『贈与論』で稽古する合気道:合気道は贈与の稽古
合気道が現実的じゃないと批判される理由のひとつに、腕を掴んだり掴まれたりしたところから始まるから、というのがある。
普通なら殴ったり蹴ったり、もっとはやく攻撃から入るから、掴まれてからじゃ遅すぎるってな話だ。
もちろんそれには色んな理由があるわけだけど、今回は古典『贈与論』の観点からそこを考えてみたい。
贈与・インド編
贈与論の第三章では各地の古代の法律から、人類が贈与をどんなものと考えていたかを明らかにしている。
インドの古典ヒンドゥー法は贈与の考え方がめちゃめちゃ極端で「この世で贈ったものはあの世で戻って来る」と言われているそうだ。
分け与えることは美徳であり、分け与えないものには死が訪れるということがひたすら語られてるそうだ。
さらに身分の違う者からの贈り物は毒であるとされていて、自国の王子を食べないといけないくらい飢饉であっても、他国の身分が違う王からの贈り物は食べられなかったのだとか。(さすがにこのルールはすぐ変わったらしいけど)
「ここでは片方だけで回る車輪というものはない」という一文が象徴的で、あらゆるものが因果応報、この世とあの世、生と死で相互に関係しあっている。
贈与の循環が絶対の法として、あの世にまで及んでいたというわけだ。
贈与・古代ローマ編
古代ローマの法では物とか人に大きな区別がなく、何かを借りて返すまでの間には担保として棒キレとかコインを渡していた。
価値はないけどこうした物には相手の『魂』が宿っており、魂を預かっているということになったらしい。
当時のローマのファミリア(家族)はレス(物)まで含まれており、すべてが一緒だったのだけれど、だんだんと取引が行われるようになっていって「家財と譲渡可能な物は別」みたいな感じで分類されていった。
人類ってのはそもそも取引をするまではあんまり物と人のくくりがハッキリしてなかったのかも知れない。
他人から何かを受け取った人はレウスと呼ばれ、物を受け取ったことで相手に支配・所有されてしまった人、物による奴隷を意味していた。
貰ったものを返済するか、奉仕でお返しするまでは物を返さないかも知れないので被告人(罪人)だったのだとか。
贈与・ドイツ編
ゲルマン法は古代ローマ法とも似ていて、担保は義務だったらしい。
契約をするときには必ず物の受渡しが必要で、双方が適当なパンとか手袋を相手に渡して、自分を相手に握られているということを示していた。
この時のワディウム(担保)にはもうひとつの意味があって「賭け」も意味しており、契約が終わるまでは賭けの敗者を意味しており、こちらもレウスっぽい。
イギリス貴族が決闘の申込みとして手袋を相手に投げるように、自分の所持品を相手に渡すというのは「相手に挑戦する」という意味合いもあって、お互いにとって危険な行為であることを暗示していた。
ドイツで産まれた贈り物を意味する単語ギフト(GIFT)にはもともと毒という意味もあったのだという。
贈与・合気道編
そんなわけで贈与というのは古代においてはめちゃめちゃ不穏なやりとりだったのだ。
子孫まで呪われ続ける毒だったり、奴隷になることを意味していたり、とにかく危険なやりとりだ。
そう考えれば稽古で「相手に自分の腕を持たせる」こと「相手の腕を持つ」ことというのは意味としてはもの凄く危険なやり取りなのだ。そこを理解しておかないと稽古は成り立たない。
合気道というのは原初の贈与を稽古するもの、だと言える。
稽古が深まっていくと、いかにして相手に自分の腕を持たせるか?とか、逆にどうやって相手の思うように掴まないか?みたいな微妙なやりとりが行われるようになっていく。
それらは贈与の稽古であり、贈る側と受け取る側が決まった瞬間からすべてがはじまる。
まとめ
個人的に面白かったのは契約の本質は賭けだったということ。
賭けのリスクをどれだけ減らすかというのが人類がずっと取り組んで来たことだ。
現代の贈与や取引にかつてほどのヤバさも面白さも感じないのは、人類の努力と進歩があるからこそなんだろう。
さて、これまでに贈与は攻撃だと説明したわけだけど、ではどういうタイプの攻撃なのかというと「毒」タイプの攻撃なのだ。
そこがわかると合気道の稽古もより面白くなる。
即効性の攻撃ではなく、受け取ってしまえば回ってしまう毒みたいなもんなのだ。
またひとつあなたに知識を贈与して、次回へつづく
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?