型はどうやって生まれるか?【合気道と宗教生活の基本形態①】
エミール・デュルケームの書いた『宗教生活の基本形態(全)オーストラリアにおけるトーテム大系』を解説するフリをして合気道の話をする。
でもけっこうわかりやすくなってると思うよ。
『型』はどこから生まれるか?
問題の解決にはまず良い問いがなくてはならない。
デュルケームの問題提起は武道でいうところの『型』がどこからきたか?だ。
宗教という独特の形式を産み出すためにはどんな「カテゴライズ」が必要だったのか? どこからカテゴリーが生まれたのかを探る。
人類は宗教とそうでないものを産み出した。
だがそれは一体、何と何を区別した結果なのか?というのがデュルケームの問いになる。
なぜカテゴリーなのか?
理性なのか、知性なのか? 先天的なのか、後天的なのか? 物事は陰陽のように分割できるけれども、この切り分けがよくないと答えがでない。
そこでデュルケームは個人と社会という観点から宗教を切り分けてみた。
社会には集団生活としてのスケジュールとカテゴリーがあり、個人には性別や年齢、役割によってまた別のカテゴリーがある。
社会で活用できる『型』があれば、それが文化や教えになって多くの人が活用できるわけだ。
そうした型の根本を探ろうとしたのが『宗教生活の基本形態』という本で、武道武術ではこれを型の分解という。
合気道的思考法
ポイントは『二元性』という言葉からはじまる。
直感なのか経験なのか、理性なのか知性なのか?これらの陰陽的な二元を別の二元によって捉え直していくのがデュルケームのアプローチだ。
合気道でも対立したり拮抗してるってことは別の所からは簡単に崩せるってことにも似てるかも。
自然界を見渡せば昼と夜、波と凪、天と地といった二元があり、これらにはひとつの根源(一元)があるというのが合気道の考えだ。
宗教の原点を探るためにも人の社会と精神という内と外を探ることが解決の糸口になるのだろう。
序論:どっから手をつけるか?
デュルケームは「宗教の根本とは何か?」について考える時に「原始的な宗教を調べるのが一番やろ?」ということでオーストラリアの先住民アボリジニに目をつけた。
歴史ある宗教というのは色々と最初の形から変わっちゃっているので、あんまり変化してなさそうな所を調べようと言う発想である。
武道でいうなら、由緒正しく伝統を守ってるところから発祥を研究しようってところだろうけど、いくらなんでも変わっていないわけがない。
そこら辺はエッセンスから考えてみましたってことなのだろう。
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