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【考察】合気道側の弟子達から考える大東流合気柔術との違い
まず合気道と大東流の関係を知らない人に雑に説明すると、大東流というのは高級料理屋みたいなもので、武田惣角という人がごく限られた人にだけ高額で作り方を教えていた。
そこの稼ぎ頭で料理長的な立場だった植芝盛平が惣角の死後、戦後の混乱などの中で独立して看板を変えて出した大衆食堂が合気道という感じ。
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合気道について調べているついでに、盛平の弟子達が語っている大東流との違いみたいなものが見えてきたので解説してみる。
歴史全体の分析
盛平と惣角の関わりは、出会ってから惣角が死去するまでの28年間になる。
資料を読んでいるとその時その時での盛平の対応、そして弟子たちの反応で当時の空気感みたいなものが見て取れるわけだ。
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初期1915~1924
この頃の弟子たちは人格については正反対としつつも、大東流だったことを認めている。
中期1925~1934
盛平の思想的な変化から惣角への対応に変化が見え始め、弟子たちも惣角からは習わなくなっていく。
後期1935~1944
盛平が惣角を避けるようになるものの、弟子たちは「大東流合気柔術」を稽古していたという認識だったようだ。
独立後1945~
息子の吉祥丸が中心となって紹介制だった入門の廃止、演武の一般公開、段位制の導入など大東流とは大きく差別化されていって弟子たちも大東流とは違うという認識になる。
合気道と大東流の違い
合気道と大東流の明確な違いは植芝盛平と武田惣角というふたりの違いでもある。
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指導法の違い
惣角と出会ってから9年後くらいから盛平は「必殺の教え」を「言霊の教え」へと変化させ、技も具体的に説明せず、忘れろというようになる。
これは形稽古を重視し、技を秘伝目録に記し、「一つの技につきいくら」と値段をつけていた惣角とは真逆のスタイルと言えるだろう。
技の違い
技に関しては晩年に行くほど丸くなっていったと多くの弟子が証言している。
55歳頃は固くて痛い技が多く、晩年は流れるようで柔らかく円いと言われるようになっていく。
ただ完全に変わったのは1960年代70代以降といった証言も複数あり、その変化は流派の違いというよりは肉体的な変化のようにも感じる。
思想の違い
弟子達の発言から考えると大東流と合気道が大きく違うのは「思想」だったという発言が多い。
盛平は武に関する精神的な問題の解決を合気道で実現させたと初期からの弟子の富木謙治は考察しており、晩年の弟子である多田宏に至るまで同じような意見だと思われる。
まとめ
合気道と大東流の違いというのは、多くの弟子達の考えから行けば思想が最も違っているということになる。
盛平の思想は戦前、戦後を通してブレていない。
代わりに技に関しては晩年に行くほど柔らかく円くなったという。
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盛平にとって大東流合気柔術というのは間違いなくある種のベースではあったが、後に本人が自分の流儀を「合気」と呼ぶようになる。
これは戦後に大東流を抜けて、柔術的な技法からも遠ざかり、大東流合気柔術から合気だけが残ったのだとも言える。
盛平にとって己の思想を最も体現できるものが「合気」だったのかも知れない。それを学ぶ道が戦後に合気道と呼ばれるようになったのにはそうい意味もあるのかも知れない。
大東流については実際のところはあんまり知らないけれど、盛平の思想や指導の体系化は大東流にも影響ごあるように思う。
↓オマケとして今回の考えに至ったおおまかな流れを書いとく。
もう少し細かい情報
1915~1924 大東流合気柔術(32~41歳)
