理系だった私がアクセサリーブランドを作ることになった訳 その2
今日の写真は、生の藍の葉で染めた正絹で作ったコサージュ。
ディスプレイの水晶に乗った海老は竹製。これは私が作ってませんがw
さて、前回はものづくりの原点が幼少期にあった話をしました。
今日はその続きを書こうと思います。
「和」に還る
地元高校を卒業後、大学進学し、さらに卒業。
最初はつくば市の研究所にいましたが、
母の体調が良くなくて、半年で実家の岐阜に戻りました。
幸いにも大学院の先輩の紹介で、
実家に近い製薬関係の研究所に再就職ができましたので
仕事をしつつ、姉と一緒に母の病院に通いながら家事をする日々が続きました。
やがて母も無事退院。忙しかった日々に余裕ができるようになり
私にも自分の時間ができるようになりました。
そして私が最初にやり始めたこと。
それは海外旅行にいくことでした。
初めて海外に行ったのは、大学三年の春休み。
1か月くらいかけてフランスを周遊していたのですが、
(これについては後日書こうと思っています。)
やはりその時の楽しさが忘れられなくて
引っ越し、転職で忙しくてできなかった旅行を復活させたのです。
幸いにも職場が休みの調整をしやすかったのもあって
年二回以上ヨーロッパ、アジアを周っていました。
とにかくたくさんの美術館、博物館、名所旧跡を周り、
さらにアンティークや工芸品、布、ビーズなど
自分のアンテナにひっかかるものを買いまわってました。
そんな中、衝撃の出会いが。
ある年、友人とイギリス一周して
最終日ロンドンの大英博物館に行った時のことです。
その時日本の美術品の展示会をしていた中に魂を撃ち抜かれる美しい女性の絵がありました。
鏑木清方の美人画でした。
どういうシチュエーションの絵かわからないのですが
男性に寄り添う、憂いのある目をした、切ない情景。
そして着物の描写の美しいこと。。。
それから日本までの帰路はその絵で頭がいっぱいで
どう家に帰ったかわかってないくらいでした。
師匠との出会い
帰国後、頭が冷えたとき、ふと思ったのが
「私、日本人なのに、日本文化学んだことないよな。」
正直そんな余裕なかったし、毎日仕事に忙殺される日々だったよなあと。
そう思ったが吉日、隣の部署にいた仲が良かった後輩に聞いて
会社近くの表千家のお茶の先生でもあり、未生流の花の先生でもある方の
門をたたき、すぐに習い始めました。
そして、もう一つ。
これは今でも本当にすごい縁だなあと思うのですが、
たまたま会社のそばに住んでいた同じ部署の先輩に
この時期、なにかの話で
おばあ様が凄腕の和裁士だということをお聞きして
直感で「お会いしたい!」と思い
先輩にお願いしてお宅にお伺いして
おばあ様にあわせていただきました。
この方が私の縫物の師匠です。
高齢ながらも、仕事帰りの地元の娘さんに
和裁のほかにお茶、お花も教えてらっしゃいました。
何よりもかっこいいのが、当時70歳はゆうに超えてらっしゃったのですが現役の和裁士で、出来上がりの美しいのはもちろんですが
とにかく縫うのが早く、あっという間に仕上げられてた記憶があります。
師匠は、着物の知識も、ましてや和裁の針の使い方も全く分からない私に
ゆっくり、急かすことなく教えてくれました。
時間とデータに追われ、毎日張り詰めた緊張感のある仕事だった私にとって
師匠と笑いながら過ごす時間は本当に幸せでした。
正直私の和裁士の腕は、母も言ってた通りいまいちだったのですが
自分の道具をいれてた数寄屋袋や巾着、かんざしはよく師匠に褒められて
やがて結婚後も、こういう小物だけは作りつづけることになりました。
今日はここまで。
長文読んでくださってありがとうございました。
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