見出し画像

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第97信:『やがて、霞立ち込めて』の幾重にも重なる霧 ~ラストシーンが意図するモヤモヤの正体~(轟英明)

〜『よりどりインドネシア』第183号(2025年2月9日発行)所収〜

横山裕一様

ここしばらく、日本は連日の寒波です。幸い、私の住んでいる首都圏では大雪こそ降っていませんが、寒さが厳しいのは例年以上の感覚で、東北や北陸では災害級の大雪が降っていると報じられています。一方で、日本とインドネシアの人的交流は観光客含めて盛んなようで、昔のご近所さんがツアーに参加して来日中、日本の冬を楽しんでいる模様です。折しも特定技能や技能実習生として中期滞在し働くインドネシア人が大幅に増加中であり、同時に雪や桜に憧れて来日するインドネシア人観光客もますます増えるのでしょう。

ところで、横山さんの筆による前回第96信の内容を興味深く読ませていただきました。私自身は映画と音楽の関係を黒澤明が唱えて実践した「対位法」で評価することがほとんどで、映画と主題歌の関係について考えたことはほとんどありませんでした。これは80年代以降の日本映画で主流になった、作品のテーマやモチーフと必ずしも有機的に結びついているとは言い難い、やや強引とも思えるタイアップ式の宣伝に反発を覚えていたせいでもあります。相乗効果を狙っているようで、実のところ売らんかなだけの商業主義があからさますぎて、映画にも歌にも失礼ではないか、そう考えていました。

黒澤明的な対位法とは、例えば主人公が惨めで絶望に打ちひしがれている場面において、陽気で明るい歌や音楽がBGMとして流れ、更に主人公の惨めさが際立つ、そうした音楽の使い方を指します。映像と音楽が掛けあわさって新しい表現が生まれる、これこそ映画のマジックです。ですからそれとは正反対の方法論に私は辛口になりがちです。主人公の心情をセンチメンタルに歌い上げる主題歌を映像にただかぶせるだけの手法は、あまりに安易でただの手抜き、酷い場合だと下品だなあと正直思えてなりません。

ただ、これは私がミュージックビデオ的感性を持ち合わせていないことの証左であるだけなのかもしれず、横山さんご指摘の作品群を再見して改めて映画と主題歌の関係を考え直してみたいと思います。

**********

『やがて、霞立ち込めて』(Kabut Berduri)ポスター。
日本語吹き替え、日本語字幕共にあり。imdb.com から引用。

さて、ここから本題です。前回に続き『やがて、霞立ち込めて』(Kabut Berduri、以下『霞』)について、引き続き論じていきたいと思います。

まず、インドネシア語の原題について少し解説しましょう。kabut は「霧、霞」、berduri は「トゲのある」をそれぞれ意味しているので、直訳するなら「茨の霧」といったところでしょうか。一方、英語題名はBorderless Fog「無境界の霧」です。これは物語の舞台がマレーシアとインドネシアの国境付近であることに引っかけているわけです。が、制作者はより深い意味を原題と英語題の両方に付与しているのかもしれません。

国と国の間には境界があるが、霧にはそもそも境界などない。ボーダーとは一応存在するようで、実際には霧の如く、そんなものは存在しない。そして、この映画における霧とは単なる気象状態に留まるものではなく、主人公の忌まわしい過去の経験と記憶、更にはマレーシアとインドネシア両国にまたがる歴史の暗部、そうした意味も「茨の霧」という原題には込められているではないでしょうか。日本語題名の『やがて、霞立ち込めて』を含めて、なかなかどうして、よく練られたタイトルだと思います。

そして、前回の繰り返しで恐縮ですが、やはりこの作品の最大の魅力と見どころとは、主演女優プトゥリ・マリノのビジュアルに他なりません。超ショートカットにスリムな体型、そしてサングラスにシンプルな衣装。キレイとかカワイイとかいう形容詞では全くもって不適切、そう、まさにカッコいいと形容する他ない圧倒的なビジュアルです。痺れます!

