【短編】ワタネズミ
ほかのすべての生物と同じように、ワタネズミもまた、熾烈な生存競争をくぐり抜けてこの世に存在する。それはつまり、生命と呼ばれるものがみな暴力に呪われている証だ。いかにも争いと無縁そうなこの生物でさえそうなのだから、有史以来の人間が殺戮をやめられないのもしかたない話かもしれない。
とは言いつつ、僕はまだワタネズミたちの争いを目にしたことがない。周囲の状況を観察し、恐らくここで殺し合いが繰り広げられたのだろうと予感させられるばかりである。仕事で不在にしていたとき、またはぐっすりと眠り込んでいた真夜中の間に、たしかにここで殺し合いが起こり、そして一匹のワタネズミが勝ち残ったのだ、と。
人間である僕たちの感覚からすれば、ワタネズミはいつも忘れた頃に(季節や周期も関係なく)、いつの間にか部屋の片隅にひっそりと現れている。黒ゴマに似た両目を忙しなく動かし、途方に暮れたような顔つきで、巨人に等しい僕たちを見上げている。短い二本脚で立ってはいるが、その佇まいはとても頼りない。腹を突くと、あっけなく尻餅をつく。そして、ほんの少しだけ目に哀しみを宿してから、本棚の裏やベッドの下に逃げ込んでしまう。そのまま二度と姿を見せない場合もあるし、二、三日後にひょっこりと現れる場合もある。どうやら個体によって性格が微妙に違うらしい。
ワタネズミとは僕の祖父が付けた名で、学術論文に載るような正式名称では当然ない。違う家ではまた別の名で呼ばれているはずだ。ネズミというだけあって、顔つきなど、たしかに鼠に似ていないこともないが、知れば知るほど鼠とは異なった生物である。
ワタネズミの最大の特徴といえば、躰を覆う綿がまず挙がる。
なにを好き好んでそんなことをするのかわからないが、彼らは常に灰色の綿で全身を包んでいる。綿の正体は埃だ。部屋の隅や戸棚の後ろに溜まっている埃をせっせと集め、もこもこに仕上げ、己をすっぽり収めてしまう。頭の先まで被ってしまうので、彼らの顔を正面から覗くと、シュラフで眠る登山家のようにも見える。僕が知る限り、尻尾や耳はない。ごく短いもの、小さいものが器官として備わっているのだろうが、どちらにしても綿に隠されていて、見ることは叶わない。
それから、先にも少し述べた通り、ワタネズミは二本脚で移動をする。綿の下から細い脚を突き出し、床を必死に駆けていく。はっきり言って、鈍足だ。転倒も多い。自然界ではまずやっていけないだろう。だから、人家を棲息地にしているのかもしれない。
両手は、必要になれば綿の奥から現れる。これがまた、見ていて可哀想なほど短く、寒々しい代物である。こんな貧相な手でどうやって綿を仕上げるのか、僕には見当もつかない。ピンク色の地肌で、短い爪が生えた四本指。これは鼠の前肢とほぼ同じ形だから、やはり先祖は鼠と共通しているのだろう。のっぺりとした鼻も、黒ゴマの丸い目も、そう考えてみればハムスターに近しいものがある。ハムスターと違う点は、そのパーツのひとつひとつがじつに表情豊かに動くことである。まるで人間のそれのように。
なぜわざわざここでワタネズミの特徴を長々説明したかというと、それはワタネズミを見たことがないという人が、世間に存外多いからである。
僕が少年期を過ごした田舎の祖父の家ではしょっちゅう見かけたし、当地の友人の何人かも彼らの存在を認知していたのだが、都会で暮らすようになってからは、誰に話題を振ってもほとんど通じなかった。知人の家へお邪魔したときにも、慌てて玄関から逃げていくワタネズミを目にしたのに、当の家主がまったく存在を感知していないケースもあったほどだ。
