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思考の夜の冒険は、抽象の蝶と共に

夜中ベッドの上で、「シェルペンスキーのカーペット」が無限に穴をあけ続ける動画を眺めていたら、目に飛び込んできたコメントがあった。

「無限とか実在しないのに意味がない」
「直観に反するし、こねくりまわしてるだけで実際にはありえない」

…と、そんなようなコメントだったと思う。

反射的に生じた不快感は一瞬で、眠気まじりの頭でその言葉を反芻するうちに妙な喜びが胸に広がった。
"私たちは実体のないもの、「意味」や「価値」も「心」をも…信じて生きているじゃないか"…と。


ごろごろとベッドのぬくもりの中で、
思考は夜の深い海に旅立った。

ー 前に友人が言った「数字の曖昧さ」、それとその曖昧さを受け止める「数学の確かさ」…

ー 矛盾にも感じる「抽象的な数学」と「確固たる論理」の共存という、ぞくぞくする美しさ…。

作家として、実体が無いけれど実感のあるものを追い求める私にとって、この真夜中の再発見は、まるでキャンバスで新しい色を見出した時のように、
胸いっぱいに広がる新鮮な空気のように、
私の脳を着火した。

この発見が何に変容していくのかまだわからないけれど、
書き留めておきたくなったのでここに残そうと思う。

1.確固たる庭で抽象は踊る

「そのカーペットに
無限の穴が開く音楽を奏でるとき
 数学は私にささやいた、
"抽象の蝶はこの庭で舞うの"と。」

そもそもシェルペンスキーのカーペットは、
フラクタル構造を持つ図形の一つだ。
一つの図形に無限に穴が開き続け、辺は∞に長くなる一方で、穴が開き続ける図形の面積は0に収束する…といったもので
数学としてはとても明朗快活な図形だと私は感じていた。

しかしその動画には
「無限とか実在しないのに意味がない」
「直観に反するしこねくりまわしてるだけでありえない」
というコメントがいくつかついていた。

言われてみると、確かに「直観に反する」「抽象的な数学」だな…「人間のスケールでの実体は難しい」ものだと思う。

私の思考は散歩を始める。
"人間のスケールでの実体が難しいものは、実在が無く、意味がないのだろうか?”
”そうなると、「意味」も「価値」も実体がないのではないか…?”

”実体が無いものは「存在していない」のだろうか………?”

わたしはこの「実体が無いものは存在しない」という答えは、少し性急かなと感じる。

だって例えば私たちは「お金」という実体ないものを信じている。人類が「お金」という抽象的概念を信じることで、社会が回り、秩序が生まれる。
この信頼自体が、ある種の「実在」を生み出しているとも言えるんじゃないだろうか?


一方で抽象的な数学の実在は少し異なるな、と思う。

いくらそれが直観に反していたからとしても、
”信じる信じないにかかわらず成り立つ”のだ。
とても不思議で揺るがない在り方に、美しさを感じてしまう。

岡潔先生は「数学なんて意味がない」といわれると
「野に咲くスミレはただスミレのように咲けばいい」とおっしゃる。数学もそのようなものだと。
先生は数学を農業に例えられていた。その先生の自然を見守るような感性に私はぬくもりを覚える。

やっぱり『「抽象的な数学」は実体を得ないから実在しない、存在しないから意味がない』…とはやはり言えないのではないだろうか…?

実体だけが、実在ではないのだから。

そして意味を、美を見出すのは見ている側の心なのかもしれない

2.見えない山の麓にて

「朧のにも思えてしまうその山を見上げて
 麓で私には見えない景色を
描き続けている。」


アーティスト仲間に「数学の曖昧さ」を許容しない、抽象的な数学を信じない人は少なくない。「宇宙は行ったことないからないかもしれない」といった意見もたまにある。

数学の在り方として「山」に例えられることがある。山は確かにそこにあって見えるけれど、登らなければその全貌はわからないのだ。

そして、アーティストこそ「見えないもの」を信じる力が強い、と私は考えている。
創作とは、見えない心や感情、抽象的な概念を形にすることで、それに「実在」を与える行為でもあると思う。

そして数学もまた、抽象的な概念に論理という形を与え、それを私たちに「見える」ようにしてくれる。創作と数学が、実は似た場所に立っているのかもしれない…。とおこがましくも思ったりする。

(似たようなことを岡潔先生も言っていた気がするので、私のこの感覚は良しとすることにしている。)

3.曖昧さを抱く数学の強い腕

「ぼくらの滲んだ心のあり方を
その世界はそのまま受け止めて
そのまま返してくれるんだ。
ぼくはまるでそれを確かだと誤認して
その勘違いをお守りにしている」


ある日、友人にいわれたとこがある「数学は思ったより適当なので信用できない」と。
その人は仕事上「数字」を扱っていて、以外とその数字は適当で信用にならないということだ。

しかし、それは数学が「曖昧」なのではなく、扱った指数としての「数字」に人間の「主観」が含まれているからなのではないだろうか…?

用意したものが曖昧だったから、結果としての値が曖昧なものとして出てきていて、もしかしたら本当にその人が信用していないものは「主観」というものなのかもしれないな…と私は思った。


基本的に数学というものは、積み上げられた論理体系の下に存在しており、その在り方に曖昧さは許容されない。

そしてそんな「確固たる論理体系」だからこそ、人間の主観という曖昧さを内包した数字を扱い、値を返してくれるのだ……
そんなことに気付いてその数学の懐の深さに、わたしはまた鼻腔の奥のほうに血が流れていくのを感じていた。

数学をなんだか頑固だけれど誰でも受け止めてくれるような、職人のような…親のような…そんな風にも思ってしまうのだ、どうだろう…?

4.二律背反の詩

「ある人はそれを花と呼び
ある人はそれを白と呼んだ
それでも2人は手を繋ぎ
同じ愛を抱く」

そんな風に真夜中の思考の海の冒険で私は
「抽象的な数学」と「確固たる論理体系」という言葉の持つ妙に気付く。

まるで二律背反じゃないか…

いや、しかし一見、二律背反するように思えるこの二つが、数学の中で調和しているのは、まさにその本質的な特徴だと思う。

論理は厳密で揺るぎない土台を提供しつつも、その上に築かれる抽象的な概念は、無限の広がりや想像力を許容しているんだ…

「実在しない」とされた抽象的なアイデアだったものが、今では科学や芸術に欠かせないものになっていたりする。
そう思うと、あり得ないなんてのはあり得ないのかもしれない?

そして私はこんな論理体系を美しいと形容せずにいられはしない。

だって私は確固たる抽象性の最たる「心の実在」を信じているから、絵を描いているのだから。

5.抽象と具象と論理と心の狭間にて


私は数学が好きだった。一番最初、幼稚園の頃に「1+1」の言葉にならない凄さに感動したあの日のことを私はずっと覚えている。

私はずっと絵を描いていた。小さな頃から関わり方は変わってきたけれど絵はずっと私の大切なお友達だ。

これからわたしはどこに向かおうかと思う。
私自身は「心の実在」を信じている。
心が動く時その実感が湧くのだ。

そんな「感動」とも呼べる心の動きを展示を通じて表現したい。心が動く実感を持って、その心の実在感を覚え、大切にできるような日々に繋がっていけたらいいな…と思う。

いろんなことがあるけれど、
やっぱり世界は美しいと思うから。


「思考の海で、冒険は続く」

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