
補充法は身近なところに
この記事は、松浦年男先生が主催しているアドベントカレンダー「言語学な人々2024」の記事として書いたものです。
1. 規則の例外、補充法
大学1年生になったばかりのころ、「好きなアーティストの曲名(注1)で使われてるスペイン語、勉強したいかも!」と思いノリでスペイン語を第二外国語に選んだ私は面食らっていました。
「なんで ir「行く」の活用形で、元の形と全然違う voy とか fui とかが出てくるの!!」
大学で第二外国語を学習しはじめたときに同じような経験をした方は、けっこういるのではないかと思います。
多くの場合、動詞の活用形は規則的に作ることができます。例えば、英語の過去形は、現在形に過去を表す形式-(e)d をつけることで作ることができます。一方、現在形に過去を表す形式をつけることで過去形が作れないものもあります。go「行く」の過去形は、go に -ed をつけた形式(goed)ではなく went です。
【規則的】
ski「スキーする」→ skied「スキーした」
walk「歩く」→ walked「歩いた」
【不規則】
go 「行く」→ went (× goed)「行った」
(英語には、このほかにも good, better, best のように不規則な比較級、最上級もありますね。)
スペイン語も同様に、規則的に活用形を作ることができます(覚えないといけない規則は多いわけですが…)。しかし、一部の動詞はこの規則を適用させることができず、似ていない形式がひょこっと現れます。
【規則的】
bailar → bailo「(私は)踊る」
→ bailé「(私は)踊った」
comer → como「(私は)食べる」
→ comí「(私は)食べた」
vivir → vivo「(私は)住む」
→ viví「(私は)住んだ」 など
【不規則】
ir → voy「(私は)行く」
→ fui「(私は)行った」など
このような現象を、言語学では「補充法」(suppletion)と呼びます。
「補充法」は、昔は類義語の関係にあった異なる語彙 A, B が、時間を経て変化し、同じ語彙の活用形としてふるまうようになることによって生じます。英語の「行く」について見てみましょう。went は、もともと wendan「曲げる」の活用形の一部でしたが、徐々に「行く」という意味をもつようになり、その後 go の活用に組み込まれ go の過去形としてふるまうようになりました(Lass 1992: 142-143, Wełna 2001など)。このような変化の結果、補充法という不規則性は生じるのです。
2. 補充法は身近なところに
月日が流れ、私は大学院に入って福岡県柳川方言の研究をはじめました。
柳川方言が話されている福岡県柳川市は、福岡市から電車で約1時間ほどのところにある、堀割やうなぎ、北原白秋で有名な観光地です。
私の出身地でもあります。
(写真を載せているのは、この記事を読んでくださった方の柳川観光欲をかきたてるため。福岡市内から西鉄電車で行けます!特急が止まります!ぜひ観光に来てください!)



柳川方言を調査していた私は、話者の方と話していてあることに気づきました。それは、会話の中で イタッテ、イタテという形式がよく出てくるということです。例えば、以下のように出てきます。
umisannatton itatte mukka 「海へなどイタッテみよっか」
turete itatte morototta hoikuensan 「連れてイタッテもらっていた。保育園へ」
ayatii tomodatto tunnoote itate 「あれ(お参り)に友達と連れ立ってイタテ」
itate naranzo. 「イタテはいけないよ。」
上にあげた四つの例からは、この itatte, itate のような形式が移動を表すこと、だいたい「行く」のような意味をもつことが推測できるかと思います。この itatte, itate のような形式は、標準語の「至る」に対応する動詞であると考えられています(愛宕 1983)。
以下では、「行く」に対応する形式を ik、「至る」に対応する形式を itar と呼んでいきます。この二つの違いを、活用の観点、意味の観点から見てみましょう。
まず活用について、ik にはいろいろな要素が後続することができます。一方、itar のほうは、te などごく限られた要素しか後続することができません。規則的に考えるとありそうな形式(例:itatta)を話者の方にお聞きしても「それはどういう意味のことば?」という反応が返ってきます。(上にあげた例文も te をとったものばかりですね。)
【ik】
言える形式:
itte「行って」,itta「行った」,iku「行く」,ikan「行かない」,ikayan「行かないといけない」,ike「行け」
【itar】
言える形式:
itatte「行って」
言えない形式:
itatta「行った」,itaru「行く」,itaran「行かない」,itarayan「行かないといけない」,itare「行け」
次に意味について、両者には意味の違いは見つかっていません。以下に示すように、片方が使えるときには、もう片方も使うことができます。
tosyokansan {itte/itatte} 「図書館に行って」
oosakakara {itte/itatte} 「大阪から行って」
basukara {itte/itatte}「バスで(直訳:バスから)行って」
yomeni {itte/itatte}「お嫁に行って」
siraseno {itte/itatte}「知らせが行って」
など…
