[2024/11/09] 汎アジア文学へ(太田りべか)
〜『よりどりインドネシア』第177号(2024年11月9日発行)所収〜
春秋社のアジア文芸ライブラリーから出版された『花と夢』が、2024年9月、NPO法人日本翻訳家協会が選出する第61回日本翻訳文化賞を受賞した。中国チベット自治区シガツェ生まれの作家ツェリン・ヤンキーのはじめての長編小説で、チベット自治区出身の女性がチベット語で書いた初めての長編小説でもあるらしい。翻訳はチベット語研究者・翻訳家の星泉さん。
未読だが、「ラサのナイトクラブで働きながら身を寄せ合って生きる四人の女性たちのしたたかな生き方と悲痛な運命を、慈悲に満ちた筆致で描く」「チベット発・シスターフッドの物語」をぜひ読んでみたい。行ったこともなく、ほとんどなにも知らない国のことが、そこで紡がれる物語を読むと、たちまち身近な現実のものとして感じられるようになる気がする。それは、インターネットで断片的な動画を見たり記事を読んだりするだけでは得られない体験だ。物語にはそういう力がある。
2024年10月13日には、ノーベル賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが、ノーベル文学賞を韓国の作家ハン・ガンに授与することを発表した。ノーベル文学賞受賞者としては韓国人初、アジア人女性初。
日本ではもう何年も前から韓国文学が盛んに読まれるようになり、それまで欧米偏重だった日本での翻訳文学出版も、韓国文学ブームをきっかけに少しずつ他のアジアの国々の文学へも目を向けるようになってきているように感じる。今回のハン・ガンさんのノーベル文学賞受賞で、アジア文学にいっそう熱い視線が向けられるようになるのではないかと期待している。もちろんそのなかのひとつはインドネシア文学だ。
2024年7月発行の河出書房新社の文芸誌『文藝2024年秋季号』では、「世界文学は忘却に抵抗する」という特集が組まれ、主にアジア文学に照明が当てられている。「“戦争”テーマの書き下ろし短篇」で韓国・日本・チベット・タイの作家が競演し、特別企画として日本の作家松田青子とインドネシアの作家インタン・パラマディタの往復書簡「越境して結束をする私たちの方法」が掲載された(手前味噌だが、筆者が翻訳を担当した)。
ところが同特集の企画のひとつ「海外文学翻訳者・研究者21人アンケート 注目の作家3名&日本語に翻訳されてほしい作品」のなかには、インドネシア文学関係者の名はなく、従ってインドネシア文学作品もひとつも挙げられていない。これはちょっと淋しい。これからもしかすると来るかもしれない(来るように仕向けるべき)汎アジア文学ブームに、インドネシア文学も一役買うようになってほしいと願っている。
アジア・ブック・フェスティバル
欧米文学偏重から汎アジア文学へ視線が向けられ始めているのは、日本だけではない。インドネシアでも、韓国・日本の文芸作品だけでなく、他のアジアの国々の文芸作品の翻訳出版も注目を集めるようになってきているように思える。「汎アジア文学」を意識するという点においては、むしろ日本よりもインドネシアのほうが積極的だといえるかもしれない。
インドネシアでのそういった汎アジア文学へ向けての試みのひとつが、毎年開催されているFestival Buku Asia(アジア・ブック・フェスティバル)だ。注目すべきは、このフェスティバルが政府系の機関や大学などの教育・学術団体の主催ではなく、Penerbit Haruという独立系の出版社が中心となり、patjar merahという文芸集団やその他の独立系出版社や書店などが協賛して開催されている点だ。文化政策臭がなく、自由で自発的でとても楽しそうだ。2024年は9月28日から10月6日までオンラインとオンサイトの両方で開催されていた。他の文芸フェスティバルでは、コロナ禍が終わるとともにオンラインでのライブ配信がなくなってオンサイトのみになってしまったものが多いが、このフェスティバルでは、オンラインでのイベントもちゃんと行われている点もありがたい。
そんなオンラインイベントのひとつをここで紹介したい。“Crossing Bordes to Empower Narratives and Change Perspectives”と題するトークセッションで、フィリピン出身で京都大学東南アジア地域研究研究所社会共生研究部門教授・作家のキャロライン・S・ハウさんとクウェートの作家・ジャーナリストのサウド・アルサノウシさんが対談を行い、インドネシアの作家・ジャーナリストのリザルディ・ユスフさんがモデレーターを務めた。
