫁する、などのいわゆる幼児的万能感を持ったまま成長してしまうことも、モラハラ加害者になる一因になるようでした。この特徴は加害者の言動にも当てはまっていました。
最近では、加害者本人が「両親に頼んでいた」という、とある外出のお土産を金銭的理由で買ってこなかったことに対して、食べたかったと本気泣きしていました。そこに「相手にもできなかった事情があるかもしれない」「本当に食べたいなら自分で入手する努力をする」という考えはないようでした。
両親も、家に買い置きしてある食料は基本的には誰でも食べて良いのですが、加害者のものかもしれないので気を遣って手を付けない、といった行動をするようになっています。(周囲の人に「この人の機嫌を損ねたらまずい」と思われていたら「モラハラ」と判断できる基準のひとつになります)
ちなみに加害者本人は、三十路になった大の大人の女性です。
幼児的万能感を手放せないまま大人になってしまったかわいそうな人、という点においては、加害者に多少は同情します。が、現実に受けた被害がある以上、なかったことにはなりませんし、加害をしていい理由にもなりません。
自己愛性パーソナリティ障害(NPD)
二つ目のキーワードである自己愛性パーソナリティ障害(NPD)は、過大な自己評価や特権意識、共感性の欠如などの特徴がある人格障害です。
「自分は賞賛されるべき人間だ」という意識があり、成功時は自分の手柄を強調しますが、賞賛されないと不満を抱きます。
等身大の自己像がなく、努力なく手柄を手に入れることや権力者とのつながりをアピールします。
一方で失敗した時には「自分を理解しない相手が悪い」と責任を転嫁したり、ミスを指摘されても受け入れられなかったりします。
また、共感性に欠けているため、周囲を損得を基準に見て、自分の利益のために他者をコントロールすることもあります。
NPDが尊大にふるまうのは、無意識では自分の無力さを自覚しているためで、それを隠すために行動し、人より優位に立とうとするのです。
そして、他者を低く評価することで自分を上げようとします。あらゆる面で「私のほうが」と強調します。少しでも相手に非があれば、それを理由に押し出して全面的に相手を悪者にします。また、相手がどうすれば嫌がるか傷つくか、相手の弱点を研究しています。相手を下げるためなら人格否定も厭いません。
上司と部下など明確な力関係があるわけでもないのに、上下関係を作ろうとしてくる人がいるなら、その人はNPDの可能性が高いです(力の不均衡)。
さらに、被害者意識や被害感情が強いことも特徴です。他者をコントロールし自分の思い通りになることが当たり前になっているため、自分の思い通りにならないことを「被害」だと感じます。「思い通りにならないお前が悪い」「お前がさせているんだ」という理屈で、嫌がらせをすることもあります。
対処法は、自分の情報をなるべく渡さないようにすることが一番効果的です。NPDは相手の弱みを使ってコントロールしようとしてきます。こちらが弱みを見せないミステリアスな存在であれば、手を出しにくいのです。なにをしてもコントロールされない、境界線を徹底的に引いて優しくしないという、あえて悪人に徹する、というのも手です。
「私はこういうことが嫌だからやめて」と伝えるのは逆効果です。NPDにとっては、相手の弱点を開示されているようなものです。
逆に、他者からの評価には敏感ですから、加害者にとって知られたくない人に被害を伝えることは効果的です。
また、自分の欠点や弱さ、悪事を認められないため、相手に投影することがあります。この場合、被害者が被害を訴えても「お前こそが加害者だ」と反論したり、被害者としてふるまうことがあります。厄介なのは、これが無意識で行われることがあるため、加害者なのに、自分が本当に被害者だと信じ込んでいることがある点です。
ただし、それが投影であるとわかっていれば、受け取らず流す選択ができます。NPDがほしいのは傷つき悔しがる反応、自分が優位であるという実感なので、それを与えないことは効果的です。
さらに、NPDである加害者が投影を行うことで、本当の被害者が「私が悪いのでは」「私のほうがNPDなのでは」と思い悩んでしまうことがあります。かくいう私もその一人でした。「実は悪いのは私のほうだったのでは…」「これくらいで被害者意識を持ってしまう私こそ加害者なの…?」「私のほうこそNPDのような行動をしてしまっているのでは…」と。親が加害者を容認する態度をとっていることもこの考えに拍車をかけていました。
しかしNPDに関連する資料等を調べればわかりますが、NPDは防衛機制のために投影を行っているので、そもそも反省し「自分が悪かった」と考えることができません。
つまり、「自分が悪いのでは」と考えることができる時点で、貴方は加害者ではなく、被害者である可能性が高いのです。
重要なのは、投影行為や被害者意識を持つことは、いずれもNPDの人が、自分の心を保つためにおこなっているということです。
こういったNPDの心理や行動パターンを学習することで、コントロールに気づいてあえてその手に乗らない、投影に気づいて受け流すというような、回避手段を取ることができます。
例として、ひとつエピソードを上げます。
受験生だったころ、とある喧嘩(今思えば、このときも加害者上位の力関係がありました)が起きました。このときの加害者の捨て台詞が『このC判定』だったのです。
受験を経験したみなさんなら、この言葉の悪虐さがわかると思います。確実に相手が傷つく言葉を選んでいるうえ、反論したとしても『事実でしょ』と言われてしまうような、巧みな弱点の選択でした。(ちなみにこの後、このことを親に訴えると、「そんなことで?」と言われる二次加害を受けました)
このようにNPDによる加害には、本人以外には被害が非常にわかりづらいという特徴があります。「具体的に何をされたの?」と聞かれても説明がとても難しく、説明しても「それだけ?」と言われてしまう、他の人が見ても一見攻撃とはわからない、しかし被害者本人にだけは絶対にわかる形で嫌がらせをします。
モラハラ被害を自覚した時、今までに受けた被害の大きさから怒りと悔しさが湧きあがり、『思い知らせてやりたい』という思いが強くなり、仕返しをしてやろう、と思ったことがありました。モラハラ加害者が加害ですっきりするなら、やり返してすっきりすることができるんじゃないか、と思っていたのです。
