ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考はいい意味でやばい. その1

こんばんは。神経内科医の松本です。当直からの帰りのバスで書いています。眠いです。笑

ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考(以下論考とする)を読んだ感想をまとめておこうと思うのですが、その前にヴィトゲンシュタインがどんな人か、またその行動からどんなことが考えられるか書いてみました。(日英ウィキペディア及び複数のヴィトゲンシュタインの本を参考にしました。誤りがあればぜひご教示ください。)

長文なので、何部かに分けようと思います。

ヴィトゲンシュタインの生涯

ヴィトゲンシュタインは、1889年オーストラリアのウィーンで生まれます。後にムーアラッセルをして天才と言わしめる、まさに20世紀最大と謳われる大哲学者ですが、なんと4歳まで言葉が話せず、吃音があり小学校にも通っていませんでした。製鉄で莫大な財をなしていた家族のもと、14歳までは自宅で教育を受けていたのです。(これには父であるカールの意向が強く反映されており、カールは子供が学校に行くと悪い影響があると考えていたようです。カールはヴィトゲンシュタインに産業界で活躍して欲しかったようですね。これには、同じく父が資産家であったドイツの哲学者ショーペンハウアーの境遇を思い起こされますね。)

その後工科大学にて機械工学などを勉強していたヴィトゲンシュタインは、ラッセルの数学原理を読み数学に興味を示します。ヴィトゲンシュタインは、フレーゲに数理論理学の基礎を習い、その後フレーゲの勧めによってケンブリッジ大学のラッセルを尋ねます。(フレーゲより受け継いだ数理論理学は、論考を形成する際の強力な武器になっていると思われます)

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1907年の頃のバートランド・ラッセル

ラッセルの授業の出席者は極めて少なかったものの、ヴィトゲンシュタインは毎回ラッセルの授業に出席し、授業終わりにはラッセルに付いていき(笑)、ラッセルの部屋で哲学談義に花を咲かせます。ウィトゲンシュタインのことを頑固、そしてひねくれ者と称したのはそのラッセルですが、ヴィトゲンシュタインの頑固さを伺わせるこんな授業中のエピソードがあります。

ヴィトゲンシュタインは、すべての実存的命題は無意味であると主張しました。私(ラッセル)は講義室にいたので、私は彼にこんな提案を検討するように言いました。「現在、この部屋にはサイ*はいない」。彼はそれを認めなかったので、すべての机の下を探したわけですが、それでも彼は納得しませんでした。

偏屈すぎて草!!(失礼)wwww

ですが、このような強いこだわりがある人でないと大きな仕事はできないということなのかもしれないですね。

(これは私の推測なのですが、論考において彼は無意味ということを2つの意味で語っています。そもそも意味がないナンセンスという場合と、意味は通じるがトートロジーや矛盾のように何事も語っていないという2つの意味としてです。後述しますが、上記のヴィトゲンシュタインの発言は後者の意味で語った可能性が高く、ラッセルのカバがいないのを探してみせたという行動はヴィトゲンシュタインの反論に全くなっておらずヴィトゲンシュタインが納得しないのも無理はないと思います。)

それから、ウィトゲンシュタインはマクロ経済学で有名なケインズの知己を経て、ケンブリッジ大学におけるシークレットクラブに参加するようになります。このシークレットクラブはエリートの社交の場であり、議論の場でもあったようですが、ヴィトゲンシュタインは大きな声で団らんする人たちに、なじむことができず強いストレスを覚えていたようです。

こちらも私の推測ではありますが、ウィトゲンシュタインはおそらく最もエビデンスのある性格診断の方法であるBig five personal testにおいて、おそらく外向性が低く(大勢で話したり人付き合いが苦手)、神経症性傾向が高かった(ささいなことを気にする、抑うつ傾向の性格)のではと推測します。人付き合いが苦手であり、度重なるうつのエピソード、兄弟の多くが自殺していること(神経症性傾向には、他の性格とは異なり遺伝の影響がみられることが知られています)、建築に関わった際にはcm単位で建築をオーダーし気に入らなければやり直させるなどのエピソードから伺えます。神経質なウィトゲンシュタインの傾向については、ラッセルやピンセントも記しているのでおそらく間違いないでしょう。

そうしてケンブリッジから離れ、ピンセントと旅行したノルウェーのホテル及び父のカールの死後に再度訪れたノルウェーの村に隠遁した際に精力的に哲学研究を行います。(後者の期間は後に最も生産的な期間であったとヴィトゲンシュタインは振り返っています)