ここまで見てきたように、itar に由来する形式は想定できる活用形の多くをもちません。唯一もつ itatte の形式は、「行って」という意味で、itte と意味の違いなく使われています。
つまり、英語の go, went やスペイン語の ir, voy, fui と同様の補充法が生じているのです(注2)。私にとってとても身近な柳川方言にも、このような補充法が隠れていました。
「行く」がテ形をとるときに itatte, itate のような形式になるという方言は、柳川だけでなく九州に広く見られるようです。以下の地図は,方言文法全国地図の第5集第221〜239図において itatte, itate のような形式が報告された地域をまとめたものです(注 3)。

これらの方言でも、柳川方言と同様に、「行く」がタ形をとるときに itatta, itata のような形式にはならないようです。方言文法全国地図の第2集第95図「行った」では、itatta, itata のような形式は記述されていません。
3. 類義語と補充法のはざま
ここまで、補充法という概念を紹介した上で、類義語であったものが同じ語の活用形としてふるまうようになって補充法ができること、柳川方言の「行く」に補充法が見られるということを見てきました。柳川方言以外にも同様の補充法が生じている(っぽい)方言があり、例えば佐賀県北山方言(小野 1969: 386-387)、佐賀県南部方言(木下 1996: 22)、鹿児島県串木野方言(黒木 2024)がそうです。
一方で、同じ九州でも、状況が異なりそうな方言もあります。
木部(2014)は、『鹿児島ふるさとの昔話』という鹿児島方言で書かれた昔話資料をもとに、鹿児島諸方言において、itte と itate は異なる意味をもっていると主張しています。具体的には、この本に含まれる itte,itate の例をもとに、それぞれが以下のような意味をもつと主張しています。
itte:単にある場所へ移動すること(木部2014: 74)
itate:ある目的のためにある場所に移動し、到着すること(木部2014: 76)
補充法は、類義語だったものが同じ動詞の活用形としてふるまうようになるという変化です。変化は連続的なものなので、類義語の性質を色濃く残しているものから、類義語の性質を失ったものまで様々な段階があることが考えられます。柳川と鹿児島の状況の違いは、柳川方言はもう意味の違いを失って「補充法」に近づいているものの、鹿児島はまだ意味の違いをとどめているもの、と見ることができるかもしれません。
ほかの九州方言では「意味の違い」が(どのくらい)見られるのか、この補充法がどのように発生したかなど、知りたいことはつきないのでした。
おわり
この記事は,松岡葵(2024)「九州方言における「行く」を表す動詞に見られる不完全な補充法: 福岡県柳川市方言を中心に」という発表をもとにしています。ご興味のある方は,ポスター,予稿集をご覧ください。九州方言の「行く」に補充法が生じているかを調べるための調査票は,zenodoに公開中です。
注
1. ポルノグラフィティの「ジョバイロ」(Yo bailo.「私は踊る」)は名曲
2. 英語の go, went やスペイン語のir, voyと異なるのは,itte という形式とita(t)teという形式の両方が使われている,ということです。Wełna(2001)によると,英語の go, went についても,go のかつての過去形(eode, これも補充形ですね…)と went に相当する形式の両方が数世紀の間使われていたようです。
3. 『方言文法全国地図』では拾いきれていなかったようですが、このほかにも宮崎県西米良村方言(倉田1973: 810)など多くの九州方言でこの形式は報告されています。
参照文献
愛宕八郎康隆(1983)「長崎方言の「イタチ コイ。」などの表現」『国語と教育』8: 33-36.
Haspelmath, Martin and Andrea Sims (2010) Understanding Morphology. Abingdon: Routledge.
木部暢子(2014)「鹿児島方言の「イッ」と「イタッ」-テキストを使った方言研究の実践-」『西日本国語国文学』1: 72-85.
木下文夫(1996)『九州語逆引き辞典 付文法』佐賀市: 九州方言研究所.
倉田一郎(1973)「米良の方言」西米良村史編さん委員会(編)『西米良村史』804-825. 西米良村: 西米良村.
黒木邦彦(2024)「CROJADS」 [2024年11月アクセス].
Lass, Roger (1992) Phonology and morphology. In: Norman Blake (ed.) The Cambridge history of the English language. Vol. 2: 23-155. Cambridge: Cambridge University Press.
Meĺčuk, Igor (1994) Suppletion: toward a logical analysis of the concept. Studies in Language 18(2): 339-410.
小野志真男(1969)「佐賀県北山方言」九州方言学会(編)『九州方言の基礎的研究』351-414. 東京: 風間書房.
Wełna, Jerzy (2001) Suppletion for suppletion, or the replacement of eode by went in English. Studia Anglica Posnaniensia 36: 95-110.