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生成AIは、100均と同じ。

この記事は語弊を含むかもしれないが、同じような気持ちを持ったクリエイターに届いてほしいという思いと、思いは違えど「全ての」クリエイターにAIとの距離感についてご一考いただくための試金石になってくれれば幸いだ、という思いで書いた記事である。

はじめに

40歳になる年度で、教師から脱サラをして、クリエイターの端くれとなった私。そんな私は

  • 「AIで稼ぐ!」

  • 「イラストや動画は、もうAIだけで良くない?」

こんなコメントを見聞きするたびに、深く考えるようになった。

生成AIは所詮ツールなので「AIで稼ぐ」は「ハサミ・・・を使って稼ごう」「パソコン・・・・を使って稼ごう」「スマホ・・・を使って稼ごう」と同義だと思っている。

例に挙げたものは今はどれも聞かない。

流行った当時は声高々に叫ぶ人たちがたくさん居たと思うが(流石にハサミは知らないが)、今は当たり前すぎて誰も言わない。詐欺まがいの触れ込みが横行しているくらいだろう。
個人的にはAIも同様の道を辿っていくに違いないと思っている。今は物珍しさからキャッチーに聞こえているだけだ、という具合だ。

やがて(すでに?)『誰でも簡単に』という枕詞がつくだろう。そうしたらブームの終焉が近い。参入障壁が低いものは、あっという間に群がられるからだ。

他方で、「イラストや動画のクリエイターの仕事がAIに取って代わられるのでは?」と言う話もよく耳にする。ただしこれについても(もちろん意識はするが)そこまで不安に思っていない。

なんせ、生成AIは100均と同じだと思っているから。

その根拠を整理してみようと思う。
もちろん、異論反論も認める。各々が感じる「AIとの向き方」が知れると嬉しい。


生成AIで仕事は奪われないし、良くも悪くも100均レベル。

100均を利用することは多いと思うが、100均のクオリティは良くも悪くも100円だと感じる人はやはり多いだろう。

最近ではデザイン性や機能性を重視して、3coinsやダイソーのStandard Productsのように、100円を超えてでもデザインや質を上げて商品展開をするサービスも見受けられる。
逆転現象と言えるかもしれない。

このことからもわかるように、よくも悪くも100円で買える商品には、妥協点が存在する。
こだわりがそこまでない」と言っても良いだろう。

  • 使えたらいい

  • 動いたらいい

  • 安ければいい

など、商品そのものに魅力があるというモノは少ないだろう。

この100均の商品達と生成AIの立ち位置が、非常によく重なると僕は考えている。

今や100円で揃えられないものはないというほど、日本の100円ショップは充実していると思う。
同じように、今や生成AIで作れないものはほとんどないように感じる。

先日流し見で見ていたSNSで、(有名な人なのかは分かりかねるが)とある人が大袈裟に発信していた。

生成AIを用いて制作した動画を披露し
「これすごいでしょ? これからの広告や映像制作は全てAIで全て良くない?」
このように発言をされていた。

僕にとっては「これ全部100円ショップで揃ったんだよ。これからは高いお金を出して買う必要はないよね?」と同じことを話しているように見えた。

この違和感はなんだろうかと疑問に思った。
発信者の彼と私との間には、どんな価値観のずれがあるのだろうか。
備忘録がてら、少し整理してみようと思う。

商品やサービスの値段の決め方

商品やサービスをつくるとき、マーケティング的には「マーケットイン」と「プロダクトイン」と言うそうだが、生産者(提供者)と消費者(市場)のどちらを軸に展開しているかが重要らしい。

簡単に言えば「作りたいものを作って売っている」のか、「欲しいものを作って売っている」のか。
このどちらかだ。

2024年の常識で言うと、後者の方が売れる。
「消費者が欲しいと思っているものを作る方が良い」と言う価値観は、しばらく変わらないだろうと思う。

別の視点からも商品やサービスを見てみる。

商品やサービスである以上、「値段(コスト)」は避けて通れない。
この値付けにも、生産者側と消費者側の軸が存在する。

生産者側を軸にすれば、原価や人件費など、さまざまな費用を積算し、最後に利益を上乗せして価格を決める。この微妙で絶妙なバランスによって決められた価格は、場所や条件よって変動する。

一方で消費者側の軸も存在する。
いわゆる「その値段じゃ買わないよ」というものだ。

供給が少なく需要が高ければ、値段が高くても買うだろう。(いわゆるインフレ)そうでなければ消費者の中に「相応の値段」が存在する。いわゆる「相場」だ。

また「相場」以外に、消費者側の軸には「こだわり」という非合理な側面もある。
こだわりがあると値段の中には「価値」を含めるようになり、良くも悪くも相場と乖離しても問題がなくなる。

まとめれば、消費者側は「相場」と「こだわりの有無」で値段が決まると言っていい

相場を知らないモノ・サービスであれば、自身の経験に基づいて勝手に・・・相場をつくり出す。
例えばいっとき写真家界隈で話題となった「学校行事カメラマン」がそうだ。

修学旅行に撮影者として同行して1日いくらもらうのが適正金額か? という議論で、1日2万円は高いのか低いのか、という話になったことがある。

相場を知らない人たちからすると、(自分の経験に基づいて)勝手に相場を作るので、日給2万円は(日雇のアルバイトなどで日給2万円という仕事は経験をしたことがないから)高いと感じるのだろう。