ところが、いざ仕返しをしようとすると、罪悪感を抱かされているときに持つ感覚(私の場合は、動悸がして、手足・そして視界がすっと遠くなるような感覚がある)が湧いてきて、いかにも悪いことをしているという感じがして、すっきりなど到底できませんでした。そしてこれも実際にすればまた、相手が「被害だ」と主張する材料にされるんだろうなと思い、結局実行することができませんでした。
なぜ加害者はこんなことが平気でできるんだろう、というモヤモヤが残っただけだったのです。
ですが、NPDの特徴だと考えると、納得はできませんが理解できました。普通の人は良心の呵責があり、人を傷つけても心の安定を図ることはできませんが、NPDの人にとっては、人を傷つけ、相手を下げ自分を上げることが心の安定に繋がっているため、傷つけたりコントロールしたりすることも平気なのです。
これらのキーワードが身近になってしまったことも、自身の体験を通して得た衝撃と驚きでした。
ガスライティング
ガスライティングも、いじめ、特にモラルハラスメントの手口のひとつです。
これはモラハラで特に多い手口であり、多くの人にこの概念を知ってほしいため、別個に記事も書いています。
詳しくはこちらをぜひ読んでいただければと思います。
つまりガスライティングは、心理的・精神的虐待の手法を指す言葉です。
加害者は、やったことをやってないと言ったり、相手の感じ方や受け取り方がおかしいと「事実ではないこと」を伝えたり、本人にしか嫌がらせとわからない嫌がらせをしたりします。これにより被害者は、自分の記憶や感覚、考え方がおかしいのではないか?と思わされてしまい、追い詰められ、孤立されられてしまいます。
私の場合は、加害者である妹が加害をまったく否定し、むしろ自分が被害者として立ち回りつづけていることがこれに当たります。
被害を受けた当初は、加害者のあまりにも堂々としたさまに「悪いことをしたのは本当は私だったのか?」と、思ってしまった時期がありました。
モラハラによって罪悪感を植え付けられたというだけではなく、ガスライティングによって認識を歪められていた可能性もあると、ガスライティングという言葉について知ることで気づけたのです。
これは後述する「被害者と加害者の逆転」の特徴とも共通していますが、この手口は周囲の人だけでなく、被害者の認識をも歪めてしまう恐ろしさがあるのです。
ですから、一人でも多くの方に「ガスライティング」という言葉を知っていただき、「それってガスライティングじゃないの?」と判断できる人が増えることを願っているのです。
外面の良さ
モラルハラスメントの被害を語るときに必ずと言っていいほど上がる言葉、それは「加害者の外面の良さ」です。
被害者から見た加害者像と、周囲から見た加害者像が大きく乖離していることがあります。
真面目、優しい、気が利く、仕事ができる、気が合う…
加害者は、職場や友人、趣味仲間など、所属しているコミュニティで、そう評価されていることがあります。もちろん、被害者から見た加害者は、そんな人間ではありません。
が、被害の告発を受けたときに、周囲から「まさかあの人が」「そんなはずは」「何かの間違いでは」という感想が出てくることがあります。
そして、被害者が告発したその『裏の顔』が信じられず、「作り話だ」「加害者を陥れるための嘘だ」と思ってしまい、周囲が被害者を攻撃してしまうことすらあるのです。
また、この事実誤認が、後述する「被害者と加害者の逆転(DARVO)」によって引き起こされることもあります。
これは、加害者からそのような扱いを受けているのは被害者本人だけ、という場合が往々にしてあったり、対外的な態度が被害者に対するものと全く異なる場合があったりするためです。
思いつくものでは、最近パワハラや内部告発問題で騒がれた、斎藤元彦元兵庫県知事の例があります。
もちろん、この件は裁判等で正式に認定されたものではないため、斎藤元知事を批判する目的はないことをお断りしておきます。
この問題が持ち上がり、元知事が百条委員会などに出席した際の答弁を見聞きした限りでは、第一印象として、真面目そうで、かくしゃくとしていて、はっきりした物言いながら物腰は柔らかく、言葉選びもかなり慎重で、頭がよくて口が回る人、という印象を受けました。もし告発が事実であれば、おそらくこれが元知事の「対外的な顔」なのだろうと思いました。
ただ、私も報道等で見聞きした内容と近いパワハラを、過去にいた職場で受けたことがあり、(怒鳴られる、長時間の叱責、書類を投げつけられるなど)その人物が今も第一線で活躍していることを知っています。私を虐めた妹も、親や周囲からの評価はすこぶる良いのが現状です。
そのため、裏の顔が対外的な顔と乖離していてもおかしくはない、とも思っています。
もちろん、この件は裁判等で正式に認定されたものではないため、斎藤元知事が悪いと、ここで断言はできませんが、彼のような特徴をもった人物が実際に加害者となった場合、被害者が周囲に被害を信じてもらうことのハードルは、とても高いだろうと感じています。
そして、斎藤元知事が再選された一連の流れを見て、さらにその難しさを痛感しています。
報道と、SNS等でほぼ真逆の印象を与える情報があり、現時点では、正直どちらが正しいのか判断がつきません。
ただ、今回再当選の決め手になった『パワハラという〝嘘〟をつかれて嵌められた』『既得権益に立ち向かった功績がある』『学生時代にいじめを庇った』『「もし誤解を与えたのなら申し訳ない」といった真摯な姿勢を見せた』といった情報や、衆目の前で見せる一貫して物腰柔らかな態度が、後述する「被害者と加害者の逆転(DARVO)」の特徴を大いに含んでいるように見えてしまうのです。特に「はめられた、パワハラは嘘だ」という情報は、もしパワハラや告発に対する一連の流れが事実であれば、「告発者の信頼性の攻撃」にほかなりません。
ここで大事なのは、再選の決め手は、事実関係ではなく、本当はいい人なのだという〝印象〟である、ということです。
ここでは、斎藤元知事についての一連の事柄が、事実であるかどうか、検証はできません。
ですが、ハラスメントの告発があったときに、加害者とされた側が、告発者が誤っていると発信することで、逆に良い印象を作ってしまうことができる、ということが、広く知らしめられました。同様のやり方をされてしまったら、加害者側の印象を覆すことは、ほぼ不可能なほど難しいと感じます。そして多くの人は、その〝印象〟にしたがって、「加害者側が発信した情報が事実だ」と解釈してしまいます。