キャロライン・S・ハウは学術関係での著作が多いが、文芸作品でも高い評価を受けており、パリ在住の研究者・翻訳家のジャファル・スルヨムンゴロがハウの短編集2冊の中から12篇を選んでインドネシア語に翻訳したものが “Recuerdos de Patay / Lukisan Perkabungan”(『服喪の絵』)として出版されている。
サウド・アルサノウシの長編小説も、ズルファ・ヌル・アリマーの翻訳で “Batang Bambu”(『竹の幹』)のタイトルでインドネシア語版が出ている。この小説では、約半分がフィリピンを舞台として展開する。主人公はクウェートの名家の長男と出稼ぎに来ていたフィリピン人メイドとの間に生まれた息子、イサ/ホセだ。
イサの産みの両親は、肉体関係を結ぶ前に宗教婚を行い、イサ出生後には正式に婚姻届も出したので、イサはクウェート国籍保持者として登録された。けれども父親の家族はそれを認めず、結局、母はイサを連れてフィリピンに帰り、やがて父母ともにそれぞれの国で別の人と結婚して子をもうけた。父はそれでもイサへの送金を続け、いつかクウェートに迎えたいと手紙を送ってきていたが、イラクのクウェート侵攻とともに送金も連絡も途絶えてしまう。後になって、父がイラク軍の捕虜となり殺されたことが判明する。それでも父の親友の助けで、ついにイサは常に母から聞かされていた夢の国クウェートに帰還する。だが現実にはそこは夢の国でもなんでもなく、イサは「フィリピンではなにも持っていなかったけれど家族だけはあったのに、クウェートではなにもかも持っていても家族だけがない」ことに気づかされる。
フィリピンとクウェートは、長きにわたる植民地支配下にあったことや、近隣の国の軍事侵攻を受けて軍政下に置かれていた時期があったことなど、歴史的背景にも共通するものが少なくない。さらにサウド・アルサノウシさんは上記の長編小説執筆のためにフィリピンに関する取材を綿密に行ったこともあって、物語で戦争を語ることについて、世界のマージンに住む人々、あるいはマージナライズされた人々の声について、アイデンティティの重要性について、アジア内移民について、フィリピンの国民的英雄ホセ・リサールについて、ハウさんとアルサノウシさんの間で対話が弾んだ。
なかでも印象的だったのは、フィリピンにおけるホセ・リサールの存在の大きさについての話の中で、「国家」を作る難しさについて言及されていたことだ。グローバル化ということが盛んに言われるようになっているけれど、だれがその国に住み、だれが声を持つのか? いわゆる先進国ではあたりまえだと思われていることかもしれないが、“グローバル・サウス”では、まず「声を持つ」ところから始めなければならない状況も少なくない。
とても興味深い対話だったが、実はこのセッションにはもうひとり日本の作家の参加が予定されていた。けれどもその作家の辞退により、上述のふたりの対談となった。もしもその作家も参加していたら、どんなふうに話が展開して行っただろう? 戦争や植民地支配について語るとき、植民地化された歴史を持つ国の人々と、植民地化した歴史を持つ国の人々との間に、どんな対話が可能だろうか?
このセッションに参加したふたりの作家とその日本人作家の作風は、一見したところ大きく異なるものの、マージナライズされた人々の声という点では共通している。その日本人作家が参加したとしても、ひょっとすると話が噛み合わなかったのではないかと老婆心ながら危惧する一方、そういう共通項を梃子としてどんな話が交わされるか、とても聞いてみたかった気もする。
このアジア・ブック・フェスティバルのような汎アジア文学を志向するインディペンデントな催しに、日本の作家たちももっと積極的に参加するようになれば、もっと楽しくなるのになあと思う。言葉の壁があっても、いわゆる権威ある機関や団体が主催するものでなくても、このようなイベントに気軽に遠慮なく顔を出すような身軽さや、なんだかおもしろいからやってみようという良い意味での節操のなさが日本の作家にももっとあってもいいのではないだろうか。
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