我がまま 気ままに ありのまま。
これ言ったら不快にさせないか、嫌われないか、気にして言いたいこと言えずに我慢することが多かったから、読んだ人のこと気にしすぎて書くのが苦痛だった時期もあったけど、今はnote楽しいよ。
好きに書けなかったのはマイルール「ありのままでいてはいけない」とか「自分らしくいてはいけない」が幅きかせてたのも大きい。
そもそも「ありのまま」の概念自体分かってなかっただろうから、「ありのままでいる」とこがどんな事なのか理解に至る遥か手前だったんだろうけど。
長いこと親が望むような自分でなければならないと信じてたし、自分もお父さんやお母さんのようでないとダメなんだと思ってたんだよね。
自分で何かを決めるのが出来ないイエスマンちゃん。
特別な理由もなく自分に罪悪感を感じてから、自己主張ができないし、自分の意見求められても周りの皆と同じでなければいけないと感じるてから、大きな声を出せなくなる。
「声が小さい」と言われるならまだ良いのかもしれない。
失声症になった時の、「何で喋れなくなっちゃったの。。」と私に話しかける母親の顔、思い出してもまだ胸締め付けられる。
目立ったりするのが苦手なところから、どんどん存在してることへ拒否感強くなって、最後は部屋に引きこもる選択しちゃったものでした。
*
あとはすごく似てるし違いをちゃんとわかってないかもだけど「自分らしくいてはいけない」ルール。
人からどう思われるか、評価が気になって仕方ないから人に気を使いすぎてしまうし、人に気に入られたかった。
他者にとっていい子いい人でありたいから、無理に迎合してでも人に合わせちゃうとか普通だったな。
でも相手に合わせてるから本心じゃないし、そもそも言いたいことが言えずない。
何事も嫌でもはっきり断れなかったなぁ。
常に人を優先して自分は二の次になってしまうから心の中に怒り育ててるのに、それにも気付かず自覚なしでいい人やるんだよね。
親(家族)のためと考えて行動してることが多いから、20代は自分の人生生きてなかった。
あの貴重な無駄時間は、高い人生勉強と今なら思えてるけど。
*
私がありのままに自分らしくいられるようになったのは、昔付き合ってた人のおかげのところが大きいです。
その人は(抽象的な言い方になっちゃうけど)とても癖のある人で、私も素でぶつかっていかないとダメだと思わせたのです。
その人より前に付き合った人達には素の自分は出せてこなかったので、初めて他者にさらす素の自分は心底怖かったけど、この人にはごまかせないと感じたんだよね。
恐る恐る素を出してぶつかってみると普通に受け止めてくれたから、それに味を覚えていって、だんだんその人以外誰にでも素の自分が出来るようになった。
その自分でいられるようになると、本当に心地が良くてね、今ではすっかり我がままも上手に言えちゃう気まま自由人になりました。
ここに関しては素の自分を出すと決断する後押しを、本人は無自覚なんだろうけどしてくれたこと、感謝してる。
彼と出会えたことは本当にありがたかったな、元気かなぁ。
*
その自分を出すのは本当に怖いけど、自分が「ありのままでいてはいけない」とか「自分らしくいてはいけない」ルールを持っていることに気づいちゃったら、もうそのルールにはとらわれないぞって思えたら、怖いけど進めるのでしょう。
生きづらさ応援の活動をしています。