ここまでくれば対抗策は、証拠をそろえ、裁判などで事実認定するしかなくなるでしょう。
事実がどうあれ、〝印象〟によって、被害者と加害者の逆転をしてしまうことができる。事実さえ捻じ曲げてしまうことができる。
加害者側の「外面の良さ」とは、それほどまでに厄介なものなのです。
だからこそ、「加害者は外面が良いことがある」と、多くの人が知識として知っておかなければならない、と思います。
そして、作り出された〝印象〟に惑わされることなく、事実関係をきちんと確認する努力を怠ってはならないのです。
被害者と加害者の逆転をあらわす言葉〝DARVO〟
DARVOとは、不正行為の加害者、特に性犯罪者が、自分の行動の責任を問われたときに示す反応のことで、「Deny, Attack, Reverse, Victim and offender」の略です。
加害者が「あいつが悪いからだ」と責任転嫁をしたり、「自分が本当の被害者だ」と主張したり、泣くなどして自分を被害者に見せ同情を引いたり、被害者が告発を行うと加害者が「誤って告発された」と演じ、告発者の信頼性を攻撃して告発者を非難したりします。
加害者が「被害者のようにふるまう」ので周囲は混乱します。
これまでも何度も何度も述べてきたように、私自身も被害を受けた手口です。
DARVOに対抗する手段は、DARVOという概念の存在を知り、周知することです。
手口を知っていれば、加害者による誤った主張を疑い、正しい被害者が誰であるのかを判断することができます。
トーンポリシング
トーンポリシングとは、ある人が表現した内容そのものではなく、その表現方法が怒りっぽいまたは感情的であることなどを批判する行為を指します。
特に、被害者の怒りといった感情をもって「感情的すぎるから信用できない」と、話し手の信頼性を低減させるやり方は、結果的に前述の〝DARVO〟につながる手口です。
DARVOとともに、このような手口があることも知っておいてほしいと思います。
新しい概念〝嫌知らず〟
2024年11月頃、主にSNSを通して急速に広まった言葉があります。「嫌知らず」という言葉です。
この言葉は主に、「相手の『嫌』というメッセージを受け取らない、理解しない人たち」を指します。
嫌という言外のメッセージを送っても、「嫌」と直接言ってもきかず、何度も同じことをする。嫌だと言っても「自分は嫌じゃない」「そういう問題じゃない」と言って取り合わない。何度も何度も同じことをされ、ついに怒りをぶつけると、「嫌ならそう言えばいいのに」と、初めてその『嫌』を言われたかのような反応をしたり、その怒りをぶつけられたことに対して、「急に怒るな」「ヒステリーだ」と被害者ぶったりする。
同じような経験をした人たちの経験談が次々と投稿され、共感を呼んだことで急速にこの概念が広まりました。
「嫌知らず」は、自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の特徴と、とても共通点が多いです。この言葉自体も、NPDの特徴の一部を端的に表しているといえます。そのため、私を含めNPD被害について発信している多くの方は、この言葉をきっかけにNPDとその被害についての理解が広まることを期待しています。
加害者の味方をする親~『二次加害』の辛さ~
いじめをみて見ぬふりをする親の態度は、加害者の味方をする、典型的な二次加害でした。
親が妹の言い分ばかりを聞き、いつも最後は私を悪者にすることで場を収めてきたことは前述のとおりです。長年スケープゴートにされ続けていたことも、被害に気づきにくい原因でした。
いわゆる『過干渉な毒親』のもとで、その影響を直に受けつづけた私と、親に対しても不機嫌でのコントロールを発動し軽やかに回避しつづけた妹とでは、「素直にコントロールされてくれる手のかからない姉」「気難しくて気配りが必要な妹」と扱いが分かれ、妹のほうが丁重に扱われるようになっていきました。
前述したことの繰り返しになりますが、モラルハラスメントを受けた被害を、以前わたしのSNSに記録していましたが、ブロックしているはずの加害者が、別垢を使って覗いていたらしく、「悪口を言っている」と主張したため、それを信じた親によって消させられました。
このように被害を訴えることすら「悪口を言っている」とされ、『人を傷つけるようなことはやめて』『あなたのこと、信じていいのよね?』などと親に言われました。
すべて私が言いたかったことでした。『いじめなんていう、人を傷つけるようなことはやめて』『親のこと、信じていいんだよね?』
SNSの記録を消させられた時には、「知り合いに(イラストレーター・松峰の)名刺を渡している。それにネットで仕事を取っていることだし、見えるところに悪口を描いたら支障が出るだろう?」とも言われました。私にとっては、いじめの被害を受けたことは隠すことでもなんでもないのに。むしろ声を上げなければ、声高に『被害』を訴える加害者に潰されてしまうのに。発信されたくないなら、最初からいじめなんてしなければよかったのに。
本当の被害者の声はこうやって握り潰されていくのだ、と、強い憤りを覚えました。
このように私の本音も反撃もすべて、モラハラ加害者の『被害』の主張の根拠や材料にされて、私が悪者ということになり、私の傷つきはいつもなかったことになりました。
加害者が自分の不利になることを言うわけがないのに、親が加害者の言うことを鵜吞みにし、事実関係の検証を怠ること。
加害者やその行為を諫めることなく、何もなかったようにいつもどおりに扱うこと。
それによって「加害者の行為や存在を肯定してしまうこと」。
それ自体が被害者やその被害、心情を軽視していることになる。
これが二次加害なのです。
妹からモラハラを受けること自体もそうですが、親が二次加害をすること、家族内に味方がいないことが、なによりも辛いです。
本来、子どもがいじめをしていたならば、事態の発生から間髪入れずに被害者に謝罪に向かわなければならないのに。
むしろ加害者はいい大人なのだから、自分から謝罪し反省するように諫めなければならないのに。
私は『娘がいじめをしていました』という本が発売されたとき、真っ先にこれを購入しました。そして親に読んでもらいました。自分の子どもがいじめの加害者になってしまったらどうしなければいけないか、それを読んでほしかったからです。
