いんどねしあ風土記(57):知られざる古代の仏教国際大学、ムアロジャンビ寺院群遺跡~スマトラ島ジャンビ州~(横山裕一)
~『よりどりインドネシア』第174号(2024年9月24日発行)所収~
インドネシアの仏教遺跡といえばボロブドゥール遺跡が有名だが、ジャワ仏教の源流でもあり、遥かチベット仏教などにも影響を与えたとされる大規模な仏教遺跡がスマトラ島ジャンビ州にある。6世紀から13世紀にわたるムアロジャンビ寺院群遺跡で、約4,000ヘクタールにも及ぶ範囲に115もの寺院跡が確認されている。遺跡は仏教や学問の教育機関として、当時インドのナーランダ僧院と並んでアジアの仏教学問の中心地だったことが徐々に明らかになりつつある。かつて海のシルクロードともいえる中国とインドを結ぶ中継点でもあったムアロジャンビ寺院群の当時の姿や、遺跡とともに暮らす現代の人々を紹介する。
東南アジア最大規模の仏教寺院群ムアロジャンビ
ムアロジャンビ寺院群遺跡は、スマトラ島中南部のジャンビ州にあり、スマトラ島最長の大河、バタンハリ川の約100キロ上流の内陸部に位置する。遺跡はバタンハリ川沿いの約7.5キロに広がり、範囲は約4,000ヘクタールにも及ぶ。これはジャワ島のボロブドゥール寺院遺跡をはじめ、カンボジアのアンコールワット遺跡よりも遥かに大規模で、仏教遺跡としては東南アジア最大である。これまでに確認された寺院跡は115ヵ所あり、今後も増える可能性があるという。
このうち11ヵ所の寺院跡が発掘調査を経て、レンガによる祭壇や建物土台部分などが復元整備されている。これらの寺院は隣接するものもあれば、森林などを挟み距離を置いて点在するものもある。しかし未調査、未整備の寺院遺跡がこれらの空間を埋めるようにあることから、かつては日本の京都をイメージするような寺院の密集地であったことが想像される。
出土した寺院の遺構は周囲を塀で囲われ、階段の設けられた門がある。また多くの寺で本堂の前に講堂などの建物が設けられている。大規模な寺院では敷地内も塀で区画が仕切られ、本堂以外に講堂や僧院などがあったとみられている。遺跡内で最も大きなクダトン寺院からは井戸も見つかっていて、本堂近くには太陽時計だったとみられる石もある。石の表面は摩耗が激しいものの放射線状に溝が施された跡が確認でき、中心部の穴に棒などを立ててその影の位置で時間を確認したものと考えられている。
ムアロジャンビ寺院遺跡の大きな特徴は、ジャワなどの仏教寺院遺跡と建物構造が異なる点だ。ジャワなどの仏教遺跡は建物全てが主にレンガや石で構築されているが、ムアロジャンビ遺跡では建物の土台など下層部分がレンガ造りで、その上に木造で建物や屋根が設けられていたことが、遺跡からの多くの材木片の出土で明らかにされている。レンガ部分には柱穴が施されたものもある。
本堂のレンガ造の土台遺構の形状は寺院によって異なり、なかには遺跡中心部に位置するグンプン寺院などのように高さ5メートル前後のものもある。これらの上に仏像が安置され、木造の上屋があったことを考えると、本堂の高さは10メートル以上にまで及んだことも推察できる。このように本堂だけでなく、木造で建てられた講堂や僧院、さらに木造屋根が施された門があった寺院が百以上も立ち並んでいたことを思い浮かべるだけでも、当時壮大な仏教施設だったことが容易に理解できる。
遺物による年代測定から、ムアロジャンビ寺院群は6世紀から13世紀にかけての遺跡で実に700年間にもわたって続いたことが判っていて、始まりの時期はさらに遡る可能性もあるという。日本の仏教伝来が6世紀半ばで最初の寺院とされる飛鳥寺が建立されたのが6世紀末から7世紀初頭とされているため、インドに近いスマトラ島では仏教がより早く普及していたことが窺える。
出土品の多くは現在、寺院群遺跡博物館が建設中のため直接確認はできないが、寺院群の中心部にあるグンプン寺院から首や腕の欠けた仏坐像が出土したのをはじめ、各寺院で仏具や儀式に使用されたとみられる銅鑼などが見つかっている。また、王国時代当時のムラユ(マレー)民族が大河バタンハリ川を下って航海する海洋交易民族であり、海外との行き来を裏付ける、大型船を描いたレンガもクダトン寺院から出土している。
さらに驚くべきことは、遺跡群が大河沿いにあることから洪水対策として遺跡周囲に大規模な運河が張り巡らされていることだ。現地では古代運河と呼ばれている。なかには寺院単体で日本の城郭のように濠が設けられているところもある。700年もの長きにわたり、当時の王国、人々にとっていかに重要な施設、地域として守られてきたかが窺える。
寺院数や遺跡が広範囲にわたることから、ムアロジャンビ寺院群遺跡が当時、スマトラ島中南部に限らず周辺地域における仏教の中心地だったとされているが、興味深いのは、この寺院群は単なる寺院ではなく仏教や学問の教育機関だったことが明らかになっていることだ。さらに当時の歴史背景や資料を紐解くと、ムアロジャンビ寺院群の存在がいかに国際的な広がりを持ち、仏教を介した情報の一大発信地であったかが浮かび上がってくる。
国際的な仏教学問の中心地
