読者のかたからのご論評におこたえする③——「お金の裏に借金」という制度が合わなくなった時代
前々回の投稿から、拙著の読者のかたからいただいたご論評におこたえしています。
詳しい経緯は前々回の投稿をご覧ください。近況や、最近公開した仕事の紹介もしていますので、未読のかたは、ぜひお目通しください。
おこたえするご疑問全体は、次のとおりです。おこたえをすでに投稿ずみのものにはリンクをつけていますので、ご関心にあわせて確認してください。
今回は、上記の③におこたえします。
借金まみれを奨励する論法か?
ご論評
おこたえ
お金の裏に「借金」という体裁をとる現実の制度がおかしい
②で述べたとおり、今ある現実の仕組みが、お金というものの裏に、必ず「借金」がある仕組みになっているのです。
問題は、消費者の借金はだいたいは生産力を拡大するためになされるわけではないので、消費者の借金でお金を作ることに頼ると、どこかで返済が行き詰まって経済が潰れてしまう。企業の借金も、昨今では設備投資の機会が乏しいので、投機にまわってしまって、やっぱりどこかで潰れてしまう。そうすると最終的には通貨を作って絶対返済できる国が「借金」することでお金を作るほかない。それがいやなら、世の中にお金の裏付けを持った需要が足りなくて、失業者があふれてしまう。こういう時代になってしまっているということです。
だから、何か返済が義務付けられているような「借金」みたいな体裁をとって国がお金を出さなければならない今の仕組み自体がおかしいわけです。現実には国債の借り換えを繰り返すことで、事実上「借金」ではないようにしているわけですが、そんなことをするくらいなら、人々に誤解がないよう、国債という形をとらずに国がお金を出せる仕組みにしたほうがいいわけです。
国債が存在している経済学的意義は金利の調節機能
民間銀行が持った国債の一部は日銀が買って準備預金(民間銀行が日銀に預けて銀行どうしや政府とのお金のやり取りに使っている預金)に換えています。ということは、世の中に出回っているお金である銀行預金のうち、政府支出によって出された分に着目してみたら、そのお金のバックとして民間銀行が持っている資産という点で、国債も準備預金も同類です。
では何が違うかというと、利子がつくかどうかの違いでしかありません。そもそも現代の国債は紙でもなくて、電子データですので、なおさらそうです。
日銀は国債を民間銀行との間で売り買いして、国債と準備預金の構成割合を変えることで、金利を操作しています。結局国債というものが存在する意味は、金利調節機能のためということになります。
(その他の機能と言えば、ブルジョワジーに公費から不労所得を給付する機能か、年金や保険を支える機能ですが、前者は本来なくすべきだし、後者は本来国会のコントロールが効く公費で手当すべきものと思います。)
準備預金を直接振り込むやり方に変えたほうがいい
しかし、金利調節したいならば、準備預金に直接利子をつけて、その利率をコントロールしたほうが直接的で確実です。実際、現在の日銀の金融緩和の出口では、国債を売るより前にそれが行われると見られています。
それで金利調節ができるならば、いっそ国債という仕組みはやめて、民間銀行に準備預金を振り込むことで、政府支出先に預金を作るやり方に変えたほうがいいと思います。
準備預金は返済の義務がある「借金」でないことに誤解の余地はありません。あえて言えば、民間の銀行が日銀に「日銀券に換えろ」と言ったら、日銀は日銀券を払わなければならないという意味では、たしかに準備預金は日銀の「借金」ですけど、日銀は日銀券をいくらでもつくれますし、今時わざわざそんな不便なことを要求する銀行はないでしょう。しかも日銀券こそ、形の上では日銀のバランスシートの右側にあるという意味で日銀の債務かもしれませんが、いかなる意味でも返済の義務がありません。
このようにすれば、「借金まみれを奨励するようになってしまう」というような誤解は生じないでしょう。