それでも親は、自分たちが当てはまっているとは思っていないのか、またか、というような、困ったような反応しか見せませんでした。
私はただ、加害者を真摯に諫め、反省させるよう行動してほしかっただけなのに、たったそれだけのことを、親はしてくれませんでした。
しかも両親とも教育者。元教職員がいじめを黙認したという事実は、私の心に濃い影を落としています。
その目と耳は節穴か?その脳みそは何のためについている?その教員免許は飾りか?…などと、正直考えてしまいます。
私にとって家族は私の家族、私の親であると同時に、いじめ加害者の家族、いじめ加害者の親でもあるのです。
加害者のモラハラの一因は〝毒親〟にも
モラハラ加害者となった妹の行動については、そのパターンに覚えがありました。親です。
私が毒親育ちであることはこちらの記事で触れていますが、親の言動には子どもをコントロールしようとする性質がありました。
私が親から受けた毒で神経をすり減らしてきた一方、親は加害者を長年かわいがり優先し、加害者はその「人をコントロールする」ことを、していいこと、として学習したのでしょう。要するに、加害者と私は愛玩子と搾取子の関係だったということです。
原因が親にあるということであれば、一応は加害者の行動について理解することはできます。ですが納得はできません。分別のあいまいな子どもならともかく、加害者はいい年をした大人です。いい年をした大人のすることとは思えない、幼稚な、人を傷つけることを進んでする人のことを、擁護する余地はありません。
加害者は、いまも謝罪も反省もせず幸せそうに生きている
いじめ加害者である妹は、いまも何事もなかったように、幸せそうに生活しています。
日々仕事に行き、休みの日はティータイムを楽しみ、趣味のぬい撮りをし、お出かけをし、映画を観に行き、友達と今度遊びに行くんだと、無邪気な笑顔で親と話す。七夕の短冊には、「悠々閑適(ゆったりとして、心静かに楽しく過ごすこと)」「光風霽月(心がさっぱりと澄み切ってわだかまりがなく、さわやかなこと)」などとお願い事を書く。
自分がいじめた被害者の目の前で。いじめの加害者が、です。
いじめられた被害者は、心の傷がそのままだというのに。
被害者の幸せを、辛い記憶で塗りつぶし続けているのは、ほかならぬ加害者だというのに。
私自身も、加害者のことを気にせず、自分の幸せを見つけようと、日々気をつけようと、しています。
ですが、その横で、加害者が平気な顔で生きているのを見せつけられて、平常心でいられるでしょうか。
私が受けた行為と、心の傷は消えないのに。
わたしはいじめを受けたトラウマから、今でも加害者と家で二人きりの空間にいることができません。ですが加害者はそれをいいことに家の中で自由に振る舞っています。いじめられた側である私のほうが、逆に行動を制限されてしまっているのです。
人を傷つけておいて、どうして平気な顔をして生活ができるのか。
それとも、自分こそが被害者だと思って、『あの人のことなど気にしないで、自分の幸せを大切にしよう!』などと一丁前に考えているのか。
そもそも、何も感じても、考えてもいないのか。
一つだけ、確かなことがあります。
私だけではなく、すべてのいじめ被害者にとって、謝罪も反省もしないまま日常を送る加害者は、永遠にいじめ加害者だということです。
どんなに幸せな生活を送ろうと、功績を上げようと、過去にいじめをしたという事実は、変わりません。
私は、加害者が心の底から謝罪し反省しない限り、一生、
加害者を許しません。
未だに残る〝いじめ後遺症〟
今現在も、いじめた本人からも、見逃した加害者親である私の親からも謝罪はなく、加害者本人は何事もなかったように楽しそうに日々を暮らしています。親も和やかに加害者と談笑し、妹の趣味を応援し、私よりも妹と楽しく過ごすことを優先しているように見えます。未だに虐められた傷を抱え、たびたびそのことを蒸し返す私のことを、扱いづらそうにしています。
ですがいじめ被害は、月日が経てば薄れるものではありません。したほうは一瞬で忘れても、されたほうは一生傷を抱え続けます。20年近く前の小学生の頃受けたいじめを今も忘れられないように、1年やそこらで妹から受けたいじめの傷は消えないのです。まして長年モラハラされていたことに気づいてしまったのでなおのこと、です。
私にとって、妹から受けたモラハラは、感覚として、いつまでも昨日の出来事のように感じています。恐らくトラウマになってしまっているのだと思います。親がいつまでも被害を無かったものとして扱うことも、私のトラウマを刺激してしまっているようです。
私をいじめて、謝らないその人のことを、親が褒めたりするのを見せつけられるのも、たまらなく苦しくなります。
夢にも繰り返し見ます。ストレスの原因が家庭内のことでなくても、ストレスがあるときに見る悪夢は「いじめに反撃したら被害者扱いされた」場面を繰り返しています。朝起きたら決まって泣いています。
学校時代だけではなく、成人してから被害を受けたこと、それまでの被害に気づいたことは、家庭外の社会における人間関係にも、人間不信や対人恐怖といったかたちで影を落としています。
これが幼少期や学生時代のいじめ由来ならば「今、目の前にいる人と、昔傷つけてきた人は違う」と思えたかもしれません。でも、成人してから、ごく最近に、身近な人によって傷つけられたという経験は、「今も再現性があるかもしれない」と色濃く感じられてしまうのです。
つらさを軽減するカギは〝体験談〟と〝共有〟にあった
いじめを受け、さらに謝罪もされず、周囲も加害者の味方をする日々。傷つき続け、自分だけが取り残されているような、しんどい思いが続いています。
ですが、そのしんどさを軽減するカギになったのが、ネット上にたくさんいらっしゃる、実際にモラルハラスメントの被害に遭った方々の体験を読むことです。
その記事や呟きなどを見聞きしたり、それがきっかけで専門書に触れたりすることによって、こんな思いをしているのは私だけではない、わかってくれる人がいる、私がおかしかったわけではない、と気づけました。加害者の言動に「わかる!」「あるある!」と思うことで、心がすっと軽くなりました。
共感できる、ということに、精神的に救われたのです。
