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往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第89信:『母象』シーズン1の結婚コメディからシーズン2は妊活コメディへ ~妊活コメディのモヤモヤ~(轟英明)

~『よりどりインドネシア』第174号(2024年9月24日発行)所収~

横山裕一様

すでに9月も半ばを過ぎ、本来であれば秋らしく涼しい毎日のはずですが、今なお日本の各地で猛暑日の日数を更新、先日は東京でも最高気温35度に達したとの報道がありました。いやはや、早く来い来いお正月、です。

ところで、最近世界的に大ヒットしている日本発Netflix配信作品といえば、綾野剛やトヨエツこと豊川悦司が主演している『地面師たち』ですが、横山さんはもう鑑賞されたでしょうか。私は先日イッキ見したのですが、なんと観客が全く予想できない場面で突如画面からインドネシア語が聞こえてくるではありませんか!しかも前半の山場とも言うべきところです。いやはや、かなり驚きました。あのトヨエツの口からインドネシア語の台詞が聞けるとは!

もっとも、トヨエツらのインドネシア語の台詞はほんの少しだけで、インドネシア語である必然性は実のところ全然ありません。仮にインドネシア語ではなく、タイ語や韓国語や中国語、或いは英語があの場面で使われていたとしても、本筋に影響を及ぼすことはないでしょう。しかし、インドネシア映画とその業界で働く映画人たちを応援している私としては、『地面師たち』の制作者があの場面でインドネシア語を敢えて選択したであろう理由を、この場を借りて大胆に推測してみたいと思います。以下ネタバレを含むことをご了承ください。

『地面師たち』ポスター。実際に起きた詐欺事件を元にした犯罪サスペンスシリーズ。
面白いです!imdb.com から引用。

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インドネシア語が聞こえてくるのは、リリー・フランキー演じる下村刑事が作業着を着た謎の男たち3人によって東京のビジネス街の路上で白昼堂々拉致されてしまう直後です。拉致した男の一人は、携帯電話で豊川悦司演じる地面師のリーダーであるハリソン山中に連絡を取り、インドネシア語を話します。廃墟ビルの屋上で待っていたハリソン山中は、到着した彼らに対して 「アク・インギン・ベビチャラ・デンガンニャ。ルパスカン・ディア」(俺はこの男と話がしたい。こいつを放せ)と指示します。この作業着の男たちはハリソン山中に雇われている殺し屋であり、劇中幾度も登場しますが、台詞が確認できるのはこの場面だけです。彼らは日活アクションに出てくるようなスタイリッシュな殺し屋などではなく、人知れず殺人を請け負って依頼者にとっての邪魔者を葬る、闇の必殺仕事人のようです。

上記場面の日本語字幕には(外国語の発話)と出るだけなので、インドネシア語が使われる必然性はまるでありません。しかしながら、ここ10年ほどのインドネシア映画の傾向と日本で観られる作品、さらに現実世界を念頭に考察してみると、いやいや、殺し屋がインドネシア語を使うインドネシア人であるのはひょっとしたら必然なのかもしれないのです。

現実に、インドネシアの次期大統領であるプラボウォ・スビアントはスハルト政権末期に陸軍特殊部隊コパススを率いて実際に活動家らを拉致殺害していたと言われています。何人かはスハルト政権崩壊後に解放されたものの、本誌128号において太田りべかさんが取り上げた抵抗の詩人ウィジ・トゥクルのように今もって行方不明のままの活動家たちもいます。人をさらってぶち殺すとか朝飯前、その事実が人に知られることもなく、しかも殺し屋の元締めが次期大統領になれる、それがインドネシアという国なのです。

とは言え、『地面師たち』はドキュメンタリーではなく劇映画のフォーマットによるフィクションなのですから、フィクションの文脈で「なぜ殺し屋はインドネシア人なのか?」という謎を解き明かしてみましょう。

まず、ここ10年ほどの間に日本そして世界で最もよく知られ見られたインドネシア映画とは凄まじいアクションと暴力描写が売りの作品でした。警察官、ヤクザ、ギャング、殺し屋、武術家、そして殺し屋たちが画面を血まみれにする作品も珍しくはありません。