第二の理由として、ワタネズミの呼び名が土地や家で違っているという事情がある。ワタネズミという単語が通じなくても、特徴を挙げるうちに「あぁ、あれね」と思い当たる人がたまにいるのだ。彼らは、ホコリカブリ、ワタワタ、ポックルなどと呼んでいたらしい。驚いたことに、ドイツからの留学生もワタネズミを知っており、彼の生家ではコボルトマオスと呼ばれていたそうだ。コボルトとは、ドイツの古い妖精の名だ。たかが鼠の親戚がたいした出世である。
「でも、わたしは見たことがないから、たしかに妖精かも。見える人には見える、みたいな」
理生さんは前者、つまり、これまで一度もワタネズミを見たことがない人だった。
「そんな大層なものじゃないよ。鼠の親戚かなんかじゃないかな」
「でも、図鑑にも載っていないんでしょう? それなのに、検索したらある程度の件数がヒットするし……、妖精じゃないとしても、座敷わらしみたいな、都市伝説っぽい感じがするけど」
「埃が好きみたいだから、綺麗な家には現れないのかもね」
「つまり、橋本くんのお家は不潔ってこと?」
「あ、いや……、口が滑った。忘れてください」
理生さんは国立大学の理学部に在籍する女性で、その頃の僕のバイト仲間であり、恋人でもあった。年齢は僕よりひとつ上。頭の回転が早く、それでいて他人の機微にとても敏い。仕事のほうも辣腕で、社員を相手に堂々と意見を通せる数少ない存在だ。アルバイト仲間の僕からすると、彼女が活躍すればするほど肩身の狭い思いをさせられたのだが、当人には厭味な部分がまったくないので、交際を始める前から僕は好感を抱いていた。
そのときはワタネズミの話題はそれきりだったが、三か月ほど経ってから、僕は理生さんを自宅に招く機会に恵まれた。招くというより、押しかけられたというほうが正確かもしれない。
その日、締め切りより一月も早く理生さんが卒業論文を完成させたので、僕は彼女の慰労会という名目で、思い切ってイタリアンの店を予約した。都心のビルの中にある、『ゴッド・ファーザー』とかに出てきそうな高級店だ。そんな店で食事をするのは初めてだったので、とても緊張したのを憶えている。久しく袖を通していなかったスーツも新鮮な着心地だった。
「べつに、ファミレスとかでよかったのに」
「いやぁ、こういうのはちゃんとしたお店で労わないと……」
「ありがとう。橋本くんのそういうとこ、好きだよ」キャンドルの向こうで、理生さんは嬉しそうに微笑んだ。「お会計はちゃんと折半するからね」
慣れない食事を進めながら、僕たちはいろいろな話をした。たいした内容ではない。バイト先の出来事、家族の近況、共通の知り合いのエピソード、将来の展望、現状に対するささやかな愚痴、そんなところだ。いつもと代わり映えのない話題。ワインを飲む理生さんは終始上機嫌で、彼女にしては珍しく饒舌だった。
「それで、ワタネズミくんはまだ家にいるの?」
彼女がそれを訊いたのは、二本目のワインボトルが空になり、抽象画みたいなデザートが運ばれてきたときだ。
「うん、いると思うよ。昨日の夜も見かけたし」僕は答えた。「いまいるやつは、もう長いね。半年くらい棲んでいるんじゃないかな」
当時、僕の部屋にいたワタネズミは、かなり変わったやつだった。
まず、半年も生きている時点で、ワタネズミとしてはかなりのご長寿といえる。もちろん、僕は彼らの本来の寿命を知らないので、それが本当に長命なのかどうかあやふやなのだが、経験則から言わせてもらうと、同じワタネズミが半年にわたって現れるのは非常に稀だった。だいたいは一、二か月で別の個体に取って代わられる。同じ家に二匹以上現れることはない。恐らく、縄張りのようなルールがあるのだろう。
さて、その長生きワタネズミだが、こいつは寿命だけでなく、性格も少し特殊な手合いだった。ワタネズミは基本的に臆病な性質の生物で、この長生きじいさん(ばあさんかもしれないけれど)も例外ではなかったものの、とても人懐こいというか、他と比べて人間に対する警戒心が際立って弱い傾向があった。