家族内に味方がおらず相談もできない私にとって、同じ経験をしている人がいる、ということは、自身の存在を肯定してもらっているようで、とても心強いのだなと感じました。
そして、今度は私が、悩み苦しんでいる誰かの悩みを少しでも軽くできる存在のひとつになれたら、と思ったのです。
この記事に記したできごとは、私の経験した一例にすぎません。ですが、似たような経験をした人がこの記事を読んで「あるある!」と思い、「私だけじゃなかった、私が悪いわけじゃなかった」と思ってくれたのなら、こんなに喜ばしいことはありません。
いじめ・モラハラについて理解できる作品
このページを読んでいる方の中は、いじめ被害を経験した方や、その方から訴えを受け、このページを見せられたり、検索してこのページに辿り着いたという方もいるかもしれません。
ネット上には経験談がたくさんあります。が、今まで述べてきたように、いじめやモラハラは加害者の外面がよいことが多く、被害も表に見えづらく、経験者以外の人とは「リアルな感覚」をとても共有しにくいものです。
そこで今回は、経験者なら「わかる!」となり、経験のない方もいじめやモラハラ被害の特徴をリアルに感じることができそうな、フィクション作品をピックアップしてみました。
下に挙げた2作品はいずれも、私の実体験と同じく、「妹が姉を虐めている」というストーリーが特徴です。
『わたしの幸せな結婚』
こちらは、ご存じの方も多いかもしれません。
家族に虐げられて育った少女が、結婚をきっかけに少しずつ心を通わせ、愛や幸せを知っていく……今流行りの『和風シンデレラストーリー』の先駆けとも呼べる作品です。
アニメ化や実写映画化もされ、2024年1月にはアニメ第2期の放送も決定しています。
わたしがこの作品に感じるリアルさは、「虐められたことによる、自己肯定感の低さや罪悪感」の描写です。
この作品はストーリー展開が複雑なため、あらすじを書きつつその中の描写について記述していきます。
主人公の美世(みよ)は、名家の生まれですが、義母や異母妹に虐げられて育ちます。その内容は、令嬢であるはずなのに高等教育も受けさせてもらえず、使用人として扱われる、食事や着るものもろくに与えられない、母の形見を取り上げられたり捨てられる、返してもらおうとすると報復として蔵に閉じ込められる、お茶の入った湯吞みを投げつけられる、といった苛烈なものばかりです。言葉や態度でも「みっともない」「器量がよくない」「要領が悪い」「何もできない」「家の恥」といった悪いレッテルをたくさん貼り付けられてしまっています。
そのため美世は、自信がなく伏目がちで、謝罪の言葉が口癖になってしまっています。自分のことも「私なんかが作った料理を食べてもらえるのだろうか」「私は旦那様の妻にふさわしくない」「私の泣き顔など醜くて見られたものではない」と、ひどく自信なく考えています。
幼少期の描写では、母親に愛されて育ち、自分の意見を言う強さも垣間見えることから、これらの美世の特徴は、虐待によって後天的にもたらされたものと分かります。
一方、美世の異母妹である香耶(かや)は、両親の愛を一身に受けて育ち、自信家でプライドが高く、美世自身から「器量よしで要領がいい」と評されるほどの美貌と、万事への器用さを持っています。家の中では美世に対し苛烈な虐待を行い、美世が苦しむ姿を見て笑みを浮かべる一方で、外部の人間に対しては優しげな笑顔を見せる一面も持ち合わせています。女学校に通っていますが、そこでのトラブルの描写はないことから、学校では気立てのよいご令嬢として振る舞っていることが伺えます。
美世の婚約者である久堂清霞(くどう・きよか)は、すぐに謝ってしまう美世に対し、「謝るな」と諭したり、手料理を褒めたり、「デヱト」に誘い、美世を気遣ったりします。「冷酷無慈悲」という噂とは違う清霞に、美世は次第に心惹かれていきます。人のやさしさを知り、美世は少しずつ、自分自身を取り戻していきます。
ところがある日、街中で香耶と遭遇してしまい、酷い言葉を浴びせられてしまいます。言い返すこともできなかった美世は、「こんな私なんて、大嫌い」と、強く自分を卑下するのです。
これらの「自己肯定感の低下」による「自責・自罰的」な描写が、当事者から見るとかなりリアルに感じられます。
いじめを受けてしまうと、多くの場合、被害者は「自分が悪い」と思ってしまいます。その原因の多くは、いじめそのものによって被害者の存在や尊厳が傷つけられ否定されること、加害者が被害者ぶったり、いじめる理由を付けたりすること、または周囲や世間の被害者に落ち度を探す態度であったりします。
私自身もそうで、「いじめられるのは、自分が悪かったからではない」と気づくまでに、長い年月を要してしまいました。
そして多くの人が、いじめによってもたらされた自信のなさや暗さ、内気さなどを「いじめられる理由」にしてしまったりします。
この描写も作品内にあり、美世に会った香耶は、恐怖から何も言えなくなっている美世に対し「やっぱりいつものだんまり?」「どこへ行っても変わらないおねえさま」と貶します。美世をそのようにさせているのはこれまでの香耶の行いであることなど、露ほども考えていないことが分かります。
その後、閉じこもってしまった美世のために、清霞はかつて美世の味方をしてくれた使用人を屋敷に呼びます。彼女と話したことをきっかけに、美世は自分自身の過去を清霞に打ち明け、その美世を清霞は受け入れて、正式に婚約するつもりだと告げました。
いっぽう香耶は、美世が清霞と幸せに暮らしていることを知り、美世を手に入れたい思惑のある辰石家の入れ知恵もあって、婚約を取り換えて自分が清霞と結婚しようと画策し、ついに、美世を誘拐します。
美世自身の口から「婚約を破棄する」と言わせるため、香耶と継母は執拗に美世を暴行します。アニメ版とコミカライズでは若干描写に差があるものの、殴る蹴る、髪を掴む、(アニメ版では)高価な着物の襟を切る、天井に吊り下げられた縄を切って地面に叩きつけるなど、拷問に近い暴行が行われました。最後には手で首を絞められ、それでも美世は「自分が旦那様の、久堂清霞の婚約者です」「ぜったいに譲れません」と、決して折れることはありませんでした。
美世は清霞に愛されて自信を付けたことで、「必ず清霞が助けにくる」と信じることができたのです。
そんな美世でも、まだ自責的な思考から抜け出せていない描写もあります。