そんな教師の人たちの日給は2万円を超えているだろうに。他人の仕事に対して、こだわりがなければ低くなるのは世の常なのかもしれない。

一方、こだわりがあれば、相場を超越して値段がきまる。
値段に「価値」を上乗せすると言っても良い。
コレクションなどがいい例だろう。趣味やいわゆる「推し活」というジャンルではこの「こだわり」が強くなる傾向があるように思う。

話は少し変わるが、たまたまタイミングよく執筆時点でYouTubeにおすすめとして上がってきた切り抜きで、CMについて話しているホリエモンも「CMはAIで十分」と言っていた。

この人の発言からも「価格」と「こだわり」の側面がよく理解できる。

出典 ホリエモン切り抜きチャンネル

「広告(とりわけCM)業界はクリエイターが幅を利かせているが、結局CMは、ものやサービスを売るためにあるわけだから、AIで数百種類のパターンを作って、一番反応いいものを選べば良い」

ここに(まさに)「こだわりがない」ことが見える。
いや正確に申し上げると、こだわるポイントを「CM本来の役割・・・・・」に絞っていると言っても良い。

クリエイターに頼むより高くついたとしても、 広告本来のこだわり(=売上を上げられる動画かどうか)に絞って、AIで数百種類のパターンを作る方に間違いなくコストを支払い続けるだろう。
(彼の場合は第三者に支払うというよりも、自ら制作しそのノウハウでサービスを提供する側になると思うが)

※余談だが僕は正直ホリエモンが苦手だ。二言目には「バカ」が出てくる人を、どうやっても好きになれないし、ましてや人として尊敬したい気持ちにもなれない。これは好き嫌いの話だから掘り下げることはしないけれど。

いずれにせよ。
広告だろうが映像制作だろうが、書籍でもイラストでも絵本でもなんでも良いのだが、こだわりがなければ値段は低くなる。(価値も低くなる)
値段以外のこだわりもそうだ。例えばCMでタレントやインフルエンサーなどを起用するとなったとしても、こだわりがなければ生成AIで良いのだ。
何百パターンも一気に作れるし、スキャンダルの心配もキャスティング料が変更になることもない。

こだわりがなければ、値段はいくらでも安く済ませられるのだ。
これは疑いようのない事実だ。

しかし考えてみてほしい。

自社の商品を広告する。
その上で、自社商品にこだわりがないはずはない。我が子とは言わずとも、多くの商品やサービスには必ず「こだわり」があって、他社商品にはない魅力があるからこそ、それをPRして売り上げを伸ばしたいと思うはずだ。

商品じゃなくても良い。
人生とか、あなた自身についてはどうだろうか。
100均に囲まれて生きていることにこそ生きがいを感じる人も一定数いるだろうが、それは100円というコスパの中でうまく生活できている自分が素敵でそんな自分でいられることが嬉しいのだと思う。

仮に100円のものに囲まれている中に1万円のものが置いてあったとして、激怒する人は少ないだろうと思う。1万円のアイテムが嫌いなのではなく、100円のアイテムなのにそれっぽく見せていない自分のスキルや技量がすごいと思っているのかもしれない。

段ボールや100円のアイテムでベッドを作れたとしても、高級ベッドをプレゼントされて怒る人はいないといってもいい。

100円のものや商品で満たされているから嬉しいのではなく、1,000円とか1万円とかしそうなものを、100円とか500円とかで代替できている・・・・・・・ことに喜びがあるのだ。

比較や差別があって、初めて満たされる感情に近いといってもいいだろう。

アクセサリーや服でもいいし、食べ物でもいい。
今や300円くらい出せば、ちょっとおしゃれな小物も化粧品も買える。
でもそれだけで身を固めることはほとんどの人はしない。

こだわりが登場する場面で、そういった「チープさ」がウリの商品からは距離を置くことになる。
(もちろん統計学的に探せば極める人がいるのは理解できるが、マジョリティではないはずだ)

人は生きていく上で必ず、どこかしらにこだわりが生じる。
そのこだわりが生まれたときこそ、生成AIには対応しきれない領域があるのだろうと思う。

大量生産・大量消費の象徴である100均と、生成AIは本質的には同じだ。

だからこそ、本記事のタイトルと同様にこの記事で一貫して申し上げている「生成AIは100均レベル」から抜け出すことはできないのだと信じている。

まとめ

YouTube、TikTokをはじめ、各種SNSではAIを使っている作品が多く存在する。それを見て「すごいですね」「やばいクオリティですね」ということが言われているが、どれも心が動かされる作品に出会ったことはない。

生成AIの技術が上がって、やがて心が動かされるようなクオリティ(質)を持った作品などが出てくるのかも知れない。
それでもやはり「こだわり」が感じられないことには変わりがないだろうと思う。

「え? これが100円で?」
「こんなに入っているのに、たったこれだけ?」

など、コスパを売りにするとどうしても感動の軸が逸れてしまう。

内容よりも、価格やコスパ(場合によってはタイパ)に評価軸が知らないうちに移ってしまう。

生成AI界隈が盛り上がるのは良い傾向だと思うし、僕自身クリエイティブな仕事のパートナーとして生成AIを活用する場面は多い。

それでもそれは100均と同じ立ち位置であることを忘れてはいない。

教師の仕事しかり、クリエイターの仕事しかり。
世の中のありとあらゆるものは生成AIで良いのでは? という風潮があるように見受けられるが、100均が流行っては落ち着いたように、いっときの流れに振り回されないように僕自身気をつけたいと思っている。



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