[2024/11/09] 往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第91信:早婚カップルの理想と現実を描く『ふたつの青い心』(轟英明)
〜『よりどりインドネシア』第177号(2024年11月9日発行)所収〜
横山裕一様
爽やかな10月を過ぎて早や11月です。暑くもなく寒くもない爽やかな秋がようやく日本に訪れたのも束の間、この原稿を書いている11月初旬は既に寒さを感じるようになっています。インドネシアでは今年各地で観測史上最高気温を記録したところが続出したとニュースで聞きましたが、最近のジャカルタはどんな様子なのでしょうか。
一方、秋の深まる東京では毎年恒例の東京国際映画祭が華やかに開催されたところです。今年はコンペティション部門にインドネシア映画は含まれていなかったものの、ガラ・セレクション部門ではディーン・フジオカ主演の『オラン・イカン』(Orang Ikan)が上映されていました。かつて第17信で言及した『バッファローボーイズ』(Buffalo Boys)のマイク・ウィルアン監督最新作なので、一応興味はあったのですが、どこかで聞いたようなプロットだったのと、自分の仕事との調整がつかなかったこともあり、結局スクリーンでの鑑賞は見送ってしまいました。
ただ、以下のQ&Aを読む限り、荒唐無稽なだけのただのモンスター映画とは一味違うようで、やっぱり無理してでも観ておくべきだったかなあと若干の後悔もしています。
時代考証を無視しまくった『バッファローボーイズ』の如き徹底的に荒唐無稽な作品は私の大好物なので、いずれネット配信されたら必ず観てみるつもりです。おそらくインドネシアの映画館でも近日中に上映されると思いますので、横山さんのほうで先に観る機会がありましたら、後日感想を教えてください。
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さて、前回第90信での最近流行りのホラーコメディものに関する横山さんの考察を面白く読ませていただきました。『なにか違う』(Agak Laen)以外は私にとって未見の作品ばかりですが、それぞれ趣向をそれなりに凝らしたことが伺える内容のようで、いずれそれぞれじっくり見比べてみたいと思います。
なお、私にとって非常に意外だったのは、タイ怪奇映画の古典中の古典で彼の地では幾度も映画化されている、言うなれば日本映画史における『忠臣蔵』に近い地位にあると言っても過言ではないメー・ナーク・プラカノン物語をインドネシア(より正確にはスマトラかマレー半島のどこか?)でリメイクした『愛しのマック』(Kang Mak from Pee Mak)が大ヒットしたことでした。
「メー・ナーク・プラカノン」とはタイ語で、プラカノン運河に住むナーク夫人という意味であり、19世紀に実際にタイで起きた事件を元にした物語とされています。20世紀初頭の時点でタイの民衆にとってはよく知られていたそうで、王様が戯曲化、映画産業が興隆してからは繰り返し映画化、直近ではアニメも作られるほどの人気ぶりです。大袈裟ではなく国民的物語と言えます。
それだけに、リメイクの話を小耳にはさんだ時は、タイ人が外国人にリメイクを許可したのがやや意外でしたし、はてインドネシアでそれほどウケるだろうか?と実のところ懐疑的だったのですが、あにはからんや、観客動員数480万人を超える大ヒットとなったのでした。またしても私の予想は大外れとなったわけです。
大ヒットした要因は、まず作品単体としてちゃんとおカネをかけるところにはかけて一定以上のクオリティに達しているためでしょうし、横山さんが指摘したように、ホラーとコメディ、さらにラブストーリーをバランスよく結合させたことにあるのではないかと推測しています。タイの国民的物語だから外国人には理解されにくいところがあるのではないかという私の目論見とは逆に、むしろメー・ナーク・プラカノンという物語の中に、国境を越えてアピールする普遍的な何かが含まれている、こう考えるべきかもしれませんね。
メー・ナーク・プラカノン物語の映画版を詳細に比較検討した四方田犬彦さんの『怪奇映画天国アジア』によれば、このタイの国民的物語は実に様々なバージョンがこれまで作られてきたようです。いわゆる原典に忠実な正統版がある一方で、リメイクが重ねられるにつれ、どんどん逸脱を繰り返し、遂には自己パロディ作品まで現れたとの事実は実に興味深いものです。四方田さんは「メー・ナーク・プラカノンはタイ人の無意識から立ち上る集合的な形象であった」と書き記していますが、では、インドネシア版『愛しのマック』は長大なメー・ナーク・プラカノン映画史の中でどのように位置づけられるのか。タイ映画に疎い私には、これ以上タイピングを進めることができないのですが、いずれどなたかにより詳細に比較分析していただきたいものです。
ところで、ホラーとコメディの掛け合わせは簡単ではないとの横山さんは述べられており、私もその意見には概ね同意する一方で、歴史的に振り返るならば、ホラーとコメディの結合は必ずしも珍しいものではないという気もしています。ホラーとラブロマンスの結合も同様でしょう。もちろん、どちらの要素が強いかは作品によって異なっており、評価も様々だと思いますが、明確なジャンルが成立する以前のゴッタ煮状態、言うなれば何が出てくるか分からない闇鍋的な、ある種いかがわしい映画の面白さも私は大事にしたいと思います。監督作家主義に反するかのような、このような視点についてはまた稿を改めていずれ詳しく論じさせてください。
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さて、本題に進みましょう。今回は第81信で私が大絶賛した『2本の青い線』(Dua Garis Biru、以下『青い線』)の正式な続編である『ふたつの青い心』(Dua Hati Biru、以下『青い心』)を論じてみます。甘ったるいティーンズロマンスが苦手な私をして、背筋を伸ばして真剣に画面に見入らせるほどの『青い線』の完成度を、果たして続編は超えられたのか?
