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妄想映画「JOKER フォリ・ア・ドゥ」考察 ネタバレとサブタイの解説

理想の人なんていない。

前作のジョーカーの存在を嫌う人が結構いた。
今作でも「これじゃない感」ってレビューを見かけた。
ジョーカーに限らず、芸能人や恋人に理想を押し付け失望し嫌う。
そう言うの虚像って言うらしい。
その虚像が本人に影のように付きまとい支配する。
冒頭のアニメはそれのブラックジョークって言える。

論破王なんていない。

ひろゆきはそう名乗った事ないんだって。
ビートたけしの「ダンカンバカ野郎」も
えなりかずきのアレもない。
こういうイメージが本人の一面だけ捉えて誇張される。
アーサーはそのイメージに殺される。
何でそんな事になるのか?
映画内の人々は、おそらく僕らも、アーサーをただの娯楽としてしか見てないからだ。

ジョーカーなんていない。

冒頭、アーサーは「今日のジョークは?」とやたら聞かれる。
彼が序盤でジョークを言う事はなく、看守のジョークで笑った髭剃りに唇切られて笑う。笑えないジョークを言うアーサーを笑う気でいる看守たち。
要はアーサーをピエロにしてる。※1

弁護士の女性はジョーカーと言う別人格があると決めつけ「ジョーカーと話がしたい」と言う。
彼女はアーサーを理解する気がない。

リーはアーサーに化粧しコスプレセックスする。
童貞で戸惑うアーサーに違和感を感じるリー。
彼女はジョーカーしか見てない。

皆、アーサーの事なんてどうでもいい。自分の頭の中にあるジョーカーをアーサーに当てはめ遊んでる。
そもそも、アーサーはジョーカーを名乗ったのは前作でTVショーのマレーがそう呼んだからだ。それすらもマレーは忘れるんだけど。
彼の社会への怒りから発生した一つの側面だけを誇張してジョーカーを作り出す。
リー「本当のあなた」と言ってガラス面に口紅で笑顔を描く。
アーサーは自分の体をずらして唇を合わせに行く。
自分の存在を認めてもらう為に。
ラッセルクロウ主演の「ビューティフル マインド」でも承認欲求が病ませる。※2
そのせいでアーサーはジョーカーをまた演じ始める。

人生は近くでみると悲劇だが…

チャップリンの言葉。「全体でみれば喜劇だ」と続く。
前作でチャップリンの映画が流れるシーンがあり、数少ないアーサーの笑顔が見れる。
彼は辛くなると無理矢理笑う。
今回もジョーカーを演じ始めた後、護送車内で笑いだす。
母親は虐待されても笑う息子に皮肉でハッピーとあだ名をつける。
コメディアンになるって夢はそこから発生したと思わせる描写が裁判中にあった。
アーサーは愛と認知を求めて生きてきたけど、その気持ちが笑いものにされ続けた。
虐待から精神的に逃れるために生まれた「笑い」を親にネタにされ、
その笑いを武器にしようとしてもTVのネタにされ世間からバカにされる。
世間からネタにされた事に怒りをぶつけても、その怒りもリーや看守たちの玩具にされる。
前作は子供を追いかけるシーンから始まるが、今作では同じ通りを自分の姿をしたファン終われる。
これが冒頭のアニメと繋がる。
ラストはファンに殺される。
「報いをうけろ」って何?
おそらく「俺たちの気持ちを裏切った報い」って事だ。
どこをどう切り取っても悲劇だ。
人に利用されるだけされて最後は捨てられる。
奴隷のような扱いを受ける。
冒頭から何度も口笛で吹かれる「聖者の行進」は黒人の奴隷の過酷さも死後には救われると言う意味合いで歌われる事があった。
アーサーは息絶える時笑う事で自分の人生を喜劇にしたかったのかもしれない。
でも死ぬ事でしか救われない人生を喜劇と呼ぶことができるのか?
そう仕向けた僕達にアーサーを笑ったり同情したりする事は許されるのか。

備忘録

※1
ラストに死んだ時も唇から血を流す。
看守のネタは犬が死んで金になるとわかるや手のひら返しするネタ。
理想と違うと手のひら返すって意味?

※2
「ビューティフルマインド」は愛されたいと思う気持ち自体は「美しい」とおもわせる映画。
共通点はその気持ちが本人を苦しめるところ。

フォリ・ア・ドゥの意味。
二人以上の人が同じ妄想や錯覚を共有する現象をそう呼ぶ。
リーとアーサーの妄想ではなく、アーサー以外の人間が持つ彼への妄想が共有されてアーサーを推そうって意味だと思う。
もしくはアーサーの妄想が一般人に共有されて自身に帰ってくる妄想の逆輸入現象。






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