目の肥えたアクション映画ファンの注目を浴びた2011年の『ザ・レイド』(The Raid)は日本だけでなく世界中で大ヒット。2014年の続編『ザ・レイドGOKUDO』(The Raid2: Berandal)には、アクションでの絡みこそないものの、遠藤憲一ら日本の俳優も出演しています。

さらに2016年の『ヘッドショット』(Headshot)は日本の日活が制作に関与。Netflixが独占配信した2018年の『シャドー・オブ・ナイト』(The Night Comes for Us)の制作に日本の会社は絡んでいませんが、アクション映画の極北と言ってもいいほどの凄惨な暴力描写は日本のコアなファンから絶賛されました。前者は記憶喪失の殺し屋がかつての仲間たちと死闘を演じ、後者は極悪非道の犯罪組織の一員だった男が全てを敵に回して無垢な少女を救うというプロットです。もっとも、実のところプロットは有って無きが如し。制作者がやりたい放題やりまくる、アクションのためのアクションが延々と続くのが両作の特徴です。

とりわけ、『シャドー・オブ・ナイト』の登場人物たちは、ほとんどゾンビと変わらないほどの不死身ぶりを観客にこれでもかと見せつけ、ウルトラスーパーエクストリームバイオレンス大作と形容するしかない作品です。ジャカルタにおいては肉屋も警察もアパート住民も誰一人信用してはいけないし、ジャカルタの港湾地区は無法地帯。そのように観客に錯覚させるほど、情け容赦のない過剰な描写が終始満載でした。血みどろアクションものには免疫があると思っていた私ですら、鑑賞後にぐったり疲労してしまったことを告白しなければいけません。

『シャドー・オブ・ナイト』ポスター。主人公イトウに救われる少女レイナを除き、
登場人物全員が最初から最後まで殺しまくります。imdb.com から引用。

なお、ティモ監督はその後も2022年に『ザ・ビッグ4』(The Big 4)を発表、そして来月10月には新作『ロスト・イン・シャドー』(The Shadow Strays)が同じくNetflixにて配信予定です。

これらの作品が日本を含む世界の映画人に「インドネシアのアクション映画はスゴイ!」という印象を与えたことは確実でしょう。それ故「凄腕の闇の殺し屋ならインドネシア人」というインスピレーションが『地面師たち』の制作者に沸いた可能性は大いにありうるはずです。

さらに、『地面師たち』の制作者に影響を与えたであろう作品が、実は他にも二作品あります。ひとつは、ティモ・チャヤントとキモ・スタンブルの共同監督ユニット、即ちモーブラザーズによる日イネ合作映画『KILLERSキラーズ』(Killers)です。主演は日本側が北村一輝、インドネシア側がオカ・アンタラ。北村一輝演じるノムラは殺人鬼、しかも殺人行為を撮影して悦に至るという変態ぶりです。興味深いのは、『地面師たち』ではトヨエツが同様の狂人を演じる一方で、北村一輝はトヨエツによって、「最もフィジカルで、最もプリミティブで、最もフェティッシュに」ぶち殺されてしまうところです。つまり、トヨエツ演じるハリソン山中の原型をかつて演じた北村一輝が、最新作『地面師たち』では逆の立場を演じているのでした。嗚呼、俳優とはなんと因果な仕事なのか。

そして、もうひとつ言及すべき作品は、日本映画界が誇る鬼才・三池崇史監督による怪作『極道大戦争』でしょうか。同作は日本が舞台の日本映画ですが、とにかく徹底的に荒唐無稽を極めた話が最初から最後までずっと続きます。ヤクザもの、バンパイアもの、アクションもの、ナンセンスコメディもの、怪獣もの、これら全てを内包した、まさにジャンル分け不可能な怪作と呼ぶほかない作品です。市原隼人演じる主人公影山がヤクザバンパイアになってから本格的にストーリーが動き始めるのですが、そのキッカケは、リリー・フランキー演じるヤクザの組長がヤヤン・ルヒアン演じるインドネシア人殺し屋に殺られ、死に際の組長から噛み付かれたからでした(この文章で何が書かれているのかサッパリわからない方は是非本編を観てください。本当にこういう話です!)。