美世は助け出された後、自分がお守り(自分自身の姿を敵の式神から見えなくする効果があった)を外出の際に忘れたせいで誘拐されてしまった、そしてこれほどの大ごとになってしまったのだと、再び自分を責めています。
清霞はそんな美世に対し、「お前のせいではない。決して、なにひとつ、お前は悪くないのだ」と言い聞かせるのでした。
このように、いじめの被害者が自責的な思考をなくすことは、なかなか簡単ではありません。
けれど「自分は悪くない」と自覚することが、いじめ被害者が自分の心を癒すための第一歩になるのです。
こちらはアニメがABEMAでも見られます。時折無料配信も行われていますので、ぜひ一度ご覧頂ければ嬉しいです。
こちらのイラストは、私が描いた「わたしの幸せな結婚」のファンアートです。
ヒロインである美世とヴィランである香耶を、それぞれ白と黒の背景で対比させて描いています。アニメのキャラクターデザインを参考にしていますが、香耶の容姿はコミカライズ版のデザインが好きなので、そちらに寄せました。
香耶の表情は、「いじめっ子は外面がよい」ということを表現するため、あえて性格が表に出ないように描いています。もしこの作品を知らない人が、この絵を見て「右の子もかわいくて、いい子そうじゃないか」と思ったのなら、私がこの絵を描いた狙いは当たっているといえます。
『鬼の花嫁』
『鬼の花嫁』も、家族に虐げられた少女があやかしに見初められ救い上げられる、あやかしの存在する現代を舞台にした和風シンデレラストーリーです。ストーリーとしては前述の「わたしの幸せな結婚」と比較するとそこまで複雑ではなく、柚子はコミカライズ第1巻のうちに家から助け出され、柚子を見出したあやかしである〝鬼〟鬼龍院玲夜(きりゅういん・れいや)との生活を始めます。その後の展開も完全に勧善懲悪なため、読みやすいです。そのため、ぜひ第1巻だけでも読んでみていただきたい作品でもあります。
こちらには、典型的なモラルハラスメントの描写があります。
姉妹間の格差を題材にしたいわゆる『現代や和風のシンデレラストーリー』作品やそのメディアミックスは、先述した「わたしの幸せな結婚」をはじめ現在多々ありますが、私が今まで触れた作品の中で、この作品、特にコミカライズ版(第1巻)の描写が一番リアルのモラハラに近いです。
主人公である柚子(ゆず)は、ごく普通のまじめな女子高生です。一見普通の生活を送りながらも、妹を常に優先され、妹からは虐められて、「自分は愛されていない」と感じながら暮らしています。
虐げる描写も前述の「わたしの幸せな結婚」と比べると、それほど凄惨には見えません。それでも、一人の人間の尊厳を傷つけるには十分な程度の、じわじわとした虐めが描かれています。
柚子には、一歳年下の妹・花梨(かりん)がおり、彼女は妖狐の花嫁として大事にされ、いつも柚子より優先されてきました。
参観日が重なると花梨のほうにのみ出席する両親、風邪をひいていても放置される、柚子だけが家事を手伝わされる、など、姉妹で扱いに差をつけ、柚子だけが愛されない家庭が描写されています。
花梨は「わたしの幸せな結婚」の香耶に似ていて、自尊心やプライドの高さ、甘え上手で社交的なため外面がよい、姉が自分より良いものを持っていたり、幸せになったりすることが許せない性格を持っています。
そして、この作品のリアルさは、花梨や両親の言動の随所にモラハラの特徴が見られることです。
特にコミカライズの描写は秀逸で、原作にないさらなる機微を加えていて、少ないページ数の中にぎゅっと要素が散りばめられていて、読んでいて心がざらっとするようなリアルさです。
実際に読んでいてモラハラの特徴を感じた部分を抜粋しました。
・両親が「花嫁」である花梨の機嫌を取っている。
・バイトが終わり帰宅した柚子に、母親が「帰っているんでしょう」「晩御飯を作るのを手伝ってちょうだい」と呼び、「呼ばれる前に手伝いに来なさい」と言う。花梨は呼ばれることなく、婚約者と共にリビングで談笑している。
・柚子が祖父母からもらった誕生日プレゼントの服を「ちょうだい」「お姉ちゃんだけずるい」と言う。
・花梨はその服を無理やり取り上げようとし、破けてしまうと、今度は「お姉ちゃんがさっさと渡さないから悪いんだからね」と叫び、ゴミ箱に投げ捨てる。(逆らう者への仕置き)
・服を破かれて思わず叩いてしまった柚子に対し、花梨は「ちょっと貸してほしかっただけなのに、いきなりお姉ちゃんがぶったの!!」と言う。(加害者と被害者の逆転)
・両親・花梨の婚約者である妖狐ともに花梨の味方をし、妖狐は「花梨を傷つける奴は許さない」と言って妖狐の力で柚子に火傷を負わせる。両親は柚子にではなく、「柚子にはきつく言っておくので」と妖狐に対して謝罪する。(周囲の二次加害)
・家を飛び出してしまった柚子に頼まれ、荷物を持ってきた花梨は、開口一番「一生許さないわよ 私に手を上げたこと」と言い、柚子は罪悪感で胸が痛む。(加害者と被害者の逆転)
・荷物を川に投げ捨て、「手が滑った」と言って笑う。(逆らう者への仕置き)
文字にしてしまうと単調になってしまうのですが、被害を受けたことのある人なら思い当ってしまうようなリアルさが、きっとあると思います。
特に、「機嫌を損ねたら何をされるか分からない」と思わせたり、実際にしたりすること、加害者が被害者としてふるまうことはモラハラの特徴であり、ごく自然な会話の中でこれらのハラスメントが何度も行われていることを読み取ることができます。
被害を受ける主人公の心理描写や、加害する妹の言動、加害者と被害者の逆転、家族の二次加害などが当事者から見てもかなりリアルに描かれており、これまでモラハラに触れたことのない方でも、その感覚を追体験できると思います。
ぜひ、実際に読んでみてほしいと思います。
今、いじめられているあなたへ
声を上げよう
私は、いじめを受け、さらに、被害に対して声を上げることを、周囲に止められました。
ですが、私は、声を上げることをやめるつもりはありません。
私と同じような目に遭い、私のように他の当事者の体験談に救われるひとのために、私が受けた被害のすべてを、書き残しておかなければならないと思ったからです。
いじめられ、辛い思いをしたあなたには、声を上げる権利があります。
いじめは、いじめをする加害者が悪いからです。
いじめられたあなたは、悪くありません。これは、絶対です。
声を上げましょう。
自分の体験を、話したり、ブログやSNSに書いたりして、誰かに聞いてもらうこと。そして、それを繰り返し行うこと。
