
2024年から2025年にかけて松岡マサヒロの暮らしに起こった出来事について、松岡マサヒロはどのようにやり過ごしていったかを断片的に記録してみる
老化が進んだせいか、世間が共有する「祭りごと」に対して、年々億劫になっている。
普段の通勤で、大阪梅田の東側を歩いているのも遠因だろう。
あそこは毎日が祭りみたいなものなので、それを横目で見続けていると既に腹がいっぱいになってしまい、クリスマスや正月とか、もうエエやんか・・・となってしまう。年末年始くらいゆっくりさせてちょうだいと。
今年は暦の流れで9日間の休みとなっている。
それでも前半3日間は、知人たちとの忘年会や息子たちの来訪などで軽く持っていかれる。ちょうど、折り返し地点になった2025年元旦に一息つけたので、今年の書初めをやってみる。
助産師の妻は普通に仕事へ出かけているため、家事は私の役目だし、明るいうちに姫路城マラソンへのトレーニングも済ませておきたいので、書く時間は最大30分に決め込んでスタートする。
内容は、ここのところに起こった出来事の振り返りだ。
「暮学(ぼがく)」という言葉にたどり着いたこと
2024年の暮らしにおいて、一番印象に残った出来事は「暮学(ぼがく)」と名付けた言葉にたどり着いたことだ。
暮学とは、暮らしを営んでいくにあたり、「暮らしにおいて滲み出ている『外側の事柄』を見つけ、対峙し、そこから学んでいく姿勢」のこと。
地域社会、日本社会、世界情勢、これらはとても複雑かつ重層的に自分の暮らしに影響を与えている。複雑であり、微細なときもあるから意識せずとも暮らしが成り立つときが多いので、つい忘れてしまいがちだ。でも、完全に忘れてしまってはいけない。それを別の言葉で「平和ボケ」と言う。
政治経済環境の変化や災害など、自身の暮らしに大きな変化をもたらす要因に対して、崩れた暮らしのバランスを如何に立て直すか?ということを私たちはもっと普段に意識しておかなければならないと思う。
それは暮らしのバランスが崩れたあとにするのではなく、崩れつつあるのではないか?という普段の目くばせだと思っている。で、崩れつつあるのではないか?という場面は、必ず普段の暮らしのどこかに「にじみ出ている」からだ。それをいち早く見つけるために、私たちは老い朽ち果てるまで学んでいく必要があると考えている。
改めて、言葉の使い方の拙さに凹んだこと
そんな感じ(どんな感じや)で、暮学についてもっと言葉にして伝えようとnoteなどに書いてみようとしてみたものの、そこで直面したのは「言葉」の使い方の拙さだった。平たく申し上げれば、還暦近くにもなって「言葉」が持つ具体的な意味を非常に軽く捉えていたことに気づいたのだ。ようやくだ。
例えば、世論と輿論という言葉の扱い方。
セロンとヨロンと呼ばれているこれらの言葉は、かつて「世論=大衆感情」「輿論=公的意見」と区別されていた。
しかし、現在はこれらをひとまとめにしてヨロンと呼び、マスコミの「世論調査」報道は、区別されていた言葉の意味を恣意的に変化させることが可能な状況になっている・・・という具合だ。
また、ビジネス関連の書籍におけるカタカナ外国語的専門用語の乱発などにも口がナニしてしまう。
色々書いてしまえばタイムオーバー(あ、カタカナや)になるので、この問題は2025年の、まあまあ重要な課題として思索を続けることになるだろう。
オーディオシステムを購入したこと
昨年、いや一昨年から黙々と検討を重ねていた我が家のオーディオシステム導入計画を、先月実行に移すことが出来た。
本はなるべく単行本で読みたいという気持ちと同様に、音は作者が創り上げたものをなるべく忠実に再現された状態で聴きたいという気持ちが叶った。
DENONのアンプとSACDプレーヤーにスピーカーはクリプトンのKX-5(中古品)とポークオーディオのサブウーハーをセットしたもの。レコードプレーヤーは、予め昨年に購入しておいた。
結論を言うと、暮らしの豊かさが20%くらい上がった気分になった。
今まで何百回何千回と聴き続けてきたマイヒーロー細野晴臣師匠のベースギターの音色や旋律が今までに聴いたことのない鮮明さを持って耳に入ってくるのだから。他のアルバムやレコードを聴いても同様の感動が波のように襲ってくる。
ついでに、家に帰ってスマホを触る時間が極端に減ったことで少し健康になった気分にもなった。
言葉と音色について
オーディオを購入したことで得た感動は、暮らしの普段において大切な示唆を与えてくれた気がする。
それは何かというと、今、暮らしの周りにあるモノを、自分は充分に知っている・使いこなせていると思っているモノを改めて「ホンマか?」と見直してみることだ。
先に触れた言葉の問題も含めて、普段なにげなく当たり前のように使っている言葉だって、改めてその意味を突き詰めて考えてみたら、場合によっては使い方を間違っていたり、他の言葉に置き換えた方がよい場合があるように思う。それは言葉の意味を絶対的に決め込む作業ではない。言葉の使い方があやふやであることについて、多くの人が考えるきっかけを作る機会の提供であり、話し合いの場を作る必要性を共有することに気づいた。
もう一つは、改めて歌詞について考える機会を得たことだ。
歌詞というのは、楽曲に乗って耳から入ってくる。
なので、話し言葉として捉えることもできるけど、実際は書き言葉である。
オーディオを購入したことで、歌い手の声の抑揚なども鮮明に聞こえてくるようになったため、その曲の歌詞にも意識が向かうようになった。言葉という「道具」に歌い手の声や楽器の音色が重なることで、言葉はヒトの脳、いや、心の中に明確な像を持って留まるようになる。では、楽器の音色ってどうやねんと考える。
ヒトからすると無口な声としてしか聴くことの出来ない楽器の音色。
音楽には、インストゥルメンタルという分野がある。
言葉じゃないぶん、どうとでも捉えることが出来るため、「そんなん言わんでも分かるやん」とか「ニュアンスで分かれよお前」「空気読まれへんのか」で大概のことを済ますしょうもないオッサンの繁殖という危惧もあるけど、なんとなくの「空気」に支配されるのが好きな日本人にとっては、多数派にはならないけど都合の良い分野だなと思った。
2024年から2025年にかけて私が感じたことは、暮らしにおいて言葉の使い方にもっと気を配らなければという実感と合わせて、使い方によっては言葉に羽を授け、使い方によっては無口な声として私たちの暮らしに豊穣さを提供する楽器の音色に対して強い興味をいだいたことだった。
それでもって、おやぢは何をするかと言えば

で、年末年始にかけて、暮学のオッサン松岡マサヒロは、なるべくシステムのアップデートとか世間の動向に振り回されることのない孤立した環境で楽曲を愉しみたく、指ドラムとサンプラー、そして16チャンネルのマルチレコーダーを購入して書斎の一部をスタジオ化した。
仕事も励むしマラソンも頑張る。
本も読むし何かしら文章も書く。
で、そこに音色を愉しむ行為を加えて、人生の暮れ時をひっそりと過ごしていきたいと願っております。
ひっそりと願っていても、なぜか災いは、大なり小なり何処からやってくるものでして。
今まで暮らし続けてきた経験から、そんなことは分かり切っているので、そのことを恐れながら最適解を探すようなことはせず、何かしら起こったときに老いながらでもしっかりと対峙できるよう心身を手入れしておくことを優先して過ごしていきたいと存じます。
どうぞ皆さま、こんなヘンコなジジイですけど、今年も変わらず遊んでやってください。
よろしくお願い申し上げます。