もちろん、これには法律を大きく変える必要がありますので、すぐできることではありません。今ある制度を前提してこれに近づけるには、民間銀行の持っている国債を日銀が買い取って、将来インフレを抑えるために使う分以外の国債は、政府通貨か無利子永久国債に転換してしまえばいいでしょう。日銀が国債の借り換えを繰り返す現状と、本質的に何も違いがあるわけでないのですが、経済学的な本質が誰にも誤解の余地なくはっきりする点で望ましいわけです。
民間設備投資が旺盛な時代は「借りた金を返す」財政運営がうまく機能した
民間企業への貸付でなされる信用創造は、景気を不安定化させる性質を持っています。不況の時は銀行は貸付を絞って取り立てに精を出すので、設備投資とそこから波及する支出で世の中に出回るはずのお金が絞られてしまい、ますます不況を促進する。逆に好況の時は貸付を拡大させて、世の中に出回るお金を増やして、ますます好況を促進させる。こういうメカニズムが働くからです。それゆえ、政府はそれを相殺するようにお金を出したり吸収したりしないといけません。
昔の設備投資が旺盛な時代は、いったん不況になっても、やがてまた設備投資が復活し、貸付が増えて景気がよくなって、また設備投資が増えてと、民間信用創造の拡大のフィードバックがグルグル働いてすぐに景気加熱になりました。このような時代には、不況のときに財政赤字を出して不況対策の政府支出をすることで生まれた政府債務を、好況になって増えた税収で返済すれば、ちょうどうまく景気の加熱を冷やしてインフレを抑えて景気を安定化させる機能を持っていたわけです。
統計システムを整備してインフレの状況を把握して、シミュレーション等々をしなくても、「借りた金を返す」感覚でやっていれば、うまいこと景気変動が調整されるわけです。
このような時代には、歴史的経緯から引き継いだ観念のまま、国債とは国がお金を返さなければならない「借金」であるとして制度を構成していることに、合理性があったのだと言えます。マルクス的に言えば、上部構造が経済的土台に合致していたということです。
ところが今は時代が変わってしまいました。経済が成熟して設備投資が興らなくなりました。特に日本では、人口減少時代に入り、製品市場という意味でも労働力市場という意味でも、生産設備を拡大する必要がなくなっています。そうすると、民間企業の設備投資のための貸付で世の中に出されるお金が慢性的に少なくなるので、「借りた金を返す」感覚で政府支出や増減税を行っていては経済は慢性的に停滞し、顕在的潜在的な失業者がいつまでたっても解消されず、賃金も上がらないままということになってしまいます。
マルクス的に言うと、上部構造が経済的土台と矛盾し、物質的生産諸力の桎梏となっている状態だと言えます。
日本はじめ先進諸国が大量の政府債務を抱えるに至ったことは、この経済的現実への自然発生的な、資本主義的な歪曲された形態での対応でした。この必然法則を洞察し、経済的現実に意識的に適応する上部構造を作ることが私たちの課題となっていると言えます。
新自由主義者の財政均衡論は理屈は通っているが脱成長論者の財政均衡論は?
ちなみに、新自由主義のバックになっている新古典派経済学が財政均衡論を唱えるのは、別にへんなことではありません。彼らは、規制緩和などの構造改革をすれば労働生産性がどんどんと上がり、完全雇用になっても設備投資を増やして経済成長し続けることができると思っているからです。これを前提すれば、十分設備投資が興ってくるのだから、財政出動で余計な総需要拡大をもたらし、インフレがひどくならないように、財政規律に努めることは整合的な理屈です。
おかしなのは、新古典派経済学と違って、長い目で見てもう生産設備が成長することはないし、それが望ましいことでもないと思っているはずの脱成長論の人たちが、なぜか依然財政均衡論にとらわれているらしいことです。ここから導かれるのは大量の失業が出て、個人事業者たちが破産しつづける経済停滞でしかないのですけれど。