これはPTSDの治療などに使われる「持続暴露療法」と同じ効果があります。
最後のまとめとして、私自身の経験と、本などで見聞きした知識等から、今、いじめやハラスメントに遭っている人に向けて、ささやかなお守りになるような、メッセージを残しておきたいと思います。
いじめ・ハラスメントは『絶対に』してはいけないこと
いじめ・ハラスメントは、絶対にしてはいけない。
この「絶対」は、「例外なく、本当に絶対に」という、極めて重い意味です。
どんな理由があろうと、何があろうと、してはならない、許されないことなのです。
そしていじめ・ハラスメントは不法行為であり、犯罪です。人権侵害です。
ですがモラルハラスメントをする人は、これをいじめだと思っていません。
思い通りに動いてくれない相手に対し、自分を傷つけた奴へ正義の鉄槌を下している、と思っているからです。そういうことをさせられた自分が被害者だ、させるアイツが悪い、と本気で思っているからです。
あいつがさせるようなことをしたから。
される側にも悪かったところがある。
俺に逆らったらどうなるかわからせてやる。
しかしこれらはすべて、いじめ・ハラスメントをする理由にはなりません。なり得ません。
なぜなら、加害したくて理由を作っているのは、加害者だからです。
加害者が理由をつけて加害しなければ、加害は起こらないからです。
加害をするのは、加害者の問題だからです。加害者が加害をしたくてしているからです。
ですが、間違った対処をする人が後を絶ちません。加害者の言葉を鵜吞みにし「お互い様だから」と場を収めようとして、被害者に二次加害する人もいます。
そして被害者は、「私にも悪いところがあったのかもしれない…」と罪悪感に苦しみ、被害を訴えられなかったり、嫌だと言えなかったり、被害を過小評価されて傷ついたりします。
ですが、いじめ・ハラスメントはするほうが100%悪いのです。たとえ理由があろうと、いじめていい理由にはならないからです。
あなたは、絶対に悪くない
もし、いじめられている、ハラスメントを受けているあなたが、検索してこの記事に辿り着いたのだとしたら、ここに書かれていることを、ぜひ、心のお守りにしてほしいのです。
いじめられているあなたは、絶対に悪くない。
あなたは悪くありません。
すぐにはそう思えないかもしれませんが、そうなのです。
あなたは加害者から、不要な罪悪感を押し付けられているだけなのです。
だから、繰り返しこのページを読んで、心を軽くしてください。
不要な罪悪感を手放してください。
相手の加害は、どんな理由があろうと、相手の問題です。
「自分が悪いわけではない」という考え方は、被害に遭ったあなたが、自分の心を癒すためにも必要な工程です。本来は「人のせい」で起きてしまっていることを、「自分のせい」だと思ってしまうことは、さらにあなたを傷つけ、トラウマを深くしてしまいます。いじめられた体験は、きちんと人のせいにしないといけないのです。
(参考↓)
そして、このページを見せて、相手や周りの人に訴えてもいい。
周りの人が、理解するきっかけにもなります。
あなたがどんなに辛いか、そして加害者がどんなにあなたを追い詰めたり、周囲を巻き込んであなたを孤立させたりしているか。
そして、自分の心、本心と向き合い、自分のしたいことに目を向けてください。
あなたの人生に加害者は必要ありません。
一時的に逃げてもいい。あなたの心身を守り、被害を最小にすることを考えてください。
そのあと、やりたいことをしてください。
周囲は、やりたいことをさせてあげてください。被害者が自分の人生を取り戻そうとしているところだからです。
あなたの人生を生きること、人生を楽しむことが、一番加害者の癪に障る、最大の復讐です。
自分を大切にしてくれない人を大切にしなくていい
「それでも、あの人とは楽しい思い出もある」「優しくしてくれたこともある」「よくしてもらったし…」と思ってしまうこともあるかもしれません。
でも、故意に人を傷つけてくるような人は、決していい人ではありません。
普通の人は、あなたを〝傷つけるため〟の言動を取ったりしないのです。
人の気持ちも考えず、または傷つけるために考えて行動するような人は、そもそもそうすることに抵抗がない、〝そういう人〟、なのです。
良心があればやらないことをやれてしまう人です。そういう人はこの先も同じことをします。
あなたが被害を訴えることで、相手はそういうつもりじゃなかった、とか、こんなによくしてやったのに、と言うかもしれません。もう過去のことなのに、とか、こんなことを表沙汰にされては困る、と言われたり、そういう態度を取られたりするかもしれません。
ですが、よく考えてみてください。明るみにされては困るようなことを、実行することを選択したのは加害者自身なのです。そして何度も言うように、加害は加害者の問題で、加害者が原因です。あなたが負い目を感じる必要はありません。
恩も義理も感じる必要はありません。遠慮なく被害を告発してください。遠慮なく縁を切ってください。
加害者へ~あなたは絶対に許されないことをしました~
次に、このページを読んだ、加害者となった人へ。
いじめやハラスメントは、するほうが100%悪いです。
あなたが考えるその『いじめる理由』は、理由にはなりません。
そして、許されません。
謝っても必ず許されることではありません。
あなたのいっときの精神的快楽が、他者に一生の心の傷を残します。
さらに、嫌がるとわかっていてわざと嫌がらせをしたり、被害者を装って本当の被害者を攻撃したりすることは、最も姑息で卑怯な手段です。
たとえ無意識に相手に自分の問題を擦りつけていたのならなおさら悪いです。
自分がいじめをしている自覚はありますか?
無意識に自分の問題を相手に擦り付けていることを自覚していますか?
いいですか、あなたの加害は、あなたの問題です。相手のせいではありません。
そして、いじめはれっきとした犯罪行為です。
いじめとは、行為の総称にすぎません。
暴行、窃盗、横領、器物損壊、脅迫、恐喝、身体的虐待、性的虐待、精神的虐待、名誉棄損…
個別に行為を分けてみれば、すべて刑事的に裁かれる犯罪です。
今はこうした行為を受けたら、学校内からでも警察に通報してよいことになっています。
自分自身は何のストレスもないし、社会的制裁も受けていないからいい、ですか?
