【随想】 守るべきものとは
「日本を戦争のできる国にしてはいけない!」
駅前で何処かの政党の人が、声高に演説していた。この類の主張を聞くたび、老生はソラ恐ろしくなり、脳内に暗雲が垂れ篭めるのダ。
「本当にそんな国でよいのか?」
「もし他国が日本に攻め込んできたときは、どうするのか?」
と、演説主に問いたくなる。そんな衝動に駆られるのダ──実際は問いかける勇気はないけど。
だが、もし老生が問えたとしても、演説主(戦争反対論者)は、きっと、
「戦争放棄を憲法で謳っているのだから、日本は戦争に巻き込まれることはない」
と即答し、老生を凹ましに掛かるだろう。彼ら(戦争反対論者)は平和憲法を紫の座布団に座らせて、「ありがたや、ありがたや」と朝な夕なに拝んでいるに相違ない。彼ら(戦争反対論者)は“平和憲法教”の信者でもあるのダ。
いつ如何なる時も、「戦争反対」を念仏の如く唱えていれば、戦争を回避出来るのか? 相手はその“念仏”に恐れ戦慄いて戦争を仕掛けてこないのだろうか?
そのような信者たちが掲げる“平和憲法絶対主義”は、平和ボケ的な自分勝手な屁理屈に過ぎない。
なぜなら、戦争は当事者双方の合意の基で始まるものではなく、攻め手の一方的な都合で始められるものダ。
もし、戦争が当事者双方の合意の基で始められるもの──サッカーの「キックオフ」のように──だとしたら、ロシア・ウクライナ戦争において、侵攻するロシアに対しウクライナが「戦争いいですね。やりましょう」と応じたことになる。だが、現実はそうではあるまい。この戦争は、ロシアの一方的な都合で戦争が始まったのダ。
現在、第三次世界大戦の危機が叫ばれている。
世界は地球規模の“戦国時代”に突入している。より強大な武力をもつ国が近隣国を支配してゆく。そんな殺伐とした時代になっているのダ。
日本人よ、遠国の戦争(ロシア・ウクライナ戦争)を“対岸の火事”と傍観しているときではない。実際、現代日本は北と西からの脅威に晒されているではないか。ロシア・ウクライナ戦争終結後、次に狙われるのは日本かも知れない。何しろ、現在の日本は、盗賊の根城の前で小銭を抱いて丸裸で眠り込んでいるようなものだからダ。
他国が攻め込んで来たら、どうすればよいのか?
そのときは“戦う”しか道はない。敗戦国の権利は、戦勝国によってすべて剥奪される。敗戦国は戦勝国の奴隷と化す。搾取され続ける。“権利”とは、戦勝国にだけ許された特権というコトを忘れてはいけない。だから、戦争には敗けてはならないのダ。
“平和憲法教”の信者たちよ、国土が侵攻を受けている最中でも、尚、「戦争反対」の念仏を唱え、「敵国退散」を神仏に祈願するつもりなのか。それじゃあ、先の大戦中の“神風信仰”と寸分も変わらないではないか。
まさか、開戦と同時に「なぜ今まで戦争準備をしてこなかったのか!」と掌返しをするつもりではあるまいナ。
戦争は敗けてはならない。
しかし、現行の“平和憲法”では、侵略者と戦った者は重大な憲法違反として罰せられる。なんせ、第九条で“交戦権”──「戦」いを「交」える「権利」──が認められていないのだから。
理不尽である。
なので、速やかに第九条の整備をおこなう必要があるのダ。国を守る者が罰せられるコトのないように。