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負けに不思議の負けなし

静山のことばに学ぶ

江戸時代、肥前国ひぜんのくに平戸ひらど藩(現:長崎県平戸市)の大名で剣術の達人、松浦まつら静山せいざん(1771-1841)は次のような言葉を残している。

いはく。勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし。問、如何いかなれば不思議の勝と云う。曰く、道をとおとび術を守ときは、そのかならず勇ならずといへども勝ち得る。この心をかへりみるときはすなはち不思議とす。故に曰ふ。又問、如何なれば不思議の負なしと云ふ。曰、道に背き術に違《たが》へれば、然るときは其負疑ひ無し、故になんじに云《いふ》。

(現代語訳)
勝つときには不思議の勝ちがあるが、負けるときには不思議の負けということはない。なぜ不思議の勝ちなのかといえば、本来の武道の道を尊重し、教えられた技術を守って戦えば、たとえ気力が充実していなくても勝つことができる。このときの心の有りさまを振り返ってみれば、不思議と考えずにはいられないからだ。またなぜ不思議の負けはないのかといえば、本来の道から外れ、技術を誤れば、負けるのは疑いのないことだからだ。

松浦静山『常静子剣談』から抜粋

要するに、「勝つときには自然に勝つし、負けるときには、負けるべくして負けている」ということではないだろうか。

道とは何か ー 謙虚さが大事

静山は、道という「ことば」を使っている。かつて嘉納治五郎が「柔術」から「柔道」を生んだように、「道」という「ことば」は単なる技術だけはなく、人としての生き方やあり方を示しているように僕は思う。

負けたときには、「道」からどう外れてしまっていたのか、何を誤ってしまったのかを省みる。また、勝ったときには、本来の道のあるべき姿や教えられた技術の尊さを思い起こすことはあっても、それが自分の力によるものだとは思わない。そういう謙虚さが必要だろう。

ものごとには定石というものがある

ものごとには「定石じょうせき」というものがあって、そこをいい加減にしていると、できることもできなくなる。たとえば人材育成にしても、山本五十六やまもといそろくが言っているように、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」というのが基本だと僕は思う。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

山本五十六の言葉より

まずは自分がやってみる。柔道の稽古で子供たちを教えて試合に送り出すにしても、自分自身が試合に出ていく姿を見せなければ、どうしようもない。そう僕は教えられてきた。

結果よりも過程を大切にしたい

また、道は「過程」であって、決して勝った負けたの「結果」ではないと僕は思う。だから、いつも「継続している」「続いている」ことが重要で、仏道にしろ柔道にしろ、日々の稽古、日々の修行があってこそ、道を学んでいると言えるのではないだろうか。

自然に勝てるようになるまで稽古を積んでいくこと、そしてそれを維持していくことが、道を極めるということにつながっていく。道は決してゴールではない。命の続く限り、この道を歩いていけることに、あらためて感謝したいと思う。

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