でも、お天道様は見ています。貴方の罪に応じて地獄へ堕ちます。
悪い行いをした人はその行いを倶生神(くしょうじん)という神様によって記録され、閻魔大王に包み隠さず報告されます。
つまり加害者である私のきょうだいを含め、いじめをして反省もしない人は、死後地獄行きであることがすでに確定しているのです。
すこし神道的、仏教的な話をしました。
私はそういうものごとを信じるほうです。
私の部屋にはお地蔵様がいらっしゃって、見守ってくださっています。
お地蔵様は閻魔大王様と対の存在であり、閻魔大王様のこの世の〝目〟でもあります。
お墓参りの際には先祖に欠かさず、わたしが受けたいじめについて報告をしています。菩提寺には閻魔大王様の像もいらっしゃるので、毎度ご挨拶と報告をしています。
そんなことあるわけない、と笑いますか?
ですが、気づいていないだけで、周りの人はあなたのそんな人となりを見抜いています。気づいた人は、指摘することなくあなたから離れていきます。
平気で人を傷つける人間は、それを悪いことと自覚できないため、人前で無意識にしてしまうからです。
もし自覚できたなら、今すぐやめてください。
そして、一刻も早く、心の底から被害者に謝ってください。
謝ったからと言って、許してもらえるとは思わないでください。
それだけのことをあなたはしたのです。
許されなくても、拒絶されても、それを逆恨みする資格は貴方にはありません。
そして口だけではなく、考え方や態度、行動を全て改めてください。
人間の本質は、何を言ったかではなく、何をしたかです。
今のあなたの評価は、「いじめ加害者、いじめをした人」です。
「実際にいじめをしていたのだから、今後もいじめをするかもしれない人」です。
真摯な反省の姿勢を絶えず見せ続けない限り、その評価は更新されません。
時間が経てば許してもらえる、そんな甘い考え方も今すぐ捨ててください。
した方は一瞬で忘れても、された側はいつまでも、何年経っても被害を昨日のことのように、生々しく覚えています。また、普段は記憶にふたをして忘れていても、ふとしたきっかけで、冷凍保存していたものが解凍されるように、まざまざと思いだしてしまうのです。
自分が悪いことをしたと自覚できないのなら、いずれあなたの人生の評価が、周囲の人の反応や、因果応報な結果によって表れるでしょう。
あるいは、あの世で閻魔大王様の前に立って、ようやく目が覚めるのかもしれません。
その時に後悔しても、もう遅いと思ってください。
周囲の方へ~二次加害をしていませんか?~
いじめが起こった周囲の人へ。
いじめられた側の口を噤ませないでください。それは〝二次加害〟です。
被害者が被害を訴えることは悪いことではありません。
むしろ、よく言ってくれた、よく勇気を出してがんばったね、とねぎらわなければならない場面です。
何度も何度も言うように、悪いのは加害者です。
ですが、喧嘩両成敗な対処をする人や、いじめた側の言葉を信じる人が、あまりにも多いです。
先に被害者を装うことで本当の被害者を陥れる人もいます。
このページを見せられたということは、今、目の前で被害を訴えているその人は、加害者に仕立て上げられているのかもしれません。
モラハラをする側の言動は、都合のいいことだけを伝えようとするため、簡潔かつ大仰になります。少ない言動で、余計な行間を察するように仕向け、被害者を加害者に仕立てます。
しかし被害者は、事実を伝えようとするため、内容や時系列が複雑になります。すべて伝えようとすると時間が掛かります。これまでの被害がフラッシュバックし、途中で言葉に詰まることも、泣いてしまって言葉にならないこともあります。
そのため、モラハラをする側の主張のほうが、耳障りがいいことがあります。
さらに、NPDによる加害の場合、本人以外には被害が非常に分かりづらいことがあります。「具体的に何をされたの?」と聞いても説明がとても難しく、聞いても「そんなことで…?」と思ってしまう、他の人が見ても一見攻撃とは分からない、しかし被害者本人にだけは絶対にわかる被害というものも存在します。
加害者は外面がよいことが多いです。「まさかあの人が」「ありえない」と思うこともあるでしょう。被害者から見た加害者像と、周囲から見た加害者像は別人のように違うこともあります。
それを踏まえて、慎重に訴えを精査してください。モラハラをする側の主張は、よく聴けば必ずおかしいところがあります。
事実関係を検証する努力を怠ってはいけません。
そして、いじめの存在がわかったら。
いじめられた側に注意やアドバイスするのではなく、必ずいじめた側に責任を取らせてください。
そして、本当の被害者が誰か、慎重に見極める必要があります。
いいですか。被害者は悪くありません。悪いのは、加害者です。加害者が責任を取る必要があります。
学生であれば出席停止、親子であれば一定期間の権利のはく奪、社会組織であれば懲戒処分など、適切な対応をとってください。
おわりに
いじめ・ハラスメントについて様々なことを書かせていただきましたが、一番言いたいことは、
加害は、加害者の問題である。
ということです。
これは、いじめられている人が罪悪感をなくし、いじめている人が加害を自覚し、周囲の人が問題を認識するための、最も重要な視点だと思っています。
加害者が理由をつけ、実際に行為に及ばなければ、加害は発生しないからです。
被害者は、加害者からの間違ったメッセージを受け取らない。
加害者は、自身の問題を他者に押し付けない。
周囲は、加害は加害者の問題だときちんと認識する。加害者には相応の罰則をきちんと与える。
これを誰もが意識し、少しでもいじめ・ハラスメントがなくなれば、過去のいち被害者としてこんなに喜ばしいことはありません。
【さいごに、参考にした本や愛読書、私自身のお仕事などをを紹介します】
モラルハラスメントについて理解を深める一冊
心がしんどい時にいつも読んでいる本
私の座右の銘の一冊
イラストレーター・松峰(まつみね)の活動
私の絵のメイキングを掲載して頂いた技法書
トークに和みと癒やしを、LINEスタンプ『もふもふ秋田犬スタンプ』
追記(グッズ販売のお知らせ)
【この記事のバナーを使用したグッズがあります】
身に着けたり、飾ったりすることで、「いじめをしない・させない・見逃さない」という意思表示をすることができます。ぜひお役立てください。