実のところ、彼女が刑事役を演じるのは『霞』が初めてではありません。Netflixで全世界に一斉配信されたアクションコメディ『ザ・ビッグ4』(The Big 4)の方が刑事役としては先行していました。元々デビュー作の『ひとりじめ』(Posesif)において水泳飛込選手を演じた時から、その身体能力の高さは同年代のインドネシア人女優の中でも際立っていたと思いますが、世界的大ヒット作『ザ・ビッグ4』での過激なアクションを経ての『霞』では、ハリウッド女優にも比すべき抜群の存在感を示しています。男装の麗人というわけではなく、逆に過剰にセクシーな女刑事でもない。むしろ中性的なビジュアルにごくごくシンプルなファッションを組み合わせだけなのですが、主人公サンジャをプトゥリ・マリノが自然体で演じた結果、強さも弱さも、優しさも激しさも備えた、実に陰影のある主人公が立ち上がりました。彼女の存在抜きで、『霞』という野心的な作品は成立しなかったはずです。「こんなにカッコいい女性刑事が現実に存在するはずがない!」という無粋なツッコミを無効化するほどの圧倒的なカッコよさ。これこそ『霞』の第1の見どころです。

とは言え、『霞』が主演女優のビジュアルだけで物語を最後まで引っ張る作品でないことも同時に指摘しなければなりません。インドネシア映画においてジャンルとしてこれまで成立していなかったに等しいクライム・スリラーもの、或いは猟奇殺人犯を刑事が追跡するミステリーもの。監督を務めたエドウィンに限らず、多くのスタッフやキャストにとっても挑戦であった作品、それが『霞』という作品です。

本作において特筆すべきは、最初から最後まで徹底的に観客を翻弄し続けながらも全く中だるみしない、巧妙な語り口であり、時折観客を惑わすかのようなショットは散見されても無駄なショット自体は存在しない、非常に完成度の高い画と音声で終始構成されている点です。凄惨な連続殺人事件を扱っているにもかかわらず、物語がどのような結末を迎えるのか、観客は最後まで目を離すことができないのです。これは「言うは易く行うは難し」の典型例で、監督一人の演出力に留まらない、スタッフやキャストら制作に関わった映画人たちの力を合わせて初めて可能だったのではないかと思います。

2017年公開の長編第三作『ひとりじめ』以降、それまでの実験的で前衛的な作風から商業路線に転じたエドウィン監督は、常に新しいジャンルとテーマに挑戦し、並みの水準以上の且つ観客を唸らせる作品を連打し続けているのですから、いやはや脱帽です。

ただし、全てをひっくり返すかのようなラストシーンをもって、『霞』をミステリーものとして失敗作と断じる観客がいることも確かです。私の友人は本作を最後まで見て、「なんか観終わって余計にモヤモヤしてしまった。あのラストは一体どういうことなの?!」と不満を漏らしていました。この感想には、なるほど頷けるところがなくもありません。

が、『霞』ほど最後の最後まで引っ張るインドネシア映画は果たしてこれまでどれほど作られてきたのでしょうか?管見の限りではほとんどなかったように思えます。ラストの解釈が観客によって割れることを差し引いたとしても、脚本・ロケハン・撮影・衣装・音楽・編集そして演技、全てのパートにおいて完成度が非常に高いことは疑いなく、これが『霞』の第2の見どころです。なお、ラストシーンの解釈については本稿の最後で再び論じたいと思います。

『やがて、霞立ち込めて』(Kabut Berduri)主要キャラクター。 左からトーマス(ヨガ・プラタマ)、サンジャ(プトゥリ・マリノ)、 パンチャ署長(ルクマン・サルディ)。imdb.com から引用。

3番目の見どころとして言及すべきなのは、インドネシアとマレーシアの国境付近に住む西カリマンタン州のダヤク人社会が今まさに抱えている社会問題に『霞』が光を当てている点です。彼らがロングハウスと呼ばれる高床式の巨大で伝統的な家に住んでいるのは有名で、実際『霞』にもロングハウスでの描写があります。レイラ・チュドリーによるインタビューの中で、エドウィン監督は20年前にこの地域のことを人類学者の友人から知り、ずっと心に残った鮮烈な印象が『霞』というクライム・スリラーに結実した、と答えています。作品内に文化人類学的な視線は残っていますが、同時に劇映画というフォーマットの中でこの地域が抱える深刻な問題、子供たちの人身売買や違法伐採や経済開発の中で周縁化されるダヤク人伝統社会、それらをどう観客に伝えるか、腐心した様子がうかがえます。