この時ついに論考の土台となるアイディアを完成させます。

"論理命題はトートロジーの一般化であり、トートロジーの一般化は論理の一般化である。他に論理的な命題はない。"

ラッセルのサイの話しにも通じますね。

1914年この考えが固まったヴィトゲンシュタインは、ムーアの呼び出しを受けます。当時すでに世界的に有名な哲学者となっていたムーアでしたが、ヴィトゲンシュタインの彼の扱いはまるで秘書のようでした。自分の口述をノートにとらせ、間違えると激怒したようです。ケンブリッジに戻った彼は学士論文を提出しますが、Footnoteもなく、Prefaceもない、つまり論文の体裁の整っていない論文は当然なら大学に受領されませんでしたが、これまたヴィトゲンシュタインはムーアに激怒します。

ばかげた細かい規則の例外に(私の論文を)できないのなら、お前は地獄におちろ

と言いケンブリッジを去ることになりました。

その後第一次世界大戦に突入し、戦争に従事し大きな活躍をする傍ら、戦争の合間の1918年の休養中についに論考を完成させます。その時期に、友人であり愛人であったピンセントの飛行機事故及び兄弟の自殺(3人目の自殺)が重なり、すっかり意気消沈していたウィトゲンシュタインは父親の莫大な財産を放棄すること、そして小学生の教師になるためのトレーニングを受けることを決めました。

ウィトゲンシュタインは、家族から

ウィトゲンシュタインが小学校の教師になるのは、精密機械で木枠を開けるようなもの

と呆れられながらも、小学校の教師のトレーニングを終え、こうして世界最大の哲学者は小学校の先生になりました

案の定、学校のキッチンに自分のベッドを作るなどwww、保護者の方々にはなかなか受け入れがたい奇行(?)が問題となったヴィトゲンシュタインですが、時間外の補講を行う、かつ非常に熱心に講義するなど少なくとも、一部の生徒には人気であったようです。

こうして田舎に住んでいた1921年、ヴィトゲンシュタインの論考が出版されます。論考は、難解な内容であったこと、かつ当時ヴィトゲンシュタインは無名であったこともあり、ラッセルが序文を寄せることになりました。しかしながら、援護射撃であるその序文は、ラッセルを失望させることとなります。

ラッセルの序文は、野矢茂樹先生訳のウィトゲンシュタインの論理哲学論考で読むことができました。ムーアが記述をミスっただけで激怒するようなヴィトゲンシュタインが、この序文をみて失望したのも無理はないと思います。現在の"言語は不完全なもの"という考えを序文においてラッセルは述べていますが、ヴィトゲンシュタインの考えはむしろ逆で我々が使っている言語を不完全なものとはみなしていません。言語によって論理空間が構成され、それでも論理空間の外にあるものがあり、それについては我々は語り得ないと言っているのです(1)。また、序文を拝見すると論考の内容から離れた内容もあり、私には、ラッセルが自らの理論、数学原理からヴィトゲンシュタインの論考を理解しようとしていると感じました。
これから学び取れる教訓は、あの大哲学者のラッセルですら、正しく文章を読むのではなく、文章を読みたいように読んでいたという事実です。我々は大なり小なり文章は読めないのだ、という事実に謙虚にならなくてはならないと私は思います。

子どもたちのために、単語の発音と意味を書いた辞書を作るなど熱心な先生であったヴィトゲンシュタインでありましたが、体罰がきっかけとなり、自ら職を辞すこととなり、そうこうして再びケンブリッジへと戻ることになりました。

10年後殴った子どもたちには直接ヴィトゲンシュタインは謝罪したそうです。

ケインズに"神が戻った"と讃えられたヴィトゲンシュタイン。ケンブリッジへと戻った彼は、博士の審査を再び受けることになるわけですが、ムーアとラッセルの口頭試問が終わった彼はムーアとラッセルにこう言います。

大丈夫、君たちが理解できないことはわかっている。

そんなことをかつての上司に言えることが驚きですね笑。

まずはこのあたりで一度締めたいと思います。続きはまた時間があるときに書こうと思います。ではでは。


脚注

*英語版Wikipediaにはカバと書いてありましたが、本当はサイなのだそうです。

引用・参考文献

ほとんどは文字にリンクを張っております。

(1)訳文も著者脚注も大変理解の助けになる素晴らしい本でした。


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