たとえば、僕がクッキーを食べていると、彼は必ずと言っていいほどテーブルの上に現れ、おこぼれを期待するように僕を見上げる。そのときの表情といったら、鼠よりも犬に近い。腹を突くと哀しげに去っていくが、クッキーの破片を与えてやると、嬉しそうにその場に座り込んでむしゃむしゃやり始める。巣に持ち帰ったり、床に落ちたものを拾い食いしたりするような真似はしない。そう、その習性こそが、普通の鼠と一線を画す違いだったかもしれない。彼らには間違いなく、知性と呼ぶべきものが備わっていた。
「写真とか、動画はないの?」
「ないね。あいつら、見た目の割に頭が良いから。カメラを向けようとすると、すぐに逃げていくんだ。カラスと同じだね」
「なるほど、家に行かないと実物を見られないわけか」彼女はアイスをひと口食べると、細い顎を上げて僕を見据えた。「そういう手段で女の子を家に連れ込むんだね、きみは」
「え?」僕は瞬きして見返す。
すぐには意味がわからなかったが、彼女の冷たい眼差しを受けているうち、遅れて理解できた。
「あ、いや、そんなつもりはないよ。誤解を与えたのなら謝る」
「嘘、嘘」彼女は眉間のしわを解いて噴き出した。「ちょっとカマかけただけ。ごめんね」
からかわれたらしい。僕は冴えない気分でコーヒーを飲み干し、ウェイターが持ってきた伝票の金額に激しく動揺した。
店を出ると、夜風の冷たさが秋から冬に切り替わっていた。駅前広場では、クリスマスシーズンに向けてイルミネーションの準備が進んでいる。隣の理生さんは、ビルに切り取られた夜空を見上げながら、思いきり伸びをしていた。頬にアルコールの赤みがほんのりと差しているのが印象的だった。
「ずいぶん飲んだね」僕は言った。「あの、どうだったかな、お店」
「うん、美味しかったよ。また行こうね」
「そ、そうだね……、ちょっと先のことになりそうだけど」
彼女は声をあげて笑い、僕の右腕に自分の腕を絡めた。
「ねぇ、いまから見に行ってもいい?」
「え、なにを?」
「だから、ワタネズミ」気のせいか、理生さんの顔の赤みがいっそう濃くなったように見えた。「橋本くんの部屋、行こうよ」
理生さんを自宅に迎えたのは、それが初めてのことである。というよりも、女性を家に招くこと自体、僕にとっては初の試みだった。もちろん、いつかはそうなるだろうなとぼんやり予感していたわけだが、まさか今日がその日になるなんて、食事をしていたときでさえ考えていなかった。いま振り返ると、意外に純真なやつだったのだなと自分で思う。
電車を乗り継ぎ、アパートに着いた頃には夜の十時を回っていた。「想像してたより綺麗だよ」というのが理生さんの評価だったが、これはたぶんお世辞だろう。僕は散らかったワンルームを大急ぎで片づけ、彼女がくつろぐためのスペースを確保した。
「じゃあ、とりあえず、飲み直そっか」途中のコンビニで買い込んだハイボール缶を持って、理生さんは言った。「ワタネズミくんが出てくるまで、お酒飲みながら待っていよう」
しかし、その夜に限ってワタネズミはなかなか現れなかった。そもそも毎晩現れるようなものでもないのだが、ギャラリーを連れてきてしまった手前、出てきてくれないとこちらとしてもきまりが悪い。途中から僕は落ち着かなくなって、棚の後ろを覗いたり、押入れの戸を開けてみたり、とにかく埃が溜まっていそうなところを探してみた。だが、ワタネズミの姿どころか実在の形跡すら見当たらなかった。
理生さんは何度か不満を漏らしたが、日付を越える頃にはすっかり陽気になっていて、額に汗する僕を愉快そうに眺めていた。
「どう? 見つかりそう?」