ヤヤン・ルヒアンは『地面師たち』には出演していませんが、わざわざインドネシアから出張する程度には(フィクションの)インドネシアには凄腕の殺し屋が存在する、そんな設定を観客に信じ込ませる程度には存在感のある役を『極道大戦争』では楽しそうに演じていました。何にせよ、もはや名優の域に達しているリリー・フランキーは、『極道大戦争』ではインドネシア人に殺され、『地面師たち』ではインドネシア人に拉致されて非業の最後を遂げるわけで、つくづくインドネシア人とは相性が悪いようです。合掌。

以上、『地面師たち』の殺し屋がインドネシア人であるとの設定は、これらの諸作品からのインスパイアの結果ではないだろうか、そのように私は睨んでいます。ただし、今のところ『地面師たち』の制作者インタビュー等を私は全く読んでおりません。例によって、ただの妄想かもしれませんので、その場合は笑い飛ばしていただければ幸いです。

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本題に入る前にもうひとつ、横山さんが前回第88信で取り上げた『クレテック娘』(Gadis Kretek)について短くコメントしておきます。結論だけ先に書いてしまうと、Netflix版『クレテック娘』は、底抜けポリコレメロドラマ大作であるというのが私の評価です。底抜けとは物語の肝心の土台がヌケていることを、ポリコレとはポリティカル・コレクトネス、即ち「政治的に正しい」表現を、それぞれ意味します。メロドラマ大作であることは予告編等を観れば一目瞭然で、1965~66年の政変を時代背景とした豪華なキャストとセットが作品の売りとなっています。

Netflix版『クレテック娘』への一般的な高評価はなにも横山さんだけに限ったことではなく、ソウル国際ドラマ賞で最優秀ミニシリーズに選出された事実が示すように、世界中で好評を博したことは間違いありません。時代考証や衣装に予算をちゃんとかけ、インドネシアに特に興味のない視聴者にも興味を持ってもらえるデザインをポスターはじめあらゆる媒体で徹底しています。クレテック煙草の製造過程をじっくり見せるところは間違いなく本作の見所の一つです。さすが、世界的動画配信サービスのNetflixです。

しかしながら、細部がどれだけ凝っていても、予算をどれだけ費やそうとも、肝心要のストーリーと人物造形がまるでダメダメで視聴者の共感を呼ばないのは、一体どうしたことなのか?

私がメロドラマは苦手であることを差し引いても、メロドラマのストーリーが観客をイライラさせ、さらにツッコミを入れられるように隙だらけであるのが常道であるとしても、これはちょっとないんじゃないの?と言いたくなるほど批判的なツッコミをせざるを得ません。アリオ・バユ演じるスラヤのエクスキューズ(言い訳)を後半では延々と見せられてウンザリですし、赤狩りの加害者家族と被害者家族が最後はカップルとしてくっつくというあからさまな政治的和 解の提示は原作にはありません。ダラダラ進むのがメロドラマの王道とは言え、全体的に物語のペースがのろすぎるうえに、致命的なことにディアン・サストロワルドヨ演じるヒロインのジェン・ヤーにまるで魅力が感じられません。早い話、世界映画史上の傑作『市民ケーン』をなぞるように謎めいた一言で物語が始まったのなら、謎は謎のままで物語を閉じてもよかったんじゃないの?

太田りべかさんが本誌149号で原作を詳細に論じられたおかげで原作の面白さを私は知っているだけに、Netflix版シリーズ全体の評価としてはどうしても辛口にならざるを得ません。横山さんは敢えて原作との相違を等閑視して論じていますが、原作未読の友人も原作既読の別の友人も「全然面白くない」との評価を下しているので、あながち私の独りよがりな感想というわけでもなさそうです。

ポリコレという表現は時として揶揄を含意する形でも使われるため注意を要する単語ではありますが、Netflix版『クレテック娘』においては、非常に残念なことに、「政治的に正しいこと」が作品をつまらなくしてしまっている面が否定できません。おしどり映画監督夫婦として有名なカミラ・アンディニとイファ・イスファンシャーの初の共同監督作品だけに、公開前は非常に期待していたのですが、うーん、映画制作というのは本当に難しいものです。

これ以上書き続けると、批評というよりも単なる悪口の羅列になってしまうため、『クレテック娘』については一旦ここで打ち止めとします。できるならば、私のようにちゃんと原作を読了していない人間ではなく、原作をちゃんと読み込んでいる太田りべかさんのような方に原作とNetflix版の徹底比較をやっていただきたいところですね。