先に結論から書いてしまうと、『青い心』は『青い線』を超えるほどの大傑作ではありません。しかしながら、前作同様に非常に見どころの多い家族ドラマであり、類似作品がほとんどないという点からは脚本兼共同監督を担当したギナ・S・ヌルの野心作とも位置付けられます。
まず前作との違いから指摘しておくと、『青い心』ではヒロイン役ダラをアイシャ・ヌッラ・ダタウが演じています。『青い線』でダラを演じた元JKT48のアディスティ・ザラがなぜ降板したのか、制作側は明確に理由を説明しておらず、何ともモヤモヤします。高校生の妊娠というセンシティブ且つセンセーショナルな題材において、ヒロイン役がかなりの難役であることは言うまでもないことながら、実に素晴らしい演技を彼女は『青い線』で披露してくれました。それだけに、ザラちゃん主演の続編を是非とも見たかったというのが正直な私の感想です。
とは言え、『青い心』でダラを演じたアイシャ・ヌッラ・ダタウの演技が物足りないということではありません。むしろやや幼さの残っているザラよりも、アイシャの若干大人びた感じが、物語内の年月の経過とうまくマッチしているとも言えます。
もう一点、前作との違いとしては、ギナ・S・ヌルの単独監督作から彼女とディンナ・ジャサンティとの共同監督作に変更となったことです。私はディンナ・ジャサンティという映画人に対してこれまで注目していなかったので、フィルモグラフィを確認したのですが、映画監督作及びテレビシリーズ含め、私が実際に観た作品は一本もありませんでした。女性映画人であることはわかりましたが、さてどのようなジャンルを得意とするのか、イマイチよく分かりません。その意味で監督作家主義の観点からは、『青い心』の欠点や美点がだれの責任なのかやや不分明ではありますが、ひとまず相違は置いといて、前作『青い線』との共通項を指摘してみましょう。
『青い線』の美点とは、ティーンズロマンスにおよそ似つかわしくないそのリアリティとリアリズムにありました。リアリティとは主人公ビマとダラ、それぞれの家庭環境が相当に異なることを具体的なリアルなビジュアルでしっかり丁寧に見せたことを指します。メロドラマに流れない形で、しかし二人が属する階層の違いをちゃんと見せる。これはこれまでのティーンズロマンスでは見せなかった部分でしょう。そして、リアリズムとは、名脚本家としてのギナ・S・ヌルの手腕が見事に発揮された非常にリアルな会話の応酬を主に指します。とりわけ、ダラの妊娠が体育の授業中に発覚し、二人の両親が学校に駆けつけてからの「修羅場」の緊迫感は、見事な長回しと相まって屈指の名場面と言ってよいでしょう。
これらの美点は続編の『青い心』にもちゃんと継承されています。4年の不在の後にダラは韓国からインドネシアへ戻り、ビマや息子アダムとの新生活を始めようとするのですが、しかし電話越しの会話が当たり前だったアダムは頑なに母ダラを拒絶します。長い努力の末にダラはようやくアダムと打ち解け始めるものの、今度はビマとの間に簡単には埋められない溝があることに気づき、互いの将来にために韓国に戻ることを考え始めます。一方のビマは、自分なりの方法でアダムをちゃんと育ててきたものの、収入その他でダラに頼っている現実を突きつけられて、果たして未熟な自分が家長たりうるのか、何が最善なのか、悩みます。果たして、ダラとビマそしてアダムは、一つ屋根の下でこのまま一緒に家族として生活していけるのでしょうか?
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