「いや、今日はダメかも……、隠れちゃったのかもしれない」
「あ、わたしが来たから?」
「さぁ……、まぁ、もともと臆病なやつだから」
「ねぇ、もういいよ。ごめんね、わがままにつき合わせちゃって」
「でも、せっかく来てくれたんだし……」
「いいの、そんなの……、わたしだって、本当はそんなもの見たくて来たんじゃないんだから」彼女は自分の隣に座布団を並べてぽんぽんと叩いた。「ね、座って、橋本くん」
そこまで正面切って言われると、応じないわけにもいかない。実際のところ、僕だって本気でワタネズミを探していたわけではなかった。ただの時間稼ぎ、心の準備というか、とにかく助走のような時間が欲しかっただけである。
僕たちはぎこちなくキスを交わし、そのまま黙り合って、しばらく時計の秒針の音を聞いていた。絡めた指から伝わる感触で、僕だけでなく、理生さんも緊張していることがわかった。
「あ、そっか」思い出したように、あるいは沈黙に耐え切れなくなったように、理生さんが顔を離した。「あの、シャワー、浴びたほうがいいよね」
「えっと、どうだろうね」僕は曖昧に返事した。「そういえば、映画とかでそういうシーンがあるね」
「シャワー、借りてもいい?」
「うん、もちろん……」
「じゃあ、わたし、先に浴びてくるから」
彼女は妙に姿勢の良い歩き方でバスルームに入って行った。
理生さんがいなくなったことで僕は少しだけ人心地がつき、残っていたハイボール缶の中身を飲み干した。これからどうすべきかを考える。とりあえずテレビを点けようかとも思ったが、いまこの部屋に満ちる稀少な空気をぶち壊してしまう気がして、やっぱりやめておいた。
そうだ、まずは布団を敷かなくては……。
そう思い立って腰を上げたとき、押入れのわずかに開いた戸の前に、ワタネズミがいることに僕は気づいた。彼はいつもの心許ない佇み方で、綿のフードの中から憐みを誘う眼差しでこちらを見上げていた。
「おいおい」僕は思わず声に出した。「いまさら出てくるなよ」
ワタネズミは鼻先をかすかに震わせ、落ち着かなそうに辺りを見回してから、再び僕を見上げた。
理生さんを呼ぶべきか、僕は一瞬だけ迷ったが、バスルームからはすでにお湯の流れる音が響いていて、どう声をかけていいのかわからなかった。それに、せっかく訪れたこの得難い夜を、こんなちっぽけな鼠もどきに台無しにされたくもなかった。そう、どちらかといえば、邪魔されたくないという気持ちのほうが強かったように思う。いままでこの同居人に特別な親しみを抱いたことはないが、邪魔だと感じたこともなぜだかなかった。だから、そんなふうに邪慳に思った自分が、少しだけ別の人間に変わってしまったように感じられ、僕はわずかに困惑してしまった。
一分ほど迷ったものの、結局、僕は腹立たしいような、情けないような気分で人差し指を伸ばし、ワタネズミの腹を突いた。ワタネズミはこてんと転倒し、苦労して立ち上がったあと、悲しそうに押入れの戸の隙間に逃げていった。
僕は後味の悪さを噛みしめながらそれを見届けたが、すぐに布団のことを思い出し、押入れの戸を開けた。しかし、収納物の後ろに隠れてしまったのか、ワタネズミの姿はどこにも見当たらなかった。
そのとき、バスルームの扉が開き、理生さんが顔を覗かせた。濡れた髪の先で水滴が滴っていた。
「あとで、ドライヤー使ってもいい?」
「あ、うん、どうぞ」
「電話してたの?」
「どうして?」僕は少しうろたえた。
「なんか、声が聞こえたから」
「あぁ……、テレビの音」
「こんなときにテレビなんか観ないでよ」
「そう言うと思って、すぐに消したよ」
理生さんはふふっと息を漏らし、またバスルームの中に引っ込んだ。