ただ、ダヤク人住民の視点に立つならば、本作における社会問題への言及にはやや物足りないものがあるかもしれません。物語内で少女たちは人身売買の罠から逃れますが、人身売買の構造そのものが事細かに暴かれるわけではありません。違法伐採問題も、パンチャ署長が関わっている裏ビジネスの実態も、その一部が描かれるだけで、それとなく匂わせる程度に留まっています。その意味では、現地社会に対して誠実なアプローチはとっていても、社会派ものとしてはやや不徹底なスタイルとの批判も可能でしょう。ただ、4番目の見どころ、そしてラストシーンとも関連しますが、中央から見下され忘れ去られている辺境の民からの異議申し立てというスタイルそのものは成功していると思います。

その4番目の見どころとは、両国の公の歴史からは半ば忘却された、インドネシア領西カリマンタン州とマレーシア領サラワク州をまたぐ歴史の闇を観客に思い起こさせる仕掛けです。物語内で犯人捜索の鍵を握るらしきダヤク人の老人ブジャンは、アンボンという共産主義ゲリラの霊が猟奇殺人犯のことを教えてくれたと述べ、PARAKU(北カリマンタン人民軍)という単語をつぶやきます。PARAKUについて詳しい説明は物語内でおこなわれず、あくまで仄めかされる程度にすぎません。

しかし、ブジャンの「何を見るのか、あなたが選ぶのだ」という声がサンジャの脳裡に響き、アンボンを連想させる逆光の椰子が画面に映った直後、観客はこれで物語が終わったと思った瞬間、突如再び画面が切り替わり「1972年ボルネオ島」という字幕が出ます。後ろ姿の少年が靴を川でひたすら洗っているだけなのですが、靴底の汚れはまるで血のように赤く、エンドクレジットが流れ始めます。そして鮮やかな赤い色の熱帯魚アロワナが泳ぐショットへと再び転換。BGMは東ヌサトゥンガラの有名な童謡 “Potong Bebek Angsa”ですが、重低音にアレンジされた結果、恐ろしく不気味で重苦しい雰囲気の中で『霞』は幕を閉じます。

Potong bebek Angsa - Lagu Anak Indonesia Populer
https://youtu.be/060G_9sJ3DU?si=Djv8sjgb2Xc0BIAv

一見蛇足のようにも見えるエンドクレジットが何を意味しているのか、彼の地の歴史を知らない観客は置いてけぼりにされてしまう懸念は否定できないものの、この不気味なエンディングは “Potong Bebek Angsa”の単純なメロディーと相まって観客に忘れがたい印象を与えます。

種明かしをするなら、靴を洗う少年とは幼き日のブジャンであり、PARAKU掃討作戦に従事したという彼の過去を映した場面なのでしょう。1960年代前半、マレーシア粉砕を叫んだ当時のスカルノ政権はPARAKUの前身であるサラワク人民ゲリラ部隊を支援しましたが、反共を掲げるスハルト政権は掌を返して掃討作戦に出ます。とりわけ1967年に国境付近に住む中国系住民がPARAKU支持者としてダヤク人たちから激しい迫害を受けて州都ポンティアナックやシンカワンへ大量流出したことは「赤いボウル事件」と呼ばれ、ダヤク人によって多くの残虐行為がおこなわれたと言われています。

Peristiwa Mangkuk Merah 1967
https://id.wikipedia.org/wiki/Peristiwa_Mangkuk_Merah_1967

ただ、エンドクレジットの場面はこの事件そのものには全く言及しておらず、また物語内全体においても中国系とはっきり特定できる主要人物は出てきません。ですから、この解釈は私の独りよがりな深読みの可能性も否定できないところですが、それにしてもあまりにも不気味な終わり方であるのは間違いありません。横山さんはこのラストシーンからエンドクレジットへ至る場面をどのように解釈されるでしょうか?

『やがて、霞立ち込めて』の一場面。imdb.com から引用。

**********

さて、以上4つの見どころを指摘してきましたが、できるだけネタバレにならないように注意して書いてみました。ここから先はミステリーのネタバレ全開、いわゆる「猟奇殺人の実行者は誰か?」という核心に触れていきます。『霞』の本編を観るまでネタバレは読みたくないという方は、ここで引き返していただければと思います、

ここから先は

3,786字 / 1画像
この記事のみ ¥ 150

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?