宗教の最小単位とは?【合気道と宗教の基本形態②】
デュルケームの『宗教生活の基本形態(全)』から考える合気道。
今回は宗教の最小単位を巡る話になる、つまり最低限何があったら宗教と呼べるのか?ということ。
宗教っぽさ
デュルケームは宗教っぽく見える要素としてまず「従属関係」をあげている。
王に対する家臣、権力に対する野心、指揮官に対する兵士、アイドルに対するファン、師匠と弟子というのは関係性としては宗教っぽい。
しかし、これらは双方がいないと成り立たない依存の関係にあるので宗教とは違う。
では宗教たり得る要素とは何か?
聖なるものの誕生
デュルケームの着眼点の面白さは、神も神秘も実をいうと宗教にとって必須の要素ではないという所だ。
仏教が解脱してこの世の輪廻から解き放たれることを目的にしているように、神がいなくても宗教は成り立つ。
では何が宗教かそうでないかを分けるのかと言うと、それは「聖なるもの」の存在だ。
石ころでもコーラでも、聖なる石ころや聖なるコーラのように、人がそう思った瞬間に特別なものになり、俗世間から離れた存在になる。
デュルケームはこの聖俗の区別こそが宗教の最小限の要素だという。
宗教と武道
合気道や武道における「道」にも果てしない遠さのようなイメージがあって聖性があるように思う。
柔道の嘉納治五郎が「術の小乗を脱して道の大乗へ」と言ったように、武術から武道への転換には神聖さを持たせる意味もあるかも知れない。
神聖さは目的にも現れる。
柔道なら精力善用、合気道なら神人合一を目指す。
そして神聖なものがあれば集会所と司祭が必要になる。
武道における道場と師範も同じようなものだろう。
師範と弟子や司祭と信徒の関係は主従関係ではなく共に道を歩む同士でもるので、呪術や武術とはまた少し趣が変わる。
武術と呪術
宗教に近いものに呪術がある。これはよく似ているけれど違うというのがデュルケームの意見だ。
誤解を恐れずに言えばこれは武道と武術の関係にも近い。
「呪術」は一子相伝の武術みたいなモンと考えることもできて、他人にバレたら術が対策されるので知られないことに意味があり、秘密裏に行われるものという所が似てる。
とはいえ争いのない現代は道と術の境界もより曖昧なので、あくまでこれは例え話。
宗教の定義
デュルケームは結論として宗教を以下のように定義した。
今ではだいぶその境界がアイマイになっているけど合気道にも宗教的な部分がある。
一方で「触れずに倒す」みたいな技に対して神秘的なイメージを持たれたりするけれど、ああいう不思議系の技はちゃんとできる人にはきちんとした理屈があって神秘ではない。
このように理屈や科学は神秘のベールを剥がす。
聖性とはある意味でそうした理を跳ね返すからこそ聖性なのだろう。
というわけで宗教の最小単位は「聖俗のカテゴリー」からはじまる。
参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第一章 前提問題より
関連記事