毛布の中で短い眠りを繰り返すうち、カーテンの向こうがうっすら明るくなっていることに気づいた。浸透する光はまだ深い青色で、目覚まし時計は午前五時を指している。半分夢に沈んだ目でそれを確認し、僕は小さく溜息をついた。
腕を伸ばしたとき、隣で眠っているはずの理生さんがいないことに思い至った。焦って身を起こしたが、彼女は薄暗い部屋の隅に座っていた。こちらに背を向けている。まだ裸の恰好で、頭のところどころに寝ぐせが跳ねていた。
「理生さん」
ほっとして声をかけたが、彼女は振り向かなかった。
僕は毛布をマントのようにひきずりながら、そばへにじり寄る。そして、うなだれた横顔を覗き込み、ひどく驚かされた。理生さんが泣いていたからだ。唇をわななかせて声も上げず、涙の粒を頬に伝うままにしている。明らかに異常事態だった。
「え、どうしたの?」僕は彼女の肩に触れる。眠気は完全に吹っ飛んでいた。「なんで泣いてるの?」
理生さんは答えるかわりに顔を上げた。こちらを見ない。その視線を追い、僕は内臓が冷たくなる感覚を味わった。
部屋の一角で、ワタネズミが佇んでいた。
彼は頼りない二本脚で体を支え、心細そうな面持ちで僕たちを見上げている。これまでの人生で何度も見てきた、臆病な黒ゴマの目。シュラフのように全身を覆う灰色の綿。綿の奥から中途半端に突き出たピンク色の枝のような腕。
でも、僕はひと目で見抜いた。
こいつは、違う……。
昨日、押入れの中に逃げていったあいつとは、別のワタネズミだ。
ここでなにが起こり、理生さんがなにを見たのか、すぐに悟った。ワタネズミの周囲には、ずたずたになったまだら模様の埃のかたまりが散乱している。まだらの正体は、恐らく血痕だろう。血は床や近くの壁にも飛び散っていて、薄闇の中では黒々として見えた。
死骸は見当たらない。いつもそうだ。そこにあるはずの死骸だけが、いつも無い。残されているのは埃だけ。しかし、その不条理な状況がむしろ、僕の背筋をいっそう寒くさせるのである。
ここで、殺し合いが起こった。
そして、一匹のワタネズミが勝ち残ったのだ。
「すごいね……、本当にいたんだね」たっぷりと沈黙を消費してから、理生さんは言った。「最初はね、きみを起こそうとも思ったんだ。写真も撮ろうと思った。いままで見たこともない生物だったから。でも、動けなくなっちゃったの。すぐにあれが始まって……」
僕はなにも言えなかった。茫漠とした喪失感と、霧のように正体の掴めない不安が喉の下に立ち込めて、上手く舌が回らなかったのだ。
「あんなに怖いもの、初めて見た」そう呟いて、理生さんは自分の腕を抱いた。もう泣いていなかったが、目の下はまだ濡れていた。「怖くて、おぞましくて……、とても悲しかった」
僕はまだ、ワタネズミたちの殺し合いを見たことがない。
だから、彼女が目にしたものがどれほど凄惨なものだったのか、実際のところはわからない。想像さえできないのだ。こんなにもちっぽけで、貧相で、臆病な生物が、どうしてそんな惨い所業をできるのか、考えれば考えるほどわからなくなる。
ワタネズミは物言いたげに突っ立っていたが、ふいになにかを思い出したかのように身じろぎすると、バスルームのほうに駆けていった。僕も、理生さんも、追いかける気にはなれなかった。部屋の一角に残された小さな殺戮の痕跡を、呆然と眺めていることしかできなかった。
それから間を置かず、理生さんは朝陽も昇らぬうちから出て行った。服を着込む手つきには、なにかに怯えているような気配があった。僕は引き留めなかった。ワタネズミたちの後始末をしなければならなかったからだ。
「ごめんね、橋本くん」玄関で靴を履いたとき、理生さんは視線を微妙に逸らして謝った。「いきなりおしかけちゃって……」
「大丈夫」僕もなんとなく気まずくて首を振る。
「今度は、もっとゆっくりしていくから」