最後に一つだけ本作への感想を付け加えるなら、「裏切り者は花瓶ではなく灯油ランプでアタマをかち割るのが道徳的に正しい!」です。あまり積極的には本作をおススメしませんが、気になる方はご自身でNetflix版を鑑賞して内容を確認していただきたいと思います。日本語吹き替え版、字幕版、いずれも揃っています。

『クレテック娘』ポスター。インドネシア現代史も絡んでくる、
クレテック煙草製造をめぐる愛憎劇。imdb.com から引用。

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さて、ようやくここから本題です。今回は前回での予告どおり、妊活コメディの『母象 シーズン2』(Induk Gajah Season2、以下シーズン2)を取り上げます。前作『母象』(以下シーズン1)については本連載の第63信で結婚コメディものの系譜に位置づけて論じました。日本ではアマゾン・プライムビデオの会員であれば、VPNなどを使用せずともシーズン1をそのまま鑑賞することができます。残念ながら、シーズン2はVPNを通して米国などのサーバーにつながなくては観られません。理由は不明ですが、日本からだとインドネシアのサーバーにつなげてもなぜか観られませんので、この点ご注意ください。

シーズン1では、バタック人の母親ウリ(ティカ・パンガベアン)が30歳になっても食べてばかりの独身の一人娘イラ(マルシャンダ)を何とか結婚させようとあの手この手で苦心惨憺する様子をコメディとして描いており、第一話から笑えるネタ満載でした。ウリのモーレツママぶりも、イラの肥満ネタも、ある意味バタック人及び肥満者に対するステレオタイプをそのままなぞった笑いであり、単純と言えば単純な筋立てです。ただ、シーズン1はそこからさらに突き抜けて、最終的にはバタック社会に限定されない普遍的な母娘の情愛の話として非常にうまくまとめていたところが一番の見所でした。インドネシア社会においてマイノリティに属するバタック人社会の特殊性を笑いのネタにしているかと思いきや、実は極めて普遍的な母娘の絆を主題としていたことが最終話に視聴者に伝わる構成は見事の一言。大いに笑って泣けるドラマシリーズです。

ただし、個人的にひっかかった展開がなかったわけではありません。

互いの親に結婚を急かされ、窮余の策として付き合うふりをして時間を稼ぐことにしたイラとマルセル(ディマス・アンガラ)は結局お互いがひかれあっていることに気づき、結婚してメデタシメデタシ、これがシーズン1の終わり方でした。結果から見れば、親の敷いたレールに二人はそのまま乗っているだけです。私は恋愛至上主義者ではありませんが、はてこれで本当にいいのかな?と思わないでもありませんでした。いわゆるモヤるというやつでしょうか。

要は、結婚の意義について突き詰めて考えている様子のなさそうなカップルをウソっぽく感じてしまうのですね。これは大規模な非婚化と少子化が現在同時進行中の日本社会に私が住んでいるせいであって、結婚そのものがデフォルトのインドネシア社会を日本と同様に考えてはいけないことを頭では一応理解できるのですが、しかし親世代の凄まじい結婚圧力にウンザリしている子供たちという構図からは、結婚そのものに懐疑的でノーという答えがイラとマルセルから出てきてもおかしくはない、そんな気もします。まあ、この問題を突き詰めると、伝統的価値観の完全な否定につながりかねず、コメディとして終わらせるにはあのような結末が無難であったことも予測はつくのですが・・・。

『母象 シーズン1』ポスター。子役出身マルシャンダの久々のヒット作にしてハマり役。
imdb.com から引用。

ところで、結婚に至るまでのドタバタをコメディとして描いたシーズン1と異なり、結婚後に妊娠するまでのドタバタを描いているのがシーズン2です。所謂「妊活コメディ」への微妙なジャンル変更というわけで、ストーリー展開はシーズン1とほぼ同じながら、ギャグの様相は若干変化しています。

まず、イラの肥満ネタは完全に影を潜め、その代わりなのか、妊活ということで、セックスネタが増えています。と言っても、テレビで放映可能な内容ということなのか、コンドームネタが目立ちます。マルセルがコンドームをミニマートで購入する際にどんなコンドームが欲しいかを店員と大声でやり取りする羽目になってしまう場面は、ありがちと言えばありがちな、ベタベタな展開ながら、やはり笑えます。

以下、簡単にシーズン2のあらすじを紹介しておきましょう。

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