1915年に盛平は北海道遠軽町の久田旅館で武田惣角と出会い、大東流柔術をはじめる。この頃は自分の村に道場をつくり、高額の教授料はもちろん、田畑を譲り、北海道を去る1919年には自宅も譲渡するほど尽くしてた。
1920年からは京都府綾部の大本教で武術の教授をはじめ、1922年には惣角を呼び寄せ、教授代理を許され、さらに流派の名称を大東流「合気」柔術へと変更することも許可されている。
この時は200円以上の謝礼を渡し、誰かに教えるたびに惣角にも送金する取り決めもした。この後、惣角は北海道に戻ってから1930年代半ばまで出てこなかったらしい。
盛平はその後、モンゴルで命がけの修羅場を潜る。
1925~1934 大東流から言霊へ(42~51歳)
1925年の春頃、「武は愛なり」という悟りを開くと、そこから数年の内に痛くて厳しい稽古は言霊の教えへと変化していったと富木謙治、鎌田久雄、赤沢善三郎らが証言している。
1931年には惣角から最高位の免許を授かるが、免状はほとんど飾られることもなく撤去され、道場には出口王仁三郎の書が飾られていたと息子、吉祥丸が語っていた。
その後も惣角は3〜6ヶ月に一度訪れていたようだが、金銭の催促などが主で教わりたいと思わなかったと岩田一空斎や杉野嘉男が言っている。
1935~1944 惣角からの離別(52~61歳)
田中万川は開祖が言霊の話をしていたのをよく聞いており、技は晩年ほど丸くはなかったという。
1935年までに盛平は大東流の免状を100以上出したと言われており、当時の弟子の塩田剛三らは「大東流合気柔術」を稽古していたという認識だと思われる。
1936年に盛平が旭流と称して指導していた大阪朝日新聞社に惣角が来訪したが、盛平は顔を合わせることなく東京に去る。
1939年入門の天竜は当時の名称は「大東流柔術合気道」だったと語っている。塩田はこの前後の55歳くらいの盛平が最も強かったとしており、奥村繁信も55、6歳の時の盛平は力が有り余っていて養神館の動きに近かったと語っている。
同時期に入門した藤平光一は後に大東流は盛平の合気道においてはまったく役に立たなかったのではないか?とまで言っており、技よりもリラックスの重要性を説いている。
1942年に10代で入門した砂泊諴秀によれば当時は「武道」と名乗り、柔らかく力を感じない技になっていたらしい。
1943年5月3日に武田惣角が死去(84)、盛平は大病を患い葬儀に参列せず。
折しも終戦間近であり、一大転換期に差し掛かったと思われる。
1945以後 合気道から見た大東流合気柔術
1946年、盛平は拠点を岩間へと移す。
1950年入門の多田宏によれば、大東流合気柔術時代の弟子は「合気道は形だ」と思っている人が多く、一緒に稽古すると違いに驚いたと語っている。
盛平は多田に訓練法は大東流式だったが教えていたのは大東流の型でなかったといった内容のことを語っていたという。
1953年入門の田村信喜は1930年代に稽古していた望月稔から「(今の合気道は)本物の合気道じゃない。『これが合気道じゃ』とおそわったのに、戦後に大先生が勝手に技を変えた」と言われたらしい。
1956年入門の藤田昌武は盛平が1937年53歳頃のビデオを見ても技の変化はあまり感じなかったという。1931年に入門していた白田林二郎は後年に盛平の技を見た時に円の技へとなっており、それが吉祥丸によって大成し組み立てられたと語っている。
1957年に吉祥丸は光和堂から『合気道』を出版、この時に大本教植芝塾時代の写真で「大東流合気柔術」の文字を黒くしていたので大東流から事実を隠そうとしていると批判された。
とは言え合気道新聞の方では開祖が亡くなるまで大東流を稽古していたことは特に隠されてもいなかったので、どちらかというと合気道を知らない人にわかりやすく解説したかったのだと解釈することもできなくもない。
大先生の技は1960年77歳頃に変わってきた。技が丸くなってきた。今まではあまり丸くなかった技がだんだん丸くなってきたと田中万川は語っている。
(参考:植芝盛平と合気道1、植芝盛平と合気道2、開祖の横顔、氣の確立、合気道新聞、合気道ひとりごとブログ合気道⑪大先生2007/3/30)
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