「うん……、またいつでも来ればいいよ」
でも、彼女が僕の家を訪れることは二度となかった。
その日以来、僕たちの仲は急によそよそしくなり、会話もすべて上滑りしていくような、奥行きのないものに変わってしまった。なぜそんな急激な変化が起きたのか、自分でもよくわからない。しかし、僕も彼女も、後ろめたさとでも言えばいいのか、とにかくお互いに居心地の悪さを感じていたのはたしかである。知り合ったばかりの頃の、あの高く弾むような気持ちは消失していた。別れ話が切り出されたときには、安堵すら感じたことを憶えている。
理生さんは就職をきっかけに関西圏へ移り住み、僕は大学卒業後に地元へ戻った。彼女が結婚したあともときどき連絡を取り合っていたけれど、三年ほど前からは消息が知れなくなった。知人から、どうやら彼女が自殺したらしいという噂を教えられたものの、あえて確かめることもせずに今日に至っている。
僕は、彼女が見なくていいものを見せてしまったのかもしれない。
無論、僕たちの破局の原因がワタネズミにあったと言うつもりは毛頭ない。鼠の親戚のせいで関係が上手くいかなくなったなんて言い分は、卑怯な言い訳、いや、妄言でしかないだろう。つまるところ、僕たちが別れた理由は、僕に甲斐性がなく、彼女に余裕がなく、そして二人の行く道が枝分かれしていたからにほかならない。少なくとも、僕はそう受け止めている。ワタネズミが現れようが現れなかろうが、僕たちはいずれ破局する運命にあったのだ。
ただ、こうして過去を振り返るたび、きまってあのワタネズミの姿が追想の目に留まる。完璧な編み込みの中に紛れた綻びにも似た存在感で、あのちっぽけなワタネズミは僕の記憶の一角に佇んでいる。気弱な眼差しでこちらを見上げ、足許に血の滲んだ綿を散らしながら。
そうして、最後には必ずこの疑問を僕に投げかける。
ワタネズミはいったいどのようにしてワタネズミを殺すのだろうか、と。
僕は現在、地元の郊外に構えた一戸建てに、妻と娘と共に暮らしている。言うまでもなく、ワタネズミもいる。まだ一年も経たない新築で、掃除もしっかりやっているというのに、どこで拾ってきたかわからない埃を綿に仕上げて着こなしている。先ほど、自室のデスクの上に現れたので、腹を突いてやろうと指を伸ばしたら、機敏に避けて逃げていった。今度のやつはいままでお目にかかったことがないくらいにすばしっこい。あれなら簡単に殺されたりはしないだろう。
デスクの横に置いたテレビでは、戦地の映像が繰り返し流れている。二週間前、海の向こうにある三つ隣の国同士で、戦争が勃発したのだ。大戦にまで発展するのではないかと世界中で危惧されている。我々の国にも深刻な影響が現れるだろう、とコメンテーターが喋っている。
若い兵士たちが、カメラに向かって手を振っている。
はにかむような笑顔で、まるで遠足にでも行くような雰囲気だ。
この青年たちがどんなふうに人間を殺すのか、僕は知らない。テレビはきっと映さないだろう。ネットになら、もしかしたら映像が上がっているかもしれない。興味はある。しかし、自分はけして観ないだろうという確信もあった。
それは、僕が臆病だからなのか。
あるいは、鈍感だからなのか。
卑怯だからなのか。
わからない。
僕はまだ、ワタネズミがどんなふうにワタネズミを殺すのかを知らない。
一生知らずに過ごせれば、こんなに幸せなことはないだろうと思う。
<了>
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※2024年執筆。
見出し画像:みんなのフォトギャラリー(もとき様)
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