20230619 継承という創造(前編)
祭とジェネラティビティの関係に興味があるのですから,当然祭の継承に関する知識も持っていないといけないのですが,実際にはほとんど持っていないよなあと反省していたところに魅力的なタイトルの論文発見。
渡邊洋子 (2013). 8 「祭り」という文化伝承・継承空間. 円環する教育のコラボレーション, 120-131.
『円環する教育のコラボレーション』って雑誌の名前につけるのはすごいなあと思ったのですが,巻に関する情報が書誌情報に存在しないので,継続発行される雑誌ではなく1回のみの雑誌だったのかもしれません。このあたり,ネットで論文pdfを入手するようになって「実際の紙の雑誌がどんなものか」を知らない雑誌が増えたよなあと思いました。
書かれたのが生涯教育の研究者で,教育という研究分野の共通点があるからか,論文の随所に「そうですよね。」という納得と発見が満ちていて非常にためになりました。以下,論文の流れなどはあまり考えず,自分が膝を打った箇所を引用していきます。
おそらくなのですが,かつては「継承される祭」の内容そのものに注目があったのに対して,近年では「自主的主体的に継承していく人」に注目が移っているのだと思います。それはまた「すごい祭だから,真正な祭だから継承される」という祭の質を問う視点から「継承する人が継承したくなる祭だから継承していく」プロセスを重視するようになった変化なのかなと思いました。
なんだかこのあたりの「伝統性」「権威づけ」は「守りたい」「伝承したい」というモチベーションを高めるために非常に有効なものだと思っているのですが,そうしたものは意外と歴史が浅いのかもしれないという視点は自分には目新しかったです。
でもよくよく考えると昔の人々は「伝統!」と思って継承してきたわけでもないのだろうとも。このあたり,「最近50~100年程度の流行」を普遍なものとしてみてしまう危険性は祭について調べるようになって初めてモテた視点だと思うので気をつけないとと。
ありゃ「持てた」が「モテた」に誤変換…祭が時代時代で変化しても私がモテることは未来永劫ないでしょうなあ。・゜・(つД`)・゜・。
よく,おいしいお店の味を守るためには同じ作業をするだけでなく時代に合わせて日々その時の味を作っていく必要があるとかいうネタが紹介されますが,祭りの継承に関しても,同じ山笠を街中で同じルートで舁くためには,時代で変化する道交法に対応したり,それこそ「電線」に対応するために飾り山と舁き山の分離ができたりなど,時代に合わせていろんな変化の連続なのだろうなあと思います。
ある意味そうした時代に合わせた意思決定を,集団のメンバーそれぞれが個人の自主的・能動的な選択として行い,その総体として祭があるという検討をするのに一番有効なのは心理学だと思うので,なんとか自分がその一端を担えると良いなあと思いました。