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クライ・マッチョ/ネタバレ感想

なぜ人はマッチョに憧れるのか?

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マイクは「マッチョは過大評価されている」と言った。
でも人は、マッチョになりたがる。
「マッチョでなければならない。マッチョでなければ生きられない」そんな風にマッチョに縛られた人々が出てくるこの映画。
「強さ」について語る直球勝負の映画だった。

強さに束縛された人たち

この映画には強さに縛られた人たちが多く登場する。
まず印象的なのはラファの母親のリタだ。
タフそうな男を雇い、華やかな生活を送っている。さらに年老いた「元カウボーイ」のマイクに肉体関係を強要する。すごく奇妙だ。
彼女は肉体と金を使い、自分の「マッチョさ」を見せつける。そうでもしなければ、メキシコで、女性が一人で生きてはいけないとでも言うかのように。
最初にリタがマッチョさをアピールすることでこの映画は「マッチョ」とは男性限定のものではないことを示唆する。

リタを一人にしたラファの父親ハワードも善人ってわけではなさそうだ。
ラファを引き取るのは、金銭目的でもある。彼は牧場主で、既に羽振りは良さそうなのに。
ラファをカウボーイにしてやるから連れ戻してほしいとマイクに頼む。「カウボーイは全ての子供憧れだ」とも言う。ハワードは、金の力で「元カウボーイ」のマイクを雇い、ラファに「ここに来れば(金の力で)カウボーイになれる」と誘う。
彼もリタと同じようにマッチョイズムの人だ、つまり逞しさと金を重要視している。

チキンが先かマッチョが先か

そして最後は、マッチョと言う名のチキンだ。これほどまでに分かりやすい表現もないと思う。何故チキンがマッチョと言う名前なのか?
それはマッチョとは弱さと表裏一体だから。
「マッチョイズムは弱さからくるものだ」と言われてる。

僕にも思い当たる節がある。
部活で、強くなりたいから練習してる時と、弱いと思われたくないから練習してる時があった。舐められたくない。これは精神的な弱さだったと思う。弱いから強いふりをする。力を見せつけようとする。

チキンのマッチョは最初まさに腰抜けだったけど、強いオスを殺す事によって、マッチョになった。少なくとも「マッチョ」と認識された。
そうしなければ生き残れないと思った。マッチョが生きる術だったとラファは語った。

これは現代人の考え方でもある。マッチョでなければならない。
僕は、007の『No time to die』の感想文で「殺しのライセンスは、特権ではなく呪いだ」と言った。マッチョと言うのも栄誉ではなくて、呪いだ。カウボーイの呪いって言った方がいいかな?
タフでなければ生き残れないと言う思い込み。それが人と世界を歪にするんじゃないだろうか?

マッチョの使い道


この映画は特に何も起こらない。アクションシーンはほぼない。逃避行のはずなのに。
マイクを「運び屋」だと思ってるアホたれの警官は、ラファの賄賂で退散し、ついに現れた追っ手はチキンのマッチョにビビり、銃を手放す。なぜこれほど何も起こらないのか?
それは、この映画を普通に撮れば、マッチョの出番が多くなるからだと思う。
美しい悪女を手玉に取るジゴロなカウボーイや、警察を振り切る迫力満点のカーチェイス。追っ手との激しい銃撃戦。
そんなもののオンパレードになってしまう。マッチョ同士の争い。それが普通の映画だ。
それではクリントイーストウッドの言いたかった「本当の強さ」を伝えられない。だからこの映画は何も起こらない。
マイクがラファに乗馬を教えるシーンですら、ラファはあっさりと馬を乗りこなしてしまう。観てる側も「別にマイクが教えなくても、独学でマスターできたんちゃうの?」と思ってしまう。

そう、マッチョが役に立つところなんて、実はあんまり無いんだね。
最初に引用したマイクのセリフ「マッチョは過大評価されている。歳をとれば、無知だったことが分かるようになる」これがマッチョのすべてを語っているよね。
クリントイーストウッドは若いころはカウボーイや、ダーティハリーなどのマッチョな役をこなしてきた俳優だ。だからのこのセリフも効いてくる。
マッチョは人の弱さが生み出したガラクタなのかもしれない。

本当の強さ

強さに縛られない事。どうすれば縛られずに入れるのか?
ラファと二人で焚火を囲むシーンでラファが自分の話をしたり、チキンの名前を言ったりした時、マイクは関心を示さなかった。
マイクたちをかくまうマルタは「なぜ優しくするのか?」と聞かれ、「したいからしてる」と答えた。
僕はこのシーンから自分をアピールすることが強さの誇示に繋がるんじゃないかと思った。
聖母マリアの礼拝堂から出てきたマイクたちに優しくするマルタは神の愛「汝の隣人を愛せよ」の体現者のように映る。
厩舎で働き始めたマイクは獣医の真似ごとをする。これもお金をとってるようには見えない。本人は焚火のシーンで「動物が好きだ」と言っていたから、これも「好きでやってる」のうちに入るんじゃないだろうか。
つまり、「無償の愛」マルタはマイクと同じで一度すべてを失った人だ。
にもかかわらず、これほど人に優しくできるマルタこそが本当の強さを持った人なんじゃないだろうか?

さよならマッチ

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何事もなく終わった逃避行。ラファは結局父親のところに行く決心をする。
マイクはマルタの元に帰る。アメリカでマッチョとして生きた男はマッチョを捨て、メキシコで優しさに抱かれることにした。
すでにアメリカにマッチョでなくなったマイクの居場所はないから。

ラファはこの先、マッチョが重要視される世界で生きていくことになる。
でもラファはチキンのマッチョをマイクに差し出す。どうやら、ラファはマッチョになるためにアメリカに行くわけではないみたいだ。

舞台になった1980年代は、アメリカでラテン系米国人の政治参加が積極的になった。ラファと言う存在は、アメリカとメキシコの橋渡し役と言ってもいい。
すぐには「強さ」の認識は変わらないだろう。
「強さ」の誇示の為に差別や搾取は起こり続けるだろう。
でもそれも時が過ぎて世界が歳をとれば、「強さ」の認識も変わるんじゃないだろうか。
「急いては事をし損ずる」ともいう。この映画のゆったりとした時間の流れは、急速に変わろうする世界へのアドバイスに思えた。

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