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20230524 岸和田のだんじりと博多祇園山笠を比較する第一歩

 最初,「都市祭礼における「社会の空白」というタイトルを目にした時イメージしたのは「祭がさかんな地域とそうでない地域などがまだらになっているのかなあ?」というものでした。しかし,少し読んでみると「空白」というのは社会学の専門用語のようで,「社会規範の真空状態」を意味するようです。
 そういう意味を知ると,確かに祭というのは通常の社会規範が空白になりやすいイベントであるなあと思い,対象とする祭がだんじりだったので読んでみることにしました。
 
野中 亮 2015 都市祭礼における「社会の余白」. 日仏社会学会年報, 26, 105 – 117.

 岸和田のだんじりをみたことのない私が無理にまとめようとしても無駄なので,面白いと思った記述を順に引用していきたいと思います。
 

つまり伝統的な年番システムは,学校や警察,組織力が低下した「死に体」の自治会等の近代的組織では不可能な,幅広い地域住民の連帯・統率を可能にしているのである。また,こうした背景を持つ祭礼組織は,学歴や職業といった社会的資源に乏しい地域住民に対して地域内での居場所を提供し,わずかではあるが地位向上の可能性を広げることもできる。現代社会の機能分化の結果生じた,いわば近代化の網の目に対する「抜け道」的な効力も併せ持っているということである。

 祭に関してはやはり「地域の中での家柄,歴史の長さ」や「祭にだせるお金の多さ」などの既存の社会的資源の豊富な人が活躍できるイメージがありますが,そのようなものが逆転したりできる空間というのは面白いなあと思いました。
 

こうした観点からみれば,往々にしてだんじり祭の場に噴出する「暴力性」も,祭礼組織が一定の権力を有することの証左になると思われる。喧嘩や怪我人の発生等,通常ならば警察その他の所轄官庁が介入するのが当たり前の出来事も,軽度のものであれば,事実上その処理が祭礼組織に一任されているのである。これは,暴力の専有や安全保障の主体が行政に一元化されるという近代的統治枠組みの例外化であり,行政から祭礼組織に統治権が一部委譲されていると見なすこともできる。

 祭の中で起きる「暴力」に着目する研究は多く見かけて,「非日常」や「気分の高揚」などがあるのかなあと漠然と思っていましたが,そのような「暴力が起きてもよい空間・期間」というのを設定でき,かつ暴力をコントロールできる組織であると他から認められているということが,その組織の力を誇示できる側面であるのだなあと。
 

一方,「対内的周流」は,地域内における権力構造に影響を与えた。鳳においては,青年団への所属を決める際に自町への帰属が強制されないということはすでに述べたとおりである。青年団は高校生から30才前後までの年齢層で構成されており,祭に参加する意思のある者は中学卒業の段階で所属する青年団を選択することになる。学校の他,暴走族など非公式組織の友人同士といったピアグループ単位で所属先を選択するケースが多いため,年によっては祭礼町会間で大きな偏りが発生することもある。少子高齢化の進行という背景もあり,曳き手である青年団員の確保は地車曳行上の最重要事項であるから,各町は若手の動向に敏感にならざるを得ない。選択基準となるのは曳行上の個性や組織風土であるため,伝統にこだわらない下地車・「やりまわし」の導入や組織運営の民主化など,改革を迫られるようになったのである。こうした改革の動きは,鳳の祭礼の「岸和田化」を強く押し進める要因ともなった。

 この「自町への帰属が強制されない」というのは面白いシステムのように思えて,それが民主化や改革につながるというのも確かにそうだなあと思いました。
 こうした「地域と曳き手が一対一で対応していない」というのは東京の神輿などと同様と思われて,博多祇園山笠とは違うのだなあと思いました。
時間が無くて全然論文をしっかり読めていないのですが,私の中で「都市祭礼として一番進んでいると思っていた博多祇園山笠」が,そうでもないことを知ることができて相対化と出来た気がしたので,もっと読み込んでその相対化を進めたいと思います。

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