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【エッセイ】潮騒の舞台をたずねて

秋の某日、三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台・歌島のモデルとなった神島(かみしま)を訪れました。宝塚の自宅から車を3時間近く飛ばして、鳥羽市へ。ここから定期航路の船に乗って30分、神島に至るのです。

神島は、以前から一度は訪れてみたいと思っていました。最初に思ったのは、たぶん中学時代だったでしょう。

私は中学・高校を通じて三島の文章の才に惹かれて、たくさんの著作を読みました。中でも中学のときに読んだ『潮騒』には、格別の愛着を持っていました。そこには若く健康な男と女の清明な恋愛が描かれていたからです。ほかの名作と讃えられる三島作品とはまったく作風が違うのです。海女(あま)ちゃんである初江の、次のセリフが魅力的です。

「新冶、その火を飛び越して来い。飛び越してきたら」

 新冶は実直に火を飛び越して、初江を抱きしめます。全裸で抱き合いますが、処女と童貞は保たれます。初江が拒んだからです。
 

「今はいかん。私(わし)あんたの嫁さんになることに決めたもの。嫁さんになるまで、どうしてもいかんなア」

このように物語は、三島由紀夫の温かい視線に見守られながら進展してゆきます。当時三島は29歳。まだボディービルや剣道で肉体を改造する前の、瘦身で虚弱な青年でした。『潮騒』には、新冶という健康的で気力のある若者への、三島の遥かな憧憬(どうけい)が描かれているのだと思います。
 
この小説は昭和29(1954)年に出版されるとベストセラーになり、何度も映画化されました。あの吉永小百合・浜田光男コンビも、山口百恵・三浦友和コンビも主演しています。映画のロケは、いずれもこの神島で行われました。
 
私も「聖地巡礼」をしてみようと思ったのです。

三島は、冒頭から格調高い文体で、島のありさまを描写します。

歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。一つは島の頂き近く。北西にむかって建てられた八代神社である。

この八代神社(やつしろじんじゃ)に向かうことにしました。新冶が初江との結婚を祈った神社です。民宿風のホテルに荷物を預けて、いきなり、八代神社へ!

トイレも風呂も洗面台も共用の、限りなく民宿に近いこのホテルの名は「山海荘」といい、新鮮なイセエビやカワハギの刺身など船盛のお食事付きで、ひとりわずか15,000円くらいです。一人旅の女性が何人かいらっしゃいました。

八代神社に至るには、200段もある長い石段を登らねばなりません。朱色のニューバランスの古靴で、手すりを頼りにして、私は懸命に登ります。『潮騒』には、18歳の新冶が下駄ばきで階段を軽々と登っていたことが、明るい筆致で描かれています。

休み休みしながら歩みを進めてゆくと、石段わきの山肌の草むらに自生のアザミの花が多数咲いており、まだらのある黒っぽい蝶が、何羽もアザミに取り付いたり、周りを飛び交ったりしていました。「アゲハチョウ」だと私は判定しました。

八代神社の蝶とアザミについては『潮騒』には書かれていません。三島はムダなこと、価値のない光景と判断して、これを排除したのでしょうか。
私にはとても印象的だったのですが。
 
山海荘に帰り、おかみさんと話をしました。

「八代神社の石段の周りで、アザミの花に、たくさんのアゲハチョウが群がっていました」
「あの蝶は、アサギマダラというんです。この季節、アザミの蜜を吸いに集まります」

「アサギマダラ?」
知らない名前です。

「ええ、この蝶は、海を渡る蝶なんですよ。日本本土から沖縄、台湾、香港、そしてフィリピンにまでも」
「へーえ。まるで渡り鳥みたい」
「蝶の羽にマーキングをして放つ調査がなされています。マーキングされた蝶が、南の国で確認されているのです」
と、おかみさんは東京式ではなく、京阪式アクセントで説明してくださいました。

ほう。神島は、京阪式アクセントの地域なのか? 

私はついつい東京式アクセントの島だと思っていました。映画の『潮騒』では、吉永小百合(東京都出身)も山口百恵(横須賀市出身)も東京式アクセントで語っていたはずです。しかしあれは主演者たちの本人の言葉で、この作品には本来ふさわしくないアクセントだったのか?たしかに船に乗った鳥羽市でも京阪式アクセントでした。

一方、神島からより近い東側の、愛知県の渥美半島は、東京式アクセントです。
 
神島のアクセントをもっと聞いて事実を知りたいと港近くに出向いたら、80代と60代らしきの地元女性が雑談し合っていました。近くのベンチに座ってじっくり盗み聞きしてみると、やはり京阪式アクセントでした。神島は「関西弁」の地域だったのです。

「『ひこ』を港に迎えに行く」と80代の女性は言っています。「ひこ」とは、孫のこと。古い京の言葉です。

*二十巻本和名類聚抄〔934頃〕二「孫 爾雅云子之子為孫〈尊反 和名無万古〉一云〈比古〉」

「比古」は「ヒコ」と読みます。このように10世紀には、京では孫のことを「ヒコ」とも言っていました。その都ことばが、今も神島には息づいていたのです。そうした文化は、渥美半島からではなく、京都からより近い鳥羽方面からやってきたのでしょう。
 
宝塚の自宅に帰ってからも、海を渡る蝶・アサギマダラのことが心に残っていました。百科事典やウィキペディアで調べました。意外な事実がわかりました。

アサギマダラが海を渡って移動していることが、マーキング調査によって解明されていったのは、1980年代以降のことだったと。

三島は1954年に『潮騒』を書き、1970年に自死しました。つまり三島はアサギマダラが太平洋を渡る生態を、まったく知らなかったのです。

もし知っていたら?と私は楽しく夢想しました。

三島は、民宿ホテルのおかみさんと私のやり取りのような内容を、どこかに書き込んでいたかもしれません。冒頭の部分とか、婚約報告とお礼のため新治と初江が八代神社への階段を登るシークエンスなどで。ストーリー展開に、うまく絡めつつ。
 
偶然ながら、これを書いているのは2024年11月25日で、三島の自死から54年後の命日となります。生きていたら99歳ですね。『潮騒』で12,3歳の少年の私を楽しませてくれた三島由紀夫。45歳を越えた、老いた姿も見たかった。決意して自死するという美学より、生きることの大切さを描いてほしかった。

大学時代21歳になったばかりのとき、下宿の友人が、襖をガラッと引き開けて、「三島由紀夫が自決したぞ!」と大きな声で伝えてくれたときの激しい衝撃が、今もまざまざと蘇ります。


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