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『贈与論』で稽古する合気道:攻撃を処理するとは何か?

近隣に暮らす人々の間の平和とは、人間にとって自然な状態ではない。
それどころか、戦争こそが自然な状態である。
敵意はただ戦争のみに見られるものでらなく、
我々は常に敵意に脅かされている。
それ故に、平和状態は法により確立されねばならない。

イマヌエル・カント
『永遠平和のために』

つーわけで平和ってのはフツーじゃないってカントおじさんも言っている。あの、なんか西洋的な陰と陽についてゴチャゴチャ書いていた『純粋理性批判』でもお馴染みの彼が!

ナチュラルに自爆テロが起きる国に住んでたおれからすれば日本はめちゃくちゃ平和、そんな風に思っていたけれど『贈与論』のせいで考えを改める必要がでてきた。もしかしたら日本、別に平和ってわけではないかも。

日本で行われる戦争

カントおじさんは「敵意は常に存在する」といっていて、その通り今日も元気にインターネットでは火の手があがる。日本は内戦状態といってもいいのかも知れない。

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(久保帯人著『BLEACH』より抜粋)

贈与論を通して特に印象的だったのが「破壊のポトラッチ」である。
貰った贈り物をわざとゴミのように扱ってみせたり、あるいは何かを贈る代わりに盛大に破壊してみせたり。
その破壊の豪快さが資本力として他部族への攻撃となり主従関係すら変えてしまう。
贈与は「支配欲」や「敵意」だったりするわけだ。

未開部族のやってることじゃんと思いがちだけど、それは今の日本でも当たり前のように行われている。
まるで捨てるかのようにお金配りをしている前澤友作がは果たしてそのことで本当に損をしているだろうか?
逆にSNSでおかしな情報を流してしまうと、たちまち膨大なリプライ(お返し)が戻ってきてしまう。

攻撃(入身)とは何か?

合気道を稽古することで理解できるもののひとつが、攻撃とは何か?だ。
攻撃というのは相手が手を振り上げて自分に向かって勢いよく行われるものだけじゃない。
そんな攻撃をしてくるのは素人だけだ。

攻撃しようとしていることがバレてしまうと、相手には対応されてしまう。
わからないほど早く、そしてさりげなく仕掛けなける必要がある。
相手が攻撃してくるよりもさらにはやい段階で攻撃をしかける準備を完了させておく。
そういうやりとりを稽古するのが合気道だ。

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(荒木飛呂彦著『ジョジョの奇妙な冒険』より抜粋)

つまり接触してからでは遅い。もっと前からすでにはじめておく。
そういう風に考えれば、世の中には実際に触れる前から行われている攻撃が山のようにあることが理解できるだろう。
そしてそれは、贈与によって行われている。

触れない争い

今やオンライン上では「無料」とか「〇〇円プレゼント」「〇〇ポイント付与」みたいなものがたくさんある。
これは全部、触れないで相手を動かすための仕掛けになっている。知らず知らずのうちにプレゼントされたものを消費するために、何かを買おうとしてしまう。

そんな感じで現代においては触れる前、気づく前から贈与という名の波状攻撃が行われている、と見ることもできる。
そういう意味ではこの世は無差別大戦の真っ只中だ。そこら中で攻撃が行われているってわけだ。

直接的な暴力が法によって禁止されている現代の日本で、武道の稽古をすることの意味はここにもある。
触れる前からはじまる贈与を知り、そして適切に処理すること。
それは現代の合気道の進むべきひとつの道なのかも知れない。

まとめ

贈与は自分の意思に反した行動をさせられる。

理由もわからないまま、贈与に乗るのでなく贈与を利用していく。

そういう処理が合気道なのかもね。





モースの『贈与論』から学ぶ合気道はこれにて終了です。





マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?