ムアロジャンビ寺院群は、現在のジャンビ州の州都ジャンビを都にした仏教王国、古ムラユ王国(Kerajaan Melayu Kuno)の時代に建設が始まったとされている。中国・唐時代の記録に645年、古ムラユ王国が唐に使節を送った記録があることから、古ムラユ王国は7世紀前半、あるいはそれ以前から存在していたとみられている。また、中国の記録には王宮が小高い丘の上にあったと記述されていて、現在ジャンビ市街中心部でバタンハリ川近くの丘の上にある、ソロッシピン寺院遺跡(Candi Solok Sipin) が古ムラユ王国の王宮があった場所だとされている。ムアロジャンビ寺院群はこの王宮からバタンハリ川沿いに24キロ下流に位置している。専門家によると、当時寺院群建設にあたっては政治の影響を避けるため王宮から一定の距離を保ったものとみられている。
その後、古ムラユ王国のあったジャンビ一帯は7世紀末までに、現在の南スマトラ州パレンバンを中心に栄えていたスリウィジャヤ王国の拡大に伴い支配下に収められている。古ムラユ王国と同様、スリウィジャヤ王国のムラユ民族は海洋交易民族でもあったことから、スリウィジャヤ王国はスマトラ島やジャワ島、さらにはマレー半島などにまで国土を広げている。このため、海路を通じての諸外国との交流も盛んだったことが窺える。
この頃、中国の僧侶、義浄がインドへ航海する途中にスリウィジャヤの地に訪れた記録が残されている。義浄の著書『南海寄帰内法伝』などによると、671年、中国・唐を出港した義浄は20日後にスリウィジャヤ(室利佛逝)に立ち寄っている。スリウィジャヤの当時の様子を義浄は、大乗仏教が盛んで千人余りの僧侶が学問に励んでいたと記している。
スリウィジャヤ王国の王都はパレンバンだが、千人もの僧侶が活動できるような仏教遺跡が見つかっていないことなどから、義浄が訪れたのはスリウィジャヤ王国に支配された後のムアロジャンビ寺院群だった可能性が高いとされている。義浄はそこで半年間滞在し、サンスクリット語を学んだ後、インドに渡ってナーランダ僧院で仏教学を深めている。
これまでの考古学調査や石碑などの歴史資料により、ムアロジャンビ寺院群では仏教をはじめ哲学、語学、芸術、医薬学などが学ばれていただろうと考えられている。まさに僧侶たちにとっての大学のような存在であり、インドの仏門修行や学問を学ぶ中心でもあった、ナーランダ僧院(5世紀前半~12世紀末)に匹敵するほどの学問の中心地だったとも位置付けられている。古ムラユ王国やスリウィジャヤ王国だけでなく、周辺地域の修行僧がムアロジャンビ寺院群で修行や学問を修めたうえで、インドのナーランダ僧院に渡ってさらに仏門や学問を深めるのが、当時の僧侶の修行過程だったと考えられている。義浄のように中国からも多くの僧侶たちがその後、同じ経路を辿ったものとみられている。ムアロジャンビ寺院群遺跡の僧院跡や寺院周辺部から多量の生活用品としての中国・唐代の陶器や貨幣が出土したことがこれを物語っているという。
義浄以外にも、11世紀初頭にはインドから有名な僧侶アティーシャもムアロジャンビ寺院群に留学し、当時インドではすでに学べなくなった大乗仏教の菩提心や般若心経などを地元ムアロジャンビの僧侶ダルマキルティから学んだとされている。アティーシャはインドに戻った後、内紛で仏教が衰退しかけていたチベットから招聘を受けて赴き、生涯を終えるまで12年間布教を続け、現在のチベット仏教に影響を与えたとされている。
アティーシャが伝えた教えのなかに、チベット仏教で現在も受け継がれている「トンレン」(Tonglen)という瞑想実践における概念があるという。これは「あなたの苦痛を受け入れ、私の幸福を授ける」というもので、今日のインドネシア語などでの「ありがとう」(Terima Kasih/ 受けとり、授ける)の語源に通じる概念である。アティーシャがムアロジャンビ留学の際、師事したダルマキルティから学んだ概念だといわれている。このようにムアロジャンビ寺院群は単なる古ムラユ王国やスリウィジャヤ王国での仏教の中心地にとどまらず、仏教の発祥地インドをはじめ中国、さらにはチベットに至るまで影響を与えるほどの国際的な仏教や学問の情報発信地だったことがわかる。
このようにムアロジャンビ寺院群遺跡はアジア史、思想史上重要な遺跡で、東南アジア最大規模であるにも関わらず、ジャワ島のボロブドゥール遺跡などと比べるとインドネシア国内でもまだあまり広く知れ渡っていないのが現状である。その原因は調査がまだ始まったばかりだという点が挙げられる。この遺跡は1824年、イギリス人将校によって発見され、インドネシア政府による最初の発掘調査は1970年代。そして2010年代から本格的な近代調査が進められている。現在、発掘も全体の約1割にとどまっていて、今後の調査によって全容が解明されるにつれて遺跡の歴史的価値がさらに高まり、インドネシアを代表する文化財の一つとして広く認知される可能性を大きく秘めている。
ムアロジャンビ寺院群遺跡もボロブドゥール寺院遺跡同様、数百年間にわたって歴史から忘れられた存在であり続けた。地元の言い伝えでは、大河バタンハリ川の氾濫が大洪水を起こし、寺院群が泥に埋まってしまったためだとされている。洪水に伴い疫病が広まって住民も移住し、戻ったのは百年以上経ってからだったため、寺院群があったことも忘れ去られた。さらにイスラム教の普及に伴い地域の仏教色も一掃されていった。
しかし近年では、大規模な運河や濠が設置された寺院群が洪水で跡形もなくなるほどまでに消滅するのは不自然だとする見方も強まっている。このため、増加したイスラム教徒によっての破壊や、近くにある丘陵地の大規模噴火と地震で遺跡が壊滅し、火山灰などで埋め尽くされた可能性が高いとみられている。
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