合気道の型稽古とはゲームか儀礼か?【合気道と野生の思考】
最近ではシン・ウルトラマンにも登場したことで話題のレヴィ=ストロースによる「野生の思考」について書くフリをしながら合気道の話をする。
「野生の思考」というのは哲学の世界に「構造主義」という大転換をもたらした本の中のひとつ。
人類とは何か?の一番アツい探求をしてる考え方といった感じかな。知らんけど。
儀礼とゲーム
第一章で個人的に一番面白かったところは儀礼とゲームの対比だった。
ゲームとは?
ゲームというのは言わば科学的なルールの上になりたっていて、勝敗を決するもの。
それはスポーツもそうだし、今でいうeスポーツだってそうだし、チェスや将棋も同じ。
儀礼とは?
反対に儀礼というのは儀式で、わかりやすいのが葬式だろうか。
葬式には文化によって色んなルールがあるけれど、別にそれをやったからといって死者が喜ぶわけではない。
何のためにあるかと言えば生きている人のためにあって、何千年にも渡ってあらゆる地域で行われていると言うことはおそらく重要な意味を持つ。
ある先住民族は死者を送り出すために実際にゲームのようなものをして疑似的に死者に扮した者に勝ったりするのだそうだ。
ゲームと儀礼の違い
どちらもルールがあって、勝敗みたいなものはある。しかしゲームは偶然や実力などが左右して勝敗が変わるのに対して、儀礼は勝敗がはじまる前から決まっている。
昔の相撲なんかもそうで、各地を回ってその土地の豊作などを祈って立ち会う場合は、その土地の者が勝つようになっていたりするらしい。
そういうゲームみたいな感じだけど勝敗は決まっている、いわゆる聖なるものと俗なるものが決まっているのが儀礼なのだという。
だいたいの場合、葬式というのは「良い葬式だった」と言われることが多いはずだ。「最低の葬式だった」とはなかなかならない。
合気道の型稽古
合気道の型稽古を考えたとき、この区分はかなり面白くて儀礼とゲームの中間に位置している。
型稽古は勝ち負けが決まっているのだ。そして勝つ方と負ける方を交互に繰り返しながら稽古をしていく。
これは儀礼のようでもあるけれど、型稽古はその中にもうひとつ内包しているものがあって「勝った状態とはどういうものか?」ということをふたりで産み出さなくてはいけない。
これがある意味では裏ルールみたいなもので、たとえ形の上では勝っている側をやっていても気持ちの中では失敗や課題が見つかる。
合気道の型稽古は勝ち負けの儀式をしながら「本当の勝ちとは何か?」を探るゲームだということもできる。
ある意味では二つの要素が重なった状態こそが本質的な型稽古だと言えるのではないだろうか?
参考:『野生の思考』第一章「具体の科学」
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