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レッテルを貼るという本能と対峙する

暮学とは学問の名前ではない。姿勢の名前である。
暮らしを営んでいくにあたり、「暮らしにおいて滲み出ている『外側の事柄』を見つけ、対峙し、そこから学んでいく姿勢」のことである。
暮らしを維持工夫・豊穣させ、次の世代へ伝えていく姿勢を意味する。

https://note.com/matsuokasan/n/nb38258418826

前回は、自分が子供時代に記憶している読書体験を通じて感じた、暮学に臨む注意点のひとつについて考察してみた。
概要をオサライしてみる。

本・読書から得る体験や知識は、自分自身を培ってきたものである。言い換えれば、暮らしの中で現れる「外側の事柄」と対峙する際に使う「道具」のひとつであろう。
ただ、その「道具」には必ず何らかの「歴史」が内包されていることを意識しておかなければならない。
そして同時に「歴史」は、容易に「物語」と結びつくことも忘れてはならない。
なぜなら、「歴史」にまとわりついている「物語」は、自分の目前に現れた「外側の事柄」と対峙するときに、物語の「筋」となって「歴史」を「歴史」として捉える妨げになるからだ。
暮らしにおいて「外側の事柄」と対峙することは歴史の一部であって物語ではない。もしそれが物語になるなら、それは「外側の事柄」と対峙して折り合いがついた後の出来事である。対峙したときの様々な場面を、ある特定の視座から整理整頓して出来上がるものである。

といったところか・・・。

で、今回は、「歴史」を「物語」として捉えようとするヒトが持つ生き物としての癖(クセ)を、別の言葉を使って考えてみる。
それは、ヒトが「レッテルを貼る」という行為についてである。

自分自身が他者にレッテルを貼る行為。
他者が張ったレッテルを鵜吞みにする行為。
これらの行為は、自身が普段の暮らしを営んでいくときに、充分すぎるくらいの用心を持って臨んだ方が良い。
なぜなら、貼ったレッテルや鵜呑みにしたレッテルは、必ずしも今この時の他者・対象をあらわしているとは限らないからである。
「士別れて三日、即ち更に刮目(かつもく)して相待すべし」という、三国志談義で出てくる呂蒙の言葉とおりである。

では、どのように用心すればいいのだろう?
私も完璧な答えを持っているわけではない。
しかし、用心の勘所は知っている。
それは、レッテルを貼られている相手の声を聴く、今を観察すること。
つまり、普段以上に馬力を上げて相手と相対することだ。

自分が幼かったころの些細なエピソードを紹介する。

子供のときの話だ。
私は、仕事から帰ってくる両親を待つ間にテレビを観ていた。
その内容はバラエティ番組で、いろんな国から日本に留学している大学生たちが出演していた。そして、彼らが感じた日本人の「ここがおかしいよ」という点を、自身の体験に基づいて各々語るというものだった。
その中で、ある黒人のお兄ちゃんが熱く語っていたことを今でも強烈に覚えている。

「日本人は、ボクが黒人というだけで運動神経がメチャクチャ良いとか、歌が上手いとか勝手に思い込んでいる。でも、ボクは運動苦手だし歌もヘタクソ。ボクみたいな人は結構いるんだ。黒人だからといって、勝手に決めつけないでほしいよ。」

そりゃそうだわ・・・
強烈な納得感と言ったらよいものなのか、そんなものだ。
実は、当時の私も勝手に思い込んでいたから。
この体験を子供のときに出来たことは、今の自分に強い影響を与えている。

もう一つは20代前半に観た映画のことである。
それは「レナードの朝」という作品である。

あらすじは、上記リンク先を参照していただきたい。
私が記憶に残った点は、ロビン・ウィリアムズ演ずる医師が、眠ったままのようにみえる患者を、極度の痙攣(けいれん)が眠ったままのように見せているのではないかという見立てをするところだった。
つまり、タイヤのホイールが高速回転して止まっているように見えるのと同じ状態ではないか、と見立てたのである。
このシーンを当時映画館で観た時には若者心で「へぇ〜」と唸ったのを今でも鮮明に覚えている。

で、作品の中で医師は、これを抑える目的でパーキンソン病の治療薬を患者に投与した。結果、程なくして患者は「目覚めた」。

映画のストーリーは、ここでハッピーな展開で終わることなく続いていって、別の意味で唸る結果になるのだけれど、ネタバレになるのでここでは触れない。
医師が患者と、ああだこうだと向き合う際に、ともすれば見逃してしまう些細な変化から患者との別の接し方を見出していく姿に尊敬の念を抱いたことを伝えたいだけなので。

ヒトは、何かしら別のヒトやモノなどを脳ミソの中で考えるとき、その対象に何等かのレッテルを貼ったうえで捉える癖があるような気がする。
言い換えれば、目前にあるヒトやモノゴトが「動的平衡」している本来の姿を、一時的に固定しなければ捉えることが出来ないのではないかと考えている。
実際は、そうではないかも知れない。
ただ、考える量が多くなったり、急いで判断しなければならない場面においては、その傾向が強まることはあると思っている。特に自分自身においては。

暮学をつらぬく際、レッテルを貼る行為を否定するのではなく、そのレッテルは今、どれほど変化しているのかという懐疑を持ち続ける姿勢が大切なのを主張する。

冒頭の写真は、ある夜の神戸ハーバーランドの風景。
普段赤いはずの神戸のランドマークであるポートタワーが青く見えている。
「何かの記念で趣向を凝らしているのかな?コレはコレで綺麗だね。」
と感じる人は沢山いらっしゃると思う。

しかし、
「何コレ、神戸市電気代払ろてないんとちゃうか?」
と、斜めに見立てる癖(くせ)も必要なのである。

